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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 音を揃える夏

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第23話 私も吹いたんだよ

 指揮者の腕が下りた。


 最初の音が、ホールへ放たれる。


 課題曲『青空へ続く道』。


 由実は、自分の音がきちんと鳴っているか確かめたくなった。


 もっと強く吹けば、自分のテナーが聞こえるかもしれない。


 けれど、その考えを息と一緒に押し戻す。


 自分を聞かせるためではない。


 全員と、最初の一歩をそろえるために吹く。


 真琴の音の立ち上がり。


 香苗のアルト。


 莉央の低音。


 周囲の部員が息を吸う気配。


 そのすべてを受け取り、由実は赤いテナーの音を重ねた。


 夏期集中練習で、何度も止められた冒頭だった。


 音の入りがずれた。


 八分音符が短すぎた。


 低音が重くなり、木管が先へ急いだ。


 由実の音程は、出した直後に上ずり、伸ばしているうちに下がった。


 たった数小節をそろえるために、何度同じ場所へ戻ったか分からない。


 今、指揮は止まらない。


 明るい旋律が、舞台から暗い客席へ広がっていく。


 由実はチューナーの針を思い浮かべなかった。


 周囲の響きの中で、自分の音が浮いていないかを探す。


 少し前へ急ぎたくなるのを抑える。


 低音の重さへ引っ張られすぎず、上で動く旋律の歩幅を聞く。


 一人ずつ違う音を吹いている。


 それでも、全員が同じ方向へ進んでいた。


 練習では、ばらばらに聞こえたマーチだった。


 今日は一つの道になっている。


 中盤へ入る。


 由実は、一つの音をどこで切るのか、一瞬だけ分からなくなった。


 早く離せば、木管の流れから浮く。


 長く残せば、次の音を邪魔する。


 隣で香苗の息が変わる。


 真琴の音が、同じ位置で離れる。


 由実も舌を使い、音を切った。


 三人の音が、ほとんど同時に消える。


 その静けさから、次の旋律が始まった。


 由実は楽譜を追いながら、ほんの少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。


 自分一人では決められなかった音の長さを、周囲の音の中で見つけられた。


 曲は終盤へ進む。


 照明の熱が頬へ当たり、襟元に汗がにじむ。


 手のひらも湿っている。


 それでも、舞台袖にいたときほど怖くなかった。


 指揮者の手が大きく動く。


 最後の音へ向かって、全員の息が集まっていく。


 由実も、その先へ音を伸ばした。


 最後の和音がホールへ残る。


 指揮者の腕は、まだ下りない。


 部員たちも楽器を動かさない。


 音が消えるまでの短い静けさ。


 そこには、誰か一人の音ではなく、三十人近い部員の呼吸が残っているように思えた。


 指揮者の手が、ゆっくり下がる。


 課題曲が終わった。


 けれど、客席から拍手は起こらない。


 コンクールでは、二曲続けて演奏する。


 舞台の空気が、明るいマーチから静かな緊張へ変わっていく。


 由実は小さく息を整えた。


 次は、自由曲『元禄』。


 千秋がアルトサックスを構える。


 椅子へ座ったまま、いつもと変わらない姿勢だった。


 けれど、千秋が息を吸った瞬間、ホール全体が静まったように感じられた。


 最初の音が鳴る。


 音楽室で聴いたときより、広い。


 深い。


 強く押し出した音ではない。


 それでも、暗い客席の一番奥まで迷いなく伸びていく。


 音の先に、次の音が見える。


 聴いている側が、自然に続きを待ちたくなる。


 由実は一瞬、楽譜のことを忘れそうになった。


(すごい)


 自分も、いつかこんな音を吹きたい。


 千秋の音が始まっただけで、ホールの空気が変わった。


 あの一音だけで、『元禄』という曲が開かれていく。


 けれど、今日は聞き入るために舞台へ来たのではない。


『私のソロで終わる曲じゃないからね』


 練習中に千秋が言った言葉が浮かぶ。


 千秋の音を追いかけるのではない。


 その音が作った流れを受け取る。


 ソロの終わりが近づく。


 由実は指揮を見る。


 香苗の肩が動く。


 莉央が息を吸う。


 自分も同じ瞬間に息を吸った。


 千秋の最後の音が、全体へ渡される。


 由実は遅れなかった。


 ついていくのではなく、一緒に始める。


 アルトと低音の間へ、テナーの音を置く。


 全体の響きが一気に広がった。


 千秋の音から始まった曲が、部員全員の音へ変わっていく。


 華やかな旋律が現れ、別のパートへ受け渡される。


 強く押し出す場面。


 音量を落とし、細い響きを重ねる場面。


 由実のテナーが主旋律を担当しない場所も多い。


 以前なら、自分の音が聞こえないことを不安に思ったかもしれない。


 今は違う。


 自分の音が和音へ入ると、上の旋律が少しだけ厚くなる。


 低音との隙間が埋まり、全体の響きに輪郭が生まれる。


 千秋のソロがどれほど美しくても、そのあとの音が崩れれば曲にはならない。


 香苗のアルトだけでも、莉央の低音だけでも完成しない。


 自分の音も、千秋とは違う場所で『元禄』を作っている。


 中盤。


 長い休符へ入る。


 由実は楽器を構えたまま、頭の中で数え始めた。


 一、二、三、四。


 次の小節。


 一、二――


 舞台の熱。


 指揮者の動き。


 別のパートの細かな音。


 いくつものものが、一度に目と耳へ入ってくる。


 数が、一瞬だけ曖昧になった。


 商業施設での演奏がよみがえる。


 入りを間違えた。


 どこを吹いているのか分からなくなった。


 香苗へ助けを求めるように視線を向けた。


(違う)


 今日は、失敗してから戻るのではない。


 由実は指揮者の手を見る。


 莉央の低音が、次の位置を示している。


 視界の端で、真琴の指が動く。


 香苗が息を吸う。


 由実も息を吸った。


 正しい場所から音が出る。


 わずかな不安は残ったままだった。


 それでも、音を外には出さなかった。


 周囲を聴き、踏みとどまれた。


 曲はさらに勢いを増す。


 照明の熱で、手のひらには汗がにじんでいた。


 ストラップが首へ食い込む。


 課題曲から吹き続けた唇も、少しずつ疲れている。


 息を吸っても、胸の奥まで入ってこないように感じる。


 あと少し。


 一人で最後まで吹かなければ。


 そう思いかけたとき、由実は周囲の音を聞いた。


 千秋のアルト。


 香苗の音。


 真琴の旋律。


 莉央の低音。


 自分だけが、曲を最後まで運ぶわけではない。


 全員の息が、同じ終わりへ向かっている。


 由実は残っている力を押し出すのではなく、その流れへ音を重ねた。


 アルトと低音の間へ。


 旋律が安心して伸びられる場所へ。


 赤いテナーの音を置く。


 最後の和音が始まる。


 由実は息を伸ばした。


 音程を下げない。


 途中で息を抜かない。


 自分の音だけを前へ出さない。


 全員の響きの中で、一つの音になる。


 指揮者の手が止まる。


 音がホールへ残った。


 由実はすぐに楽器を動かさなかった。


 静寂。


 音が消える。


 そのあと、拍手が起こった。


 暗い客席から押し寄せた拍手が、舞台全体を包む。


 由実は、ようやく息を吐いた。


 ◇


 舞台袖へ戻ると、照明の熱だけが身体へ残っていた。


 急に暗くなったせいで、足元がよく見えない。


 部員たちは係員の案内に従い、決められた場所まで移動した。


 誰もすぐには大声を出さなかった。


 息を吐く音。


 ストラップを外す音。


 キーを押して、水分を抜く音。


 楽器を支える由実の手も、わずかに震えていた。


「終わった……」


 真琴が小さくつぶやいた。


「うん」


 由実もそれしか返せなかった。


 音を外しかけた場所が頭へ浮かぶ。


 休符の数が曖昧になった。


 最後の方では、少し音が細くなったかもしれない。


 課題曲の中盤も、もう少し長さを――


「反省はあと」


 千秋の声がした。


 部員たちが顔を上げる。


「結果が出るまで、今すぐ演奏を悪かったことにしないで」


 千秋はアルトサックスをクロスで拭きながら言った。


「直すところはあるよ。私にもある。でも、まず二曲吹き切ったことは受け止めよう」


 由実は口を閉じた。


 演奏が終わると、すぐにできなかった場所を探す癖がある。


 記録帳へ失敗だけを書いていた頃から、あまり変わっていないのかもしれない。


 今日は、二曲を最後まで吹いた。


 休符も、正しい場所から入れた。


 千秋のソロのあとも遅れなかった。


 その事実まで、失敗と一緒に消してはいけない。


 少し離れた場所で、千秋がマウスピースを外している。


 由実は迷ったあと、近づいた。


「千秋先輩」


「うん?」


「ソロ、すごかったです」


 千秋が手を止める。


「音楽室で聴いたときより、もっと遠くまで届いてました」


「ありがとう」


 千秋は短く答えた。


 それだけで終わると思った。


 けれど、千秋は赤いテナーへ視線を落とした。


「由実の音も、ちゃんと下にいたよ」


「私の?」


「うん。ソロのあと、アルトの下にテナーが入ったの、分かった」


 由実はすぐに言葉が出なかった。


 自分は千秋のソロを褒めただけだった。


 千秋の音は、誰が聴いても分かる。


 曲の冒頭で、ホール全体の空気を変えた。


 けれど千秋は、和音の中にいた由実の音も聴いていた。


「遅れなかったね」


「練習では、何度も遅れました」


「本番でできたなら、練習した意味はあったんじゃない?」


 千秋はそう言って、再び楽器を拭き始めた。


「私一人で『元禄』を吹いたわけじゃないから」


 由実は、自分のテナーを見下ろした。


 千秋のソロから始まった音楽を、自分たちが受け取った。


 その中に、赤いテナーの音もあった。


 目立たなくても、消えていたわけではない。


「はい」


 由実はようやく返事をした。


 ◇


 結果発表までの待機時間は、長かった。


 部員たちは指定された客席へ座り、ほかの学校の演奏を聴いた。


 朝に見た新しい楽器。


 金色に輝くシュプレーム。


 銀色のシルバーソニック。


 由実は舞台へ現れた奏者たちを見ても、以前ほど自分と比べなかった。


 楽器が立派なことは変わらない。


 奏者たちが上手いことも分かる。


 けれど、由実はもう、自分だけが場違いだとは思わなかった。


 自分も同じ舞台へ立った。


 課題曲と自由曲を吹いた。


 赤いテナーを膝の間へ置き、ケースの角にある補修跡を指でなぞる。


 新品ではない。


 高価でもない。


 それでも、この楽器で今日の演奏へ参加した。


 結果発表の時間になると、会場の空気が再び張り詰めた。


 学校ごとにまとまって座り、舞台へ視線を向ける。


 由実の隣には真琴がいる。


 反対側には香苗。


 少し先に、千秋と莉央の姿も見えた。


 発表者がマイクの前へ立つ。


 学校名が、順番に読み上げられていく。


 銅賞。


 銀賞。


 金賞。


 拍手をする学校。


 静かに頭を下げる学校。


 泣き出す部員。


 結果を告げる声は、どの学校に対しても同じ調子だった。


 聖フェリス学園の順番が近づく。


 由実は膝の上で手を握った。


 去年は金賞だった。


 それでも、県大会には進めなかった。


 金賞を取れるだろうか。


 代表に選ばれるだろうか。


 どちらも分からない。


 自分たちの演奏が、どこまで届いたのか。


「聖フェリス学園高等部」


 学校名が呼ばれた。


 由実の背筋が伸びる。


「金賞」


 一瞬、呼吸が止まった。


 隣で真琴が小さく息をのむ。


 香苗の肩が動いた。


 会場から拍手が起こる。


 金賞。


 去年と同じ色。


 嬉しい。


 けれど、まだ終わりではない。


 代表校の発表が残っている。


 由実は握った手を開けなかった。


 ほかの学校の結果が続く。


 その声が、遠くから聞こえているように感じられた。


 やがて、県大会代表校の発表へ移る。


 一校目。


 別の学校の名前が呼ばれる。


 二校目。


 また違う学校。


 聖フェリス学園の部員たちは、誰も声を出さない。


 由実は舞台を見つめた。


「続いて、聖フェリス学園高等部」


 その瞬間、時間が止まったように感じられた。


 次の言葉を理解するより先に、周囲から息をのむ音が聞こえる。


 県大会代表。


 聖フェリス学園の名前が、そこにあった。


 一瞬の静寂。


 そのあと、抑えていた歓声が一気に上がった。


 泣き出す部員。


 隣の肩を何度も叩く部員。


 口元を押さえたまま、うつむく三年生。


 千秋は大きな声を出さなかった。


 けれど、膝の上で強く拳を握っていた。


 去年は届かなかった場所。


 今年は、そこへ進める。


 由実は、嬉しいのか、驚いているのか分からなかった。


 胸がいっぱいで、うまく息ができない。


 隣の真琴と顔を見合わせる。


 真琴の目が少し潤んでいる。


 それでも先に笑った。


 由実も笑った。


「行けるね」


 真琴が言った。


「うん。県大会」


 口にすると、ようやく本当のことに思えた。


 香苗が由実の肩を軽く叩く。


「ちゃんと、置けてたな」


 由実はすぐに、その意味を理解した。


 旋律が安心して伸びられる場所へ。


 千秋のソロから、全体の音が始まる場所へ。


 自分のテナーの音を置けた。


「はい」


 由実は、今度は迷わず答えた。


 ◇


 家へ帰ると、玄関を開けた音に気付いて、家族が顔を出した。


「おかえり。どうだった?」


 尋ねられる前に話そうと思っていたのに、いざ顔を見ると喉が詰まった。


 それでも由実は、靴を脱ぎながら言った。


「金賞だった」


「本当?」


「すごいじゃない」


 家族の声が重なる。


 由実はテナーのケースを持ち直した。


「それと、県大会にも行けることになった」


 驚いた顔が、すぐに笑顔へ変わる。


「おめでとう」


「頑張ったね」


「いつ県大会なの?」


 次々に言葉を向けられ、由実は少し困りながらも笑った。


「まだ詳しいことは、これから」


「そうなんだ。でも、本当にすごいね」


 吹奏楽部が金賞を取った。


 県大会代表に選ばれた。


 自分一人で取った賞ではない。


 千秋のソロがあった。


 香苗のアルトがあった。


 真琴の音。


 莉央の低音。


 三十人近い部員が、課題曲と自由曲を一緒に演奏した。


 だから、自分が金賞を取ったと言うのは違う。


 けれど、自分の音も、あの演奏の中にあった。


 由実は少しだけ迷ってから、家族を見た。


「私も吹いたんだよ」


 当たり前のことなのに、口にすると胸の奥が熱くなった。


 部員の一人として、舞台へ立った。


 赤いテナーで二曲を吹いた。


 自分の音も、金賞と県大会代表につながった演奏の中にあった。


「うん」


 家族は笑ってうなずいた。


「由実も吹いたんだね」


 その言葉を聞いた瞬間、由実はようやく、自分が何かを成し遂げたのだと思えた。


 ◇


 夜。


 由実は机へ記録帳を開いた。


 今日の日付を書く。


 鉛筆を持ち、舞台のことを思い出しながら、一つずつ書き加えていく。


 課題曲の最初を周りと合わせられた。


 音の長さをそろえられた。


 千秋先輩のソロのあと、遅れずに入れた。


 休符を数えられた。


 最後まで息を合わせた。


 その下へ、少し大きな文字で書く。


 金賞。


 県大会代表。


 二つの言葉だけが、ほかの記録より目立った。


 由実はページを見つめる。


 初めてテナーを持った日。


 音が出なくて、息の音ばかりがした。


 合奏で、自分の音を聞かせようとして大きく吹きすぎた。


 地域演奏では、入りを間違えた。


 練習をやめるのが怖くて、吹けていた音まで出なくなった。


 そのすべてが、今日へつながっている。


 失敗したこと。


 教えてもらったこと。


 自分で直したこと。


 休んだこと。


 毎日、記録帳へ書き続けたこと。


 頑張ったから、結果が出た。


 由実は、そう思った。


 それは間違いではなかった。


 けれど、金賞と県大会代表の文字を見ているうちに、別の考えが静かに混ざり始める。


 結果が出たから、頑張ったことには価値があった。


 もし、金賞ではなかったら。


 もし、県大会へ進めなかったら。


 今日までの練習を、同じように誇れただろうか。


 由実は、そこまで考えなかった。


 今はただ、二つの大きな文字が嬉しかった。


 記録帳を閉じる。


 赤いテナーのケースが、机の隣に置かれている。


 今日はもう開かない。


 楽器も、自分の身体も休ませる。


 明日からは、県大会へ向けた練習が始まる。


 もっと練習すれば。


 もっと音をそろえれば。


 もっと千秋の音へ近づければ。


 きっと、次も結果へ届く。


 由実は、そう信じながら部屋の明かりを消した。

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