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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第六章 音の先にあるもの

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第24話 地区大会より先へ

「これが、地区大会の演奏です」


 高瀬が再生ボタンを押すと、音楽室のスピーカーから拍手が流れた。


 由実は、膝の上に置いた記録帳へ目を落とす。


 開いたページには、前の練習より少し大きな文字が並んでいた。


 金賞。


 県大会代表。


 書いた日のことは、まだはっきり覚えている。


 家へ帰り、自分から結果を話した。


『私も吹いたんだよ』


 そう言えたことまで思い出すと、胸の奥が少し温かくなった。


 今日から始まるのは、県大会へ向けた練習だった。


 地区大会で金賞を取った演奏を、もう一度きちんと吹ければいい。


 それから少しだけ上手くなれば、県大会でもきっと良い結果へ届く。


 由実は、そう思いながらスピーカーへ耳を向けた。


 短い静寂のあと、課題曲『青空へ続く道』が始まる。


 明るいマーチの冒頭。


 由実の記憶の中では、全員の音がぴたりと重なっていた。


 暗い客席。


 照明の熱。


 真琴や香苗、莉央と呼吸をそろえて出した最初の一音。


 舞台の上では、一つの音になったと思っていた。


 けれど、スピーカーから聞こえてきた演奏は、記憶の中のものと少し違った。


(あれ?)


 木管の旋律が、わずかに前へ進んでいる。


 低音は重く、一歩ごとに床を強く踏むように聞こえた。


 どちらも大きく崩れてはいない。


 それでも、上と下で歩幅がそろっていない。


 音の終わりも、全員が同じ瞬間に離しているつもりなのに、短い音が先に消え、長い音が後ろへ残る。


 練習中なら、高瀬の指揮棒が止まっていたかもしれない。


「ここ」


 高瀬が録音を止めた。


 音楽室に、冷房の風と部員たちの呼吸だけが残る。


「木管、少し急いでいます。低音は逆に重くなっていますね」


 何人かが楽譜へ書き込みを始める。


 由実も鉛筆を持った。


「でも、本番のときは、そろったと思いました」


 口にしてから、言い訳のように聞こえた気がして、由実は慌てて楽譜へ目を落とした。


 高瀬は責める様子を見せなかった。


「舞台の上と客席では、聞こえ方が違います。吹いている本人にしか聞こえない音もありますし、客席でなければ分からないずれもあります」


 再び録音が流れる。


 強弱を付けたはずの部分へ入った。


 由実は、練習で何度も小さく吹き始め、そこから音を広げたことを覚えていた。


 舞台では、全員の音が大きくなっていく感覚があった。


 けれど録音では、変化が思ったほど伝わってこない。


 少し音量が増えただけで、その先へ音楽が向かう感じが弱かった。


「強弱は、付けたつもりにならないでください」


 高瀬が言う。


「自分たちの中で変わっただけでは、客席へ届きません。小さくするところで音を失わず、大きくするところでは音量だけでなく、響きの方向も変える必要があります」


 由実は楽譜の強弱記号を囲んだ。


 地区大会までは、そこへ書かれた記号を見落とさず吹くことで精いっぱいだった。


 今度は、その変化を客席まで届けなければならない。


 課題曲が終わる。


 録音の中で短い間が空き、自由曲『元禄』が始まった。


 千秋のソロが、音楽室へ流れる。


 本番で聞いたときと同じ音だった。


 いや、録音で聞くと、舞台の上とはまた違って聞こえる。


 最初の音が静けさの中へ伸び、次の音へ迷わずつながっていく。


 押し出していないのに、遠くまで届く。


 由実は、記録帳に書いた言葉を思い出した。


 いつか、あんなふうに吹けるようになりたい。


 ソロの終わりへ近づく。


 そのあとの入りは、由実も何度も練習した場所だった。


 千秋の音が作った流れを受け取る。


 聞いてから追いかけるのではなく、一緒に始める。


 地区大会では遅れずに入れた。


 香苗からも、ちゃんと音を置けていたと言ってもらえた。


 由実は、少し緊張しながらその瞬間を待った。


 全体の音が入る。


 響きが一気に厚くなった。


「あ……」


 由実の口から声が漏れる。


 ソロの余韻が、全員の音に覆われてしまっていた。


 曲がつながっていないわけではない。


 勢いもある。


 けれど、千秋が残した最後の音を受け取るというより、その上から大きな音を重ねて先へ進んでいる。


 高瀬が録音を止めた。


「入りはそろっています」


 由実は顔を上げた。


「地区大会までに練習したことは、できています。ただ、全員が入った瞬間に音が厚くなりすぎています。千秋のソロの余韻を、少し押し流していますね」


 千秋は楽譜へ何かを書き込んだ。


「私の最後、もう少し残した方がいいですか?」


「ソロ側だけの問題ではありません。全体が、どの音量と音色で受け取るかです」


「分かりました」


 千秋の返事は短かった。


 地区大会で上手くいった場所だからといって、そのままでよいとは考えていない。


 由実は、自分の楽譜へ視線を戻した。


 高瀬が少し巻き戻し、同じ箇所をもう一度流す。


 今度は、自分の音を探すつもりで聞いた。


 アルトの音。


 低音。


 その間に、テナーがいる。


 由実の音は聞こえていた。


 遅れてはいない。


 音程も大きく外れてはいない。


 それでも、思っていたより細かった。


 アルトと低音の間へ置いたつもりの音が、ただ隙間に残っている。


 上と下をつなぐほどの芯がない。


「橋本さん」


「はい」


「自分の音、分かりますか?」


 由実は、すぐには答えられなかった。


「聞こえます。でも……思ってたより、細いです」


「そうですね。入りは地区大会前より良くなっています。ただ、音が始まったあと、少し息が弱くなっています」


 高瀬は楽譜の該当箇所を指した。


「ここは入ることが目的ではありません。次の和音まで、同じ役割を保ってください」


 入れたら終わりではない。


 始まった音を、次へ渡すところまで吹く。


 由実は、楽譜の音符から次の音符へ矢印を書いた。


 録音は最後まで流された。


 地区大会で金賞を取った演奏だった。


 拍手も入っている。


 結果発表では県大会代表に選ばれた。


 それなのに、直すところは一つや二つではなかった。


 由実は、開いていた記録帳へ目を落とす。


 大きく書いた「金賞」の文字が、少し遠く見えた。


「勘違いしないでください」


 録音を止めた高瀬が、部員たちを見渡す。


「この演奏が悪かったと言いたいわけではありません。皆さんが地区大会までに作った演奏が評価され、県大会へ進めたことは事実です」


 部員たちは静かに聞いている。


「ですが、県大会で同じ演奏をすれば、同じ評価が得られるとは限りません。それに、私たちは地区大会の演奏をもう一度再現するために練習するわけではありません」


「同じ曲を、同じように吹き直すために県大会へ行くわけじゃないからね」


 千秋が続けた。


 由実は顔を上げた。


 千秋は自分の楽譜を持ち、書き込んだ部分を部員たちへ見せるようにしている。


「地区大会でできたことは、できたままにする。その上で、次に直せるところを直す。金賞を取った演奏を守ろうとしすぎたら、そこから先へ行けなくなるよ」


「でも、変えすぎて崩れたら……」


 金管の部員が、不安そうに言った。


「崩さないように変えるんだよ」


 千秋は簡単に答えた。


「できたことまで全部やり直すんじゃない。できたところを土台にする」


 由実は、楽譜へ書いた矢印を見た。


 最初からやり直すのではない。


 地区大会までに覚えた、周囲と一緒に始めること。


 旋律を支える場所へ音を置くこと。


 それを消さずに、音の芯と持続を加える。


 金賞は、完成したという印ではなかった。


 次へ進むための土台だった。


 ◇


 録音確認のあとは、課題曲の合奏が始まった。


「冒頭から、録音で急いでいたところまで」


 高瀬が指揮棒を構える。


 由実は赤いテナーを持ち上げた。


 地区大会前と同じ楽譜。


 同じ音符。


 けれど、考えることは増えている。


 音の入りをそろえる。


 木管だけで前へ急がない。


 低音の歩幅を聞く。


 音の終わりまで息を保つ。


 強弱を、譜面台の前だけで終わらせない。


 高瀬の腕が下りる。


 マーチが始まった。


 数小節で止まる。


「木管、録音と同じです。前へ行っています」


 もう一度。


 由実は、真琴と香苗の音だけでなく、莉央の低音へ意識を向けた。


 低音へ合わせようとすると、今度は少し重くなる。


「橋本さん、下へ引っ張られすぎないでください」


「はい」


「低音を聞くことと、低音と同じ吹き方をすることは違います」


 由実は息を吐いた。


 聞くものが増えるほど、自分の音を見失いそうになる。


 それでも、以前のように何が悪いのか分からないわけではない。


 録音で、自分たちのずれを聞いた。


 自分の音が細くなる場所も知った。


 次に変えるべきことがある。


 何度目かの合奏で、音の終わりがそろった。


 高瀬の指揮棒がすぐには止まらず、そのまま先へ進む。


 由実は少しだけ息を深くした。


 強弱の変化へ入る。


 小さくする。


 ただ息を減らすのではなく、音の芯を残す。


 そこから、全員で同じ方向へ音を広げる。


 演奏を止めた高瀬が、短くうなずいた。


「今の方が、変化が分かります」


 由実は楽器を下ろした。


 地区大会前なら、その言葉だけで安心していたかもしれない。


 今は、次に同じように吹けるかを考えている。


 午後の『元禄』では、ソロ後の入りを繰り返した。


 千秋の音が終わる。


 全体が入る。


「厚いです」


 もう一度。


「今度は控えすぎです。音楽が止まっています」


 もう一度。


 由実は、自分の音を小さくしすぎないようにした。


 目立たないことと、弱く吹くことは違う。


 ソロの余韻を残しながら、次の和音を支える。


 音が始まったあとも、息を抜かない。


「テナー、途中で細くしない」


 香苗が隣から言った。


「はい」


「最初はいい。あと二拍、同じまま保て」


 由実は頷く。


 再び千秋のソロが始まった。


 音楽室の空気が静まり、その一音へ集まる。


 以前なら、ただ聞き入っていた。


 今は、その音がどこまで続き、どの瞬間に自分が受け取るのかを考える。


 全体が入る。


 由実は遅れずに息を入れた。


 音を大きくしすぎない。


 それでも芯を失わない。


 一拍。


 二拍。


 息を抜かず、次の和音へ渡す。


「今の」


 高瀬が止めた。


 由実は、何を指摘されるのか身構える。


「橋本さんの音、さっきより残っています」


「はい」


「その感覚を記録してください」


 由実は楽譜の端へ、息を最後まで、と書いた。


 少し離れた場所では、香苗が千秋の譜面をのぞき込んでいた。


「この入り、前はどこから分けて練習しました?」


「最初はサックスだけ。そのあと木管低音を足して、最後に全体」


「時間は?」


「初日は十五分くらい。できるようになってからは、毎日五分だけ確認してた」


 香苗は、自分の楽譜ではなく、小さなノートへ何かを書いている。


「そのノート、何ですか?」


 由実が尋ねると、香苗は顔を上げた。


「練習の順番」


「先輩のですか?」


「パートの。どこから分けたら直しやすいか、千秋先輩に聞いてる」


「今、ですか?」


「今だから」


 それだけ言って、香苗はまた千秋へ質問を始めた。


 由実には、なぜ今それを覚える必要があるのか、よく分からなかった。


 県大会が終わってからでも聞ける気がした。


 けれど千秋も、当たり前のように答えている。


 次にどのパートを重ねるか。


 誰の音を基準にするか。


 同じ箇所で止まり続けたとき、別の練習へ移る判断。


 演奏そのものとは違う話だった。


 由実は、自分の楽譜へ目を戻した。


 今の自分が考えなければならないのは、まず音を最後まで保つことだった。


 ◇


 練習を終えたあと、由実は記録帳を開いた。


 地区大会のページの次へ、新しい日付を書く。


 録音で分かったことを一つずつ並べた。


 木管が少し前へ急いでいた。


 低音が重い場所があった。


 音の終わりがそろっていなかった。


 強弱は、付けただけでは客席へ届かない。


 ソロのあと、全体が厚くなりすぎていた。


 自分の音は、入ったあとに細くなっていた。


 書いてみると、地区大会の演奏には直すところがたくさんあった。


 それでも、「金賞」の文字を消したいとは思わなかった。


 あの演奏があったから、今、直せる場所が分かる。


 あの演奏を作ったから、次にどこへ進めばよいか見えている。


「まだ書いてるの?」


 声をかけられ、由実は顔を上げた。


 千秋がアルトのケースを閉じていた。


「はい。今日、直すところが多かったので」


「全部一日で直そうとしないでね」


「分かってます」


「本当に?」


「この前、香苗先輩にも言われました」


「なら大丈夫かな」


 千秋は笑い、ケースの留め金を確かめた。


 由実は、ふと気になって尋ねる。


「県大会でも、同じ二曲を吹くんですよね」


「うん」


「その次も、代表に選ばれたら同じ曲ですか?」


「基本はね」


「じゃあ、もっと先まで、ずっと練習できますね」


 千秋の手が、一瞬だけ止まった。


「代表に選ばれたらね」


 由実は、その言葉の意味をすぐには考えなかった。


 千秋はケースを持ち上げる。


「県大会で代表に選ばれなかったら、私たち三年生がこの二曲をコンクールで吹くのは最後だから」


「最後……」


「三年生は、県大会のあとで引退」


 知っていたはずだった。


 三年生はいずれ引退する。


 夏の大会が最後になることも、吹奏楽部では珍しくない。


 けれど由実は、県大会の先にも当然のように千秋がいると思っていた。


 地区大会で金賞を取り、県大会へ進んだ。


 次も良い演奏をすれば、その先へ行ける。


 千秋のソロを、またコンクールの舞台で聞ける。


 そう信じていた。


「だからって、最後だと思って固くならないでね」


 千秋は、由実の表情を見て笑った。


「今から引退の顔をされると、こっちも吹きにくいから」


「してません」


「してるよ」


 千秋はケースを持ったまま、音楽室の出口へ向かう。


「今までどおり、一つずつ直せばいい。県大会で今の私たちの一番いい演奏をする。それだけ」


「その先は?」


「結果が決める」


 千秋は振り返らずに答えた。


 音楽室を出ていく背中を、由実はしばらく見ていた。


 県大会は、地区大会の次にある大きな舞台だと思っていた。


 けれど、それだけではなかった。


 今の部員で、もう一度先へ進めるか。


 千秋と、この二曲を吹き続けられるか。


 それを決める舞台でもある。


 由実は記録帳へ視線を戻した。


 今日書いた課題の下へ、新しく目標を加える。


 地区大会より音の終わりをそろえる。


 ソロのあとに音を厚くしすぎない。


 自分の音を最後まで保つ。


 県大会でも金賞。


 そこまで書いて、鉛筆が止まる。


 金賞を取れば、必ず先へ進めるわけではないのかもしれない。


 それでも、由実の中では、金賞とその先がまだ一つにつながっていた。


 地区大会より良い演奏をする。


 県大会でも金賞を取る。


 そして、千秋たち三年生と、もう一つ先へ進む。


 由実は最後の一行を、少し強く書いた。


 三年生と、もう一つ先へ。


 書いた文字を見つめる。


 地区大会の成功を、同じように繰り返すだけでは足りない。


 前より良い音を作らなければならない。


 自分の音を、始めるだけでなく最後まで保つ。


 千秋のソロを受け取り、その先へつなぐ。


 今の部員で演奏できる時間を、そこで終わらせないために。


 由実は記録帳を閉じた。


 県大会へ向かう道は、地区大会より先にある。


 けれど今日初めて、その道には終わりもあるのだと知った。

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