第25話 最後まで届く音
舞台の向こうから、一つの和音が響いてきた。
壁を隔てているはずなのに、音の輪郭がはっきりと分かる。
そのまま音量を落としながら、複数の音が一つの響きへ溶けていく。
やがて最後の音が消え、短い静寂のあとに拍手が起こった。
由実は、赤いテナーのケースへ置いていた手を離した。
「今の学校、上手かったね」
真琴が小さな声で言った。
「うん」
返事をした声が、思ったより硬い。
県大会の会場は、地区大会よりも広かった。
ロビーの天井は高く、異なる制服を着た生徒たちが、学校ごとにまとまって移動している。
廊下の向こうから聞こえてくる音も、地区大会とは違っていた。
金管の強い音だけではない。
木管の細かなパッセージも、音の一つ一つが崩れずに並んでいる。
低音は大きいのに重くなりすぎず、遠くからでも曲の流れが分かった。
ここまで進んできた学校ばかりなのだ。
地区大会で見た高価な楽器も、今日の会場には珍しくなかった。
新しく磨かれた金色のサックス。
銀色の管体。
傷の少ないケース。
以前なら、それだけで自分が場違いに思えたかもしれない。
由実は足元へ置いた古いケースを見る。
角には補修跡がある。
留め金も、新しいケースのようには光っていない。
けれど、人から隠れる向きへ置こうとは思わなかった。
ケースの中には、赤いテナーが入っている。
自分で選んだ黒いマウスピース。
何人もの名前と修理の記録。
地区大会で、金賞の演奏に加わった楽器。
今日、由実が吹くべき音は、この楽器と作ってきた音だった。
「橋本さん」
高瀬の声に、由実は顔を上げる。
「そろそろ音出し室へ移動します。準備してください」
「はい」
留め金を外し、ケースを開く。
赤い管体が照明を受け、ところどころ色の薄くなった表面が見えた。
由実はマウスピースを取り付け、リードの位置を確かめる。
手順は地区大会のときと同じだった。
それでも、指先が少し冷たい。
隣では真琴が、取り付けたリードを横から見ていた。
一度外し、もう一度合わせる。
由実が見ていることに気付くと、真琴は少し困ったように笑った。
「曲がってる気がして」
「曲がってないと思う」
「私もそう思うんだけど、気になって」
真琴は、もう一度だけリガチャーを緩めた。
地区大会でも、真琴は何度もリードの位置を直していた。
経験があるから緊張しないわけではない。
由実は自分のリードへ目を戻す。
大丈夫。
位置はずれていない。
それ以上触らず、ケースを閉じた。
◇
音出し室では、短い時間で状態を確かめた。
ロングトーン。
課題曲の冒頭。
自由曲の入り。
由実は低音を一度外したが、すぐに吹き直さなかった。
息を吐く。
肩を回す。
口元から余計な力を抜く。
『休むのも練習』
香苗に言われたことを思い出す。
焦って繰り返せば、また噛みすぎる。
次の一音を出すために、まず身体を戻す。
もう一度息を入れる。
今度は低音が無理なく鳴った。
「今のでいい」
香苗が言った。
「本番で外したら、吹き直せないです」
「だから今、外した理由を直したんだろ」
香苗は自分のアルトを構え、短く音を鳴らした。
「出るかどうか確かめ続けるな。出る状態を作ったら、あとは信じろ」
「はい」
少し離れたところでは、千秋が『元禄』の冒頭を確認していた。
音量は小さい。
本番のように遠くへ届かせようとはしていない。
息を通し、音が始まる瞬間と、次の音へ移る流れだけを確かめている。
一度吹く。
譜面へ目を落とす。
もう一度。
短い音なのに、迷いがなかった。
由実は、自分の楽器を持ち直す。
千秋と同じ音を出す必要はない。
千秋が曲を始める。
自分は、そのあとへ音を置く。
地区大会の録音で細く聞こえたテナーの音を、今度は最後まで保つ。
「サックス、入りだけ確認するよ」
千秋の声に、香苗、真琴、莉央、由実が楽器を構えた。
冒頭のソロが始まる直前から、千秋が小さく拍を取る。
ソロは吹かず、その終わりに当たる場所で指を動かした。
全員で息を吸う。
音が始まった。
由実はアルトと低音の間へ、自分の音を置く。
入ったあとも、息を抜かない。
一拍。
二拍。
次の和音まで保つ。
「うん」
千秋が楽器を下ろした。
「今のでいこう」
それだけだった。
細かな注意はなかった。
できているという意味なのか、今から直しすぎない方がよいという意味なのか、由実には分からない。
けれど、その短い言葉で呼吸が少し深くなった。
◇
舞台袖は、地区大会と同じように暗かった。
客席側は見えない。
舞台から漏れる照明が、床へ細い線を作っている。
前の学校の演奏が、扉の向こうから聞こえた。
音出し室や廊下で聞いたときよりも、ずっと大きい。
それでも音は荒れていない。
強い和音がホールへ広がり、次の瞬間には全員で音量を落とす。
小さくなっても、音楽が遠ざからない。
由実は無意識に赤いテナーのキーへ指を置いた。
地区大会の舞台袖では、前の学校の演奏を聞くだけで息が浅くなった。
今日は緊張している。
手のひらも少し湿っている。
それでも、自分が何をすればよいかは分かっていた。
肩を下げる。
息を吐く。
鼻から短く吸い、口からゆっくり出す。
譜面を頭の中で最初から最後まで追おうとしない。
まずは課題曲の最初の一音。
その次にある音は、最初の一音を吹いてから考える。
前の学校の最後の和音が鳴った。
音が長く伸びる。
指揮者の手が下りたのだろう。
音が消えたあと、拍手が押し寄せる。
由実の胸が大きく鳴った。
「聖フェリス学園の皆さん、準備をお願いします」
係員が小さな声で告げる。
部員たちが一斉に楽器を持ち上げた。
千秋がサックスパートを見渡す。
「行こう」
香苗が短くうなずく。
真琴が一度唇を結ぶ。
莉央はバリトンサックスを支え直した。
由実もストラップの位置を確かめる。
暗い場所から、照明の下へ進む。
舞台へ出た瞬間、顔へ熱が当たった。
地区大会で知ったはずなのに、照明はやはり暑い。
県大会のホールはさらに広かった。
客席の奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
審査員の机だけが、客席の中央でわずかに見える。
由実は自分の椅子へ座った。
赤いテナーを右脚へ沿わせる。
楽譜を確かめる。
視界の端に、香苗と真琴がいる。
少し先には千秋。
低音側には莉央。
高瀬が指揮台へ上がった。
拍手が止む。
ホールの空気が、一度静かになった。
高瀬の腕が上がる。
由実は息を吸った。
◇
課題曲『青空へ続く道』。
最初の一音が、ホールへ放たれた。
音が出た。
それを確かめようとしない。
真琴の音の立ち上がり。
香苗のアルト。
莉央の低音。
金管の息。
全員の音が、同じ一歩を踏み出している。
地区大会前には、冒頭の数小節だけで何度も止められた。
木管が前へ急ぎ、低音が後ろへ残った。
音の長さも、アクセントもそろわなかった。
今は、低音が重さを支え、その上で旋律が前へ進んでいる。
由実は周囲の音を聞きながら、自分の音を遅らせない。
誰かが始めたのを聞いてからついていくのではない。
自分も同じ呼吸で始める。
明るい旋律が、広いホールへ伸びていく。
音が小さくなる場所へ入る。
由実は息を減らしすぎない。
音量を落としても、音の芯を消さない。
そこから全員の音が、少しずつ広がる。
音量だけではなく、響きが前へ向かっていく。
録音では十分に伝わらなかった変化が、今日は客席の奥まで届いているように感じた。
中盤。
音を切る位置が一瞬、不安になる。
以前なら楽譜だけを見つめていた。
由実は指揮を見る。
香苗の息が止まる。
真琴の音が同じ位置で離れる。
自分も舌を当てる。
音がそろって消えた。
すぐに次の音へ入る。
一つできたことを確認している時間はない。
音楽は前へ進んでいく。
地区大会では、演奏へ戻れたことがうれしかった。
今日は、曲の流れから離れずにいられる。
自分が周囲を頼るだけではない。
由実の音も、隣の誰かが拍や響きを確かめるための一部になっている。
終盤へ向かい、音楽が明るさを増す。
由実は低音へ引かれて重くなりすぎないようにしながら、上の旋律を支えた。
最後の音。
高瀬の手が止まる。
由実は音を短く切りすぎず、周囲と同じ場所まで息を保った。
音が消える。
拍手は起こらない。
コンクールの演奏は、まだ終わっていない。
高瀬の腕は下りたまま、短い静けさを保っている。
由実はその間に、浅くなりかけた呼吸を整えた。
次は『元禄』。
千秋のソロから始まる。
◇
千秋が楽器を構えた。
広いホールの中で、わずかな動きまで大きく見える。
高瀬が腕を上げる。
千秋が息を吸った。
最初の音が鳴る。
地区大会で聞いた音よりも、強くはなかった。
けれど、遠かった。
音が弱いのではない。
ホールの響きへ預けるように始まり、客席の奥まで自然に伸びていく。
音楽室で聞いた千秋の音。
地区大会で聞いた千秋の音。
どちらとも少し違う。
同じ音符なのに、この場所でなければ出ない音になっていた。
由実の胸に、いつもの憧れが浮かぶ。
(いつか、あんなふうに)
けれど今日は、聞き入るだけの日ではない。
千秋の音が作った流れを受け取る。
由実は自分の入りを待った。
待つといっても、音が聞こえてから始めるのではない。
指揮を見る。
香苗の肩が動く。
莉央の息を吸う気配。
自分も同じ瞬間に吸う。
千秋の最後の音が、ホールへ余韻を残す。
全体が入った。
由実は遅れなかった。
地区大会の録音で聞いたように、ソロの余韻を大きな音で押し流さない。
控えすぎて、音楽の流れを止めもしない。
アルトと低音の間へ、テナーの音を置く。
始まったあとも、息を抜かない。
一拍。
二拍。
自分の音が細くならず、和音の中に残っている。
上の旋律が、その上で伸びる。
低音が、下から音楽を支える。
その二つが離れないように、テナーの音が間をつないでいる。
由実には、録音の中でしか分からなかった自分の役割が、今は身体の中で分かった。
曲は場面を変えながら進んでいく。
華やかな旋律。
力強い和音。
音量を落とし、次の動きを待つ静かな部分。
由実が主旋律を吹かない場所は多い。
それでも、休んでいるわけではない。
旋律の下へ響きを置く。
次の音へ進むための拍を作る。
一人の音が終わる前に、次の人が受け取れる場所を作る。
中盤の長い休符へ入った。
数字を数える。
一、二、三、四。
頭の中で数だけを追うと、以前のように現在地を失いそうになる。
由実は指揮を見る。
莉央の低音が、曲の流れを刻んでいる。
真琴の指が動く。
香苗が次の呼吸へ入る。
由実も準備する。
休符が終わる。
正しい位置から音を出した。
商業施設で失敗したときのように、曲の外へ落ちてから戻ったのではない。
落ちる前に、仲間の音と指揮の中へ自分の居場所を見つけた。
終盤へ近づくにつれ、唇に疲れが出始めた。
ストラップが首へ食い込む。
照明の熱で、手のひらに汗がにじんでいる。
高い音へ移ると、音程がわずかに上ずりそうになる。
由実は無意識に噛みかけた。
(押さない)
口元の力を抜く。
肩を下げる。
息を無理に強く押し込まず、楽器の中へまっすぐ通す。
一瞬揺れかけた音が、周囲の響きへ戻った。
疲れたら、力で乗り切る。
以前の由実なら、そうしていた。
今は、最後まで吹くために余計な力を手放す。
曲全体が、最後の和音へ向かっていく。
千秋の音。
香苗と真琴のアルト。
莉央の低音。
金管。
木管。
打楽器。
全員の音が、一つの場所へ集まる。
由実は自分の音を大きくしなかった。
聞かせようともしなかった。
ただ、全体の響きが最後まで崩れないように、息を支え続ける。
最後の和音が、ホールへ広がった。
高瀬の手は、まだ下りない。
由実は楽器を動かさなかった。
音が客席の奥へ進み、壁へ触れ、少しずつ薄くなる。
やがて、完全に消えた。
高瀬の手が下りる。
静寂。
そのあと、大きな拍手が起こった。
◇
舞台袖へ戻ると、暗さが急に濃く感じられた。
照明の下にいた熱が、身体へ残っている。
由実は赤いテナーを支えたまま、ゆっくり息を吐いた。
手が少し震えている。
けれど、地区大会のときとは違った。
あのときは、演奏を終えられたことに驚いていた。
今は、自分がどんな音を吹いたかを覚えている。
課題曲の冒頭。
そろった音の終わり。
強弱が広がった場所。
千秋のソロのあとの入り。
最後まで細くならずに保てた音。
休符のあと、正しい位置から始められた一音。
外した音や、遅れた場所を必死に探さなくても、それらが残っていた。
「由実」
真琴が隣へ来た。
「どうだった?」
由実はすぐには答えず、自分の胸の中へ残る演奏を確かめた。
「地区大会より、吹けたと思う」
「私も」
真琴が笑った。
目元には緊張の名残がある。
それでも、その笑顔は地区大会後より落ち着いていた。
莉央がバリトンサックスを支えながら近づく。
「休符のあと、そろってたね」
「聞こえましたか?」
「聞こえた。というか、由実の音が入ったから、私も場所が合ってるって分かった」
由実は目を見開いた。
これまでは、自分が莉央の低音を頼りにしていた。
今日は、莉央も由実の音を聞いていた。
「お互い様だよ」
莉央はそう言って、ケースの置かれた方へ歩いていく。
香苗が由実の前で足を止めた。
「最後まで、音が残ってたな」
「はい」
「途中で少し噛みかけたけど」
「分かりましたか?」
「隣だからな。でも、自分で戻した」
香苗はそれ以上褒めず、由実のストラップの位置を見た。
「首、赤くなってる。外して休め」
「はい」
由実はストラップを外した。
楽器の重さが両手へ移る。
少し離れた場所で、千秋がアルトサックスの水分を拭き取っていた。
由実は、何か言いたくなって近づく。
「千秋先輩」
「うん?」
「ソロ、地区大会のときと違いました」
「悪かった?」
「違います。もっと、遠くまで聞こえました」
千秋は少し考えるように、手に持っていた布を止めた。
「このホール、響きが長いから。自分で全部飛ばそうとすると、強くなりすぎると思って」
「だから、あんな音にできたんですか?」
「できてたならね」
千秋は笑った。
由実は、すぐに頷いた。
「できてました」
「そっか」
千秋はまた楽器を拭き始めた。
その横顔には、地区大会後のような緊張の残りが少なかった。
静かに、演奏した音を受け止めているように見える。
「由実の音も、前より最後まで残ってたよ」
「聞こえてたんですか?」
「聞こえるよ。ソロのあと、下が抜けたらすぐ分かるから」
千秋はアルトをケースへ収める前に、由実を見た。
「今のは、ちゃんと今の私たちの演奏だった」
地区大会と同じ演奏ではない。
誰か別の学校をまねた演奏でもない。
今日まで練習してきた部員たちが、この場所で作った演奏。
その中に、由実の音もあった。
胸の奥に、熱が広がった。
「皆さん」
高瀬の声に、部員たちが振り返る。
「演奏について話したいことはあると思いますが、結果発表までは、良かったとも悪かったとも決めつけないでください」
浮かれかけた空気が、少し静まる。
「舞台で感じたことと、客席で聞こえたことは違います。審査結果とも、必ずしも同じではありません」
由実は、高瀬の言葉を聞きながらも、先ほどの演奏を思い返していた。
「ただし」
高瀬は部員たちを見渡す。
「最後まで、今できる演奏をしたことは忘れないでください」
「はい」
部員たちの返事が重なった。
由実も答えた。
結果はまだ出ていない。
録音を聞けば、今日も直すところが見つかるのだろう。
自分では気付かなかったずれもあるかもしれない。
それでも、地区大会より良い演奏だった。
由実には、その手応えがあった。
音の始まりだけではなく、終わりまで保てた。
千秋のソロの余韻を受け取り、押し流さずに次へつなげた。
仲間の音を頼るだけではなく、自分の音も誰かの支えになった。
今の部員で、前より先まで音を届けられた。
ならば。
今度こそ、結果もその先へ届くはずだ。
由実は赤いテナーをケースへ収めた。
古い管体には、照明の熱がまだわずかに残っている。
そっと蓋を閉じる。
県大会で、地区大会より良い演奏ができた。
金賞だけではない。
千秋たち三年生と、もう一つ先へ。
記録帳へ強く書いた言葉が、胸の中で繰り返される。
結果発表まで、あと少しだった。




