第26話 金賞の、その先
「金賞」
その言葉が告げられた瞬間、由実の胸の奥が熱くなった。
県大会の結果発表。
広いホールの客席には、演奏を終えた各校の部員たちが学校ごとにまとまって座っている。
先ほどまで舞台の上を照らしていた光は消え、今は結果を読み上げる壇上だけが明るかった。
学校名と賞が、一つずつ淡々と告げられていく。
銅賞。
銀賞。
金賞。
自分たちの順番が近づくにつれ、由実は膝の上で両手を握っていた。
左手の指先に、右手の爪が食い込んでいる。
それでも離せなかった。
地区大会より良い演奏ができた。
課題曲では、音の始まりだけでなく、終わりまで周囲とそろえられた。
自由曲では、千秋のソロの余韻を押し流さず、自分の音を最後まで保てた。
休符のあとも、正しい位置から入れた。
莉央から、自分の音を聞いて場所が合っていると分かったと言ってもらえた。
千秋も、今の自分たちの演奏だったと認めてくれた。
だから、きっと。
由実は、壇上を見つめた。
「聖フェリス学園高等部」
学校名が呼ばれる。
息が止まりそうになる。
「金賞」
ほんの一瞬、客席の音が消えた。
次の瞬間、聖フェリス学園の部員たちの間から、押し殺した歓声が上がった。
隣にいた真琴が、由実の腕へ触れる。
「金賞だった」
真琴の声は震えていた。
「うん」
由実も頷く。
地区大会だけではない。
県大会でも、金賞へ届いた。
あの広い舞台で、自分たちが作った演奏が認められた。
由実は香苗の方を見た。
香苗は小さく息を吐き、口元をわずかに緩めている。
莉央は膝の上で拳を握り、何度も頷いていた。
少し前に座る千秋は、背中を伸ばしたまま壇上を見ている。
由実も、もう一度前を向いた。
胸の中に広がった喜びは、まだ消えていない。
けれど、客席の空気はすぐに次の発表を待つものへ変わった。
金賞受賞校の発表は終わっていない。
そして、そのあとには上位大会へ進む代表校が発表される。
由実は、握っていた手を一度だけ開いた。
掌に爪の跡が残っている。
金賞。
まず一つ、目標へ届いた。
あとは、その先。
三年生と、もう一つ先へ。
記録帳へ書いた言葉が浮かぶ。
今の部員で、もう一度コンクールの舞台へ立つ。
千秋のソロを、もう一度聞く。
地区大会より良くなった今日の演奏を、さらに磨く。
由実はそうなると信じながら、残りの学校の発表を聞いた。
最後の賞が告げられる。
壇上の進行役が紙を持ち替えた。
「続きまして、上位大会へ推薦される代表校を発表いたします」
ホールの空気が変わった。
あちこちで椅子の軋む音がする。
咳払いさえ止まり、大勢の人間が一斉に息を浅くしたような静けさが広がった。
由実の心臓が、金賞を待っていたときより強く鳴り始める。
「第一代表――」
学校名が呼ばれた。
聖フェリス学園ではない。
客席の一角から、短い歓声が上がる。
すぐに拍手が広がった。
由実も手を叩いた。
まだ最初だ。
代表校は一校ではない。
「第二代表――」
別の学校だった。
また歓声が上がる。
由実は拍手をしながら、壇上の紙を見つめた。
次。
次に呼ばれるかもしれない。
今日の演奏は、地区大会より良かった。
金賞も取った。
だから。
「第三代表――」
聖フェリス学園ではなかった。
由実の手が、少し遅れて動く。
隣で真琴が、小さく息を吸った。
代表校の部員たちが泣きながら抱き合っている。
由実はその姿を見ないように、壇上へ視線を戻した。
まだ、終わりとは言われていない。
次がある。
もう一校あるかもしれない。
「以上の学校を、上位大会への代表校として推薦いたします」
進行役が頭を下げた。
由実は、意味を理解できなかった。
(以上?)
もう一度、学校名が読み上げられるのではないかと思った。
推薦校の確認。
追加の発表。
何かが続くはずだと待った。
けれど、壇上では閉会の挨拶が始まっている。
聖フェリス学園の名前は呼ばれなかった。
三年生と、もう一つ先へ。
記録帳へ書いた言葉だけが、頭の中に残っている。
周囲から拍手が起こった。
代表校へ送る拍手だった。
由実も手を動かそうとした。
右手を持ち上げる。
左手へ合わせる。
けれど、音がほとんど出なかった。
もう一度。
今度は手のひらが触れただけだった。
前の席で、千秋が拍手をしている。
背中は伸びたまま。
強くも弱くもない、一定の拍手だった。
その横に座る三年生の一人は、顔を伏せて肩を震わせている。
別の部員は、頬へ伝った涙を手の甲で拭きながら、それでも拍手を続けていた。
後ろの方では、
「金賞だったのに」
誰かが、かすれた声で呟いた。
喜んでいる部員もいた。
泣きながら隣の肩を抱き、
「金賞だよ」
と繰り返している。
その言葉は励ましのようにも、自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。
真琴が由実を見た。
「金賞だった」
さっきと同じ言葉だった。
けれど、今度の声はさらに震えていた。
「うん」
由実も同じ返事をした。
ほかに何を言えばよいのか分からない。
金賞だった。
それは本当だった。
代表には選ばれなかった。
それも本当だった。
どちらかが間違っているように思えた。
良い演奏ができた。
金賞を取った。
それなら、次へ進めるはずだった。
由実の中では、三つの出来事がまっすぐつながっていた。
その最後だけが、突然切れている。
莉央は何も言わず、座席の下へ置いていた楽器ケースの持ち手を握っていた。
指が白くなるほど強く握っている。
香苗は壇上を見たまま、由実へ声をかけなかった。
慰める言葉を探しているようには見えない。
ただ、自分も同じ結果を最後まで受け止めようとしているようだった。
閉会式が終わる。
各校の部員たちが席を立ち始めた。
代表校の周囲には、人が集まっていく。
泣きながら笑っている生徒。
指導者と握手をする部員。
写真を撮ろうとする保護者。
聖フェリス学園の部員たちは、すぐには立てなかった。
千秋が先に立ち上がった。
目元は少し赤かった。
それでも、声はいつもと大きく変わらない。
「戻ろう」
それだけ言って、通路へ出る。
誰も返事をしなかった。
部員たちは一人ずつ立ち上がり、千秋のあとへ続いた。
◇
楽器を受け取る待機場所でも、話す者はほとんどいなかった。
ケースを開ける音。
留め金を閉じる音。
楽器を持ち上げる音。
それだけが、広い部屋の中へ散らばっている。
由実は赤いテナーをケースへ収めた。
県大会の舞台で、地区大会より良い音を吹いた楽器だった。
舞台袖へ戻ったときには、管体に照明の熱が残っていた。
今はもう冷えている。
黒いマウスピースを外し、布で水分を拭き取る。
いつもと同じ手入れなのに、指が思うように動かなかった。
リードケースへ入れる向きを、一度間違えた。
「由実」
香苗が隣から声をかける。
「リード、逆」
「あ……」
由実は入れ直した。
「すみません」
「謝ることじゃない」
香苗はそれ以上何も言わなかった。
大丈夫かとも聞かなかった。
金賞だったから喜べとも言わない。
由実は、その沈黙に少しだけ助けられた。
今、何かを言われても、きちんと返せる気がしなかった。
千秋は三年生の部員たちと短く話したあと、サックスパートの方へ来た。
「忘れ物がないか確認して。帰ってから今日の演奏の話を始めるのは禁止」
「禁止なんですか?」
真琴が尋ねた。
「今すぐ反省しても、たぶん全部悪く聞こえるから」
千秋は少しだけ笑った。
「録音を聞いてからにしよう」
由実はケースの留め金を閉じる。
全部悪く聞こえる。
今の自分なら、本当にそうなる気がした。
舞台袖では、地区大会より吹けたと思った。
真琴も同じことを言っていた。
莉央からは、由実の音が入ったことで自分の場所も分かったと言ってもらえた。
香苗は、音を自分で戻したと認めてくれた。
千秋も、由実の音が前より最後まで残っていたと言った。
それなのに、代表には届かなかった。
なら、自分たちが感じた手応えの方が間違っていたのだろうか。
「千秋先輩」
由実は、ケースを持ち上げる千秋を呼び止めた。
何を聞きたいのか、自分でも分かっていなかった。
千秋が振り返る。
「何?」
「……いえ」
先ほどの演奏は、本当に良かったのか。
金賞なら、どうして代表ではないのか。
自分の音がもっと良ければ、結果は変わったのか。
聞きたいことはいくつもあった。
けれど、どれも千秋一人が答えられるものではない気がした。
「何でもないです」
「そっか」
千秋は無理に聞き出さず、ケースを持って歩き始めた。
その背中を見た瞬間、県大会が最後だという言葉を思い出す。
『県大会で代表に選ばれなかったら、私たち三年生がこの二曲をコンクールで吹くのは最後だから』
最後になった。
千秋のソロを、もう一度コンクールの舞台で聞くことはない。
その事実が、結果発表のときより遅れて胸へ沈んできた。
由実は赤いテナーのケースを強く握った。
◇
帰りのバスは、地区大会のときとはまるで違っていた。
あの日は、金賞と県大会代表という結果を抱え、あちこちで小さな笑い声が上がっていた。
今日は、同じ金賞を取ったはずなのに、車内は静かだった。
窓の外を流れる景色。
空調の音。
タイヤが道路の継ぎ目を越えるたびに、座席が小さく揺れる。
前の席では、三年生の部員が窓の方を向いたまま動かない。
少し離れた場所から、誰かが鼻をすする音が聞こえた。
由実は鞄から記録帳を取り出した。
地区大会のページを開く。
金賞。
県大会代表。
二つの言葉が、ほかの記録より大きく書かれている。
その下には、
『課題曲の最初を周りと合わせられた』
『千秋先輩のソロのあと、遅れずに入れた』
『最後まで息を合わせた』
と並んでいた。
ページをめくる。
県大会へ向けて書いた課題。
地区大会より音の終わりをそろえる。
ソロのあとに音を厚くしすぎない。
自分の音を最後まで保つ。
県大会でも金賞。
三年生と、もう一つ先へ。
最初の四つは、できたはずだった。
最後だけが、できなかった。
由実は新しいページへ日付を書こうとした。
鉛筆の先が紙へ触れる。
けれど、その先が続かない。
何を書けばよいのか分からなかった。
金賞。
そう書けばよい。
県大会で金賞を取った。
地区大会だけではなく、県大会でも認められた。
それは、きっと喜ぶべきことだった。
けれど「金賞」と書けば、代表に届かなかった悔しさを無視するように思えた。
では、
代表には届かなかった。
そう書けばよいのか。
けれど、それだけを書けば、今日の演奏も、金賞も、すべて失敗だったことになる気がした。
由実は鉛筆を持ったまま、窓の外を見た。
県大会へ進むために練習した。
地区大会の録音を聞き、直すところを見つけた。
音の終わりをそろえた。
強弱を客席へ届けようとした。
自由曲では、千秋のソロの余韻を押し流さないようにした。
自分の音を、始めるだけでなく最後まで保った。
地区大会より良い演奏ができた。
それでも、先へ進めなかった。
(じゃあ、何が足りなかったんだろう)
自分の音かもしれない。
もっと太い音を出せていれば。
音程を一度も揺らさなければ。
休符のあと、もっと柔らかく入れていれば。
一年生の自分が、真琴と同じくらい吹けていれば。
千秋のソロを、もっと支えられていれば。
考えるほど、今日までできるようになったことが小さくなっていく。
地区大会で家族へ伝えた言葉が浮かんだ。
『私も吹いたんだよ』
あのときは、自分の音も金賞の演奏へ含まれていると胸を張れた。
けれど今は、その言葉まで恥ずかしく感じた。
自分が何かを成し遂げたように話してしまった。
県大会まで進めたから、努力には意味があったと思った。
もっと練習すれば、その先へも行けると思った。
結果が出たことで、自分まで上手くなったつもりになっていたのではないか。
「由実」
隣の真琴が、小さな声で呼んだ。
「何を書いてるの?」
「まだ、何も」
「私も」
真琴は自分の膝を見た。
「日誌に感想を書こうと思ったけど、金賞って書いたあと、何を書けばいいか分からなくなった」
「金賞は、うれしくないの?」
尋ねてから、由実は自分にも同じことを聞いていると気付いた。
真琴はしばらく黙った。
「うれしいよ」
答えた声は弱かった。
「でも、悔しい」
「どっちなのかな」
「分からない」
真琴は窓の外へ目を向けた。
「両方じゃ、駄目なのかな」
由実は返事ができなかった。
両方。
金賞がうれしい。
代表に届かなくて悔しい。
二つを同時に持てればよいのかもしれない。
けれど今の由実には、どちらか一つを本当の結果に決めなければならないように思えた。
金賞が本当なら、喜ばなければならない。
代表落選が本当なら、今日の演奏は失敗だった。
記録帳の白いページは、何も答えてくれなかった。
由実は鉛筆を閉じ、帳面を鞄へ戻した。
◇
家へ着くと、玄関まで母が出てきた。
「おかえり。どうだった?」
由実は靴を脱ぎながら、すぐには答えられなかった。
地区大会のときは、自分から話した。
金賞だった。
県大会へ行ける。
私も吹いた。
あの言葉が、自然に口から出た。
今日は、何から言えばよいのか分からない。
「金賞だった」
ようやく答える。
母の顔が明るくなった。
「すごいじゃない。県大会で金賞でしょう?」
「うん」
「おめでとう」
居間から父も顔を出した。
「金賞だったのか」
「でも、次には行けなかった」
由実が続けると、両親の表情が少し変わった。
「代表には選ばれなかったってこと?」
「うん」
「そうか」
父は短く答えた。
母は、何か言おうとして一度口を閉じる。
「でも、金賞は金賞でしょう。頑張ったね」
「うん」
由実は鞄の持ち手を握った。
頑張った。
その言葉が、今日は重く聞こえた。
頑張ったから、金賞を取れた。
それなら、どうして次へ行けなかったのか。
もっと頑張らなければならなかったのか。
自分たちの頑張りは、代表校より少なかったのか。
「疲れただろう。先に着替えてきたらどうだ」
父の言葉に、由実は頷いた。
自分の部屋へ入り、鞄を机の横へ置く。
赤いテナーは学校へ戻してある。
いつもなら、ケースのない部屋は少し広く感じる。
今日は、何か大きなものを置き忘れてきたようだった。
由実は机へ座り、記録帳を開いた。
バスの中で何も書けなかったページ。
もう一度鉛筆を持つ。
今日の日付を書く。
その下へ、少し間を空けて、
金賞。
と書いた。
地区大会のページほど大きくは書けなかった。
文字を見つめる。
これは本当だ。
県大会で金賞を取った。
消す必要はない。
続けて、その下へ書く。
代表には届かなかった。
二つの言葉が同じページへ並んだ。
金賞。
代表には届かなかった。
片方だけを見れば、もう片方が嘘になるように感じる。
由実は、二つの行を何度も見比べた。
今日の演奏を思い出す。
課題曲の最初の一音。
そろった音の終わり。
千秋のソロ。
アルトと低音の間へ置いたテナーの音。
最後まで支えた和音。
演奏を終えたとき、地区大会より吹けたと思った。
あの感覚まで、間違いだったのだろうか。
代表へ届かなかったという結果の前では、できるようになったことに意味はないのだろうか。
鉛筆が動く。
先へ進めないなら、何のために練習したんだろう。
書き終えたあと、自分の文字が急に冷たく見えた。
消しゴムを手に取る。
けれど、消すことができなかった。
今、そう思っているのは本当だった。
金賞と代表落選の下へ、その言葉を残す。
由実は記録帳を閉じた。
◇
翌日の音楽室には、昨日までとは違う静けさがあった。
三年生も練習へ来ている。
けれど、いつもなら最初に聞こえる千秋のアルトは鳴っていなかった。
部員たちは楽器を組み立てながら、互いの様子をうかがっている。
金賞を喜んでよいのか。
代表に届かなかったことを悔しがってよいのか。
誰も決められないまま、時間だけが過ぎていく。
「今日は、県大会の録音が届いています」
高瀬が前に立った。
由実の指が止まった。
「全員での確認は、明日行います。今日は楽器の点検と、個人での振り返りを中心にしてください」
由実は、少しだけ息を吐いた。
録音を聞かなくて済む。
そう思ってしまった。
昨日の演奏を聞けば、自分の悪いところが全部分かる。
代表に届かなかった理由が、音の中から次々と見つかるかもしれない。
地区大会より良かったと思ったことまで、間違いだったと分かるかもしれない。
由実は赤いテナーを組み立てたが、すぐには音を出さなかった。
リードの位置を直す。
一度外す。
もう一度付ける。
「曲がってないぞ」
隣から香苗が言った。
「分かってます」
「昨日の真琴みたいになってる」
由実はリガチャーから手を離した。
香苗は自分のアルトへマウスピースを取り付けながら、由実の方を見ている。
「録音、聞きたくない?」
由実は答えなかった。
「聞かなきゃ、駄目ですか?」
「全員では明日聞く」
「じゃあ、今日はいいですよね」
「うん」
香苗はあっさり答えた。
由実は顔を上げる。
無理に聞けと言われると思っていた。
「でも、明日の前に一回、二人で聞こう」
「どうしてですか?」
「由実、全員で聞いたら、指摘されたところを全部自分のせいにするだろ」
「しません」
「する」
香苗の声は強くなかった。
ただ、由実が何を考えているのか分かっているような言い方だった。
「昨日の録音だけじゃなくて、地区大会のも持ってくる」
「地区大会も?」
「比べるため」
由実は楽器へ目を落とした。
県大会の録音だけでも聞きたくない。
地区大会と比べれば、どちらが悪かったのか、さらにはっきりする。
もし県大会の方が悪くなっていたら。
練習したのに、地区大会より下手になっていたら。
その不安を口にすることはできなかった。
「放課後、残れる?」
香苗が尋ねる。
由実はすぐには頷けなかった。
断りたい。
聞きたくない。
昨日の演奏を、自分の外から確かめたくなかった。
けれど、香苗の目から逃げるように断ることもできない。
「……はい」
「じゃあ、楽器を片づけたあと」
香苗はそれだけ言い、アルトを構えた。
由実も赤いテナーを持ち上げる。
マウスピースへ口を添える。
息を入れれば、昨日と同じように音は鳴るはずだった。
けれど由実には、その音がどこまで届いていたのか、もう分からなくなっていた。




