第27話 届いた音を残して
「ここです」
県大会の録音が流れる音楽室で、由実は再生画面へ指を向けた。
課題曲『青空へ続く道』の中盤。
木管の旋律が少しずつ音量を落とし、低音へ受け渡していく箇所だった。
「今、音程が揺れました」
由実は膝の上の楽譜へ目を落とす。
「たぶん、私です」
「もう一回聞くか」
香苗が再生位置を少し戻した。
放課後の音楽室には、二人しかいなかった。
ほかの部員は楽器の手入れを終え、先に帰っている。
窓の外はまだ明るい。
夏の終わりには少し早い強い日差しが、閉じかけたカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
スピーカーから、同じ数小節がもう一度流れる。
由実は自分の音を探した。
アルトの下。
バリトンサックスの上。
和音の中へ入っているテナーの音。
一瞬だけ、音程が上へ揺れているように聞こえた。
「やっぱり、ここです」
「少しな」
「これが悪かったから、代表に選ばれなかったのかもしれません」
香苗は何も言わず、再生を続けた。
曲は先へ進む。
音量が小さくなる箇所で、由実の音はわずかに細くなった。
地区大会へ向けた練習で何度も指摘され、県大会では最後まで息を保ったつもりだった。
それでも、録音で聞けば完全ではない。
「ここもです」
「何が?」
「息が足りてません。音が薄くなってます」
由実は楽譜へ鉛筆で印を付けた。
香苗は椅子の背へ身体を預け、由実の手元を見ている。
「次の入りも、少し硬いです」
「そうだな」
「舌を強く使いすぎました」
「たぶん」
「これも、代表に届かなかった理由かもしれません」
由実は、もう一つ印を付けた。
録音を聞けば、自分たちがなぜ選ばれなかったのか分かると思っていた。
悪い箇所をすべて見つければ、結果に理由を付けられる。
音程が揺れたから。
音が細かったから。
入りが硬かったから。
自分がもっと上手く吹けていれば、違う結果になったかもしれない。
「由実」
香苗が録音を止めた。
突然音が消え、冷房の風だけが耳へ残る。
「悪いところがなかったとは言わない」
由実は楽譜から顔を上げた。
「今言ったところは、確かに直せる。ほかにもある。代表校との差がなかったとも言わない」
「だったら――」
「でも、今の録音だけ聞いてても分からないことがある」
香苗は机の上に置いていたスマートフォンを操作した。
「次、地区大会」
由実は鉛筆を持ったまま、画面を見た。
「同じところを聞くぞ」
県大会の録音が閉じられ、地区大会の録音が再生される。
聞き慣れた課題曲の冒頭。
地区大会のあと、全員で初めて聞いたときは、金賞を取った演奏にも直すところが多く残っていることへ驚いた。
木管が少し前へ急ぎ、低音が重くなっている。
音の終わりも、パートごとにわずかにずれていた。
「ここから」
香苗が、先ほど由実の指摘した箇所まで再生位置を進めた。
同じ旋律が流れる。
由実は黙って聞いた。
県大会では一瞬だけ揺れた音程が、地区大会ではもっと長く不安定になっている。
音量を落とすと、テナーの音がほとんど和音の中へ埋もれた。
低音へ旋律を渡す前に、息が足りなくなっている。
「次、県大会」
香苗が録音を切り替える。
同じ場所。
同じ音符。
県大会の演奏では、音の始まりが前よりそろっていた。
途中でわずかに揺れてはいる。
けれど、地区大会より早く音程を戻している。
音の終わりも、周囲と近い位置まで保てていた。
「もう一回、地区」
香苗は続けて再生する。
地区大会。
県大会。
地区大会。
県大会。
同じ箇所を交互に聞くうち、違いは由実にも分かってきた。
「県大会の方が……長く吹けてます」
「うん」
「音程も、揺れてはいますけど、すぐ戻ってる」
「そうだな」
「でも、完璧じゃないです」
「完璧だったとは言ってない」
香苗は再生位置を課題曲の冒頭へ戻した。
「最初も聞くぞ」
地区大会では、木管と低音の歩幅がわずかに違っていた。
音の終わりも、何人かが早く離している。
県大会では、冒頭の音が自然に始まり、全員の音が同じ方向へ進んでいた。
強弱の変化も、地区大会よりはっきり伝わってくる。
同じ曲。
同じ部員。
大きく別の演奏になったわけではない。
それでも、確かに良くなっていた。
「次、『元禄』」
香苗が自由曲へ切り替えた。
地区大会の千秋のソロが流れる。
最初の音から、迷いのない響きだった。
由実は、今でもその音へ自然に耳を向けてしまう。
ソロが終わり、全体の音が入る。
響きが急に厚くなり、千秋の残した余韻を押し流していた。
録音確認で指摘され、県大会まで何度も直した場所だ。
続けて、県大会の録音が流れる。
千秋の音が、地区大会よりも広い空間へ伸びる。
最後の音が消えきる前に、全体が静かに入る。
勢いを失ってはいない。
それでも、ソロの続きを受け取る余白が残っている。
その中に、由実のテナーも聞こえた。
アルトの下。
低音の上。
地区大会では細く、隙間へ残っているだけだった音が、県大会では和音の間をつないでいる。
目立つ音ではない。
けれど、なくなれば上と下が離れて聞こえる。
由実は自分の楽譜へ目を落とした。
「私の音……前より残ってます」
「残ってる」
「地区大会では、途中で細くなってます」
「うん」
「県大会でも少し揺れてますけど、最後まではいます」
「そうだな」
香苗は特別に褒める調子ではなかった。
聞こえたものを、そのまま言っている。
だからこそ、由実も否定できなかった。
県大会の演奏は、地区大会より良くなっている。
課題曲の音の始まり。
音の終わり。
強弱。
自由曲で千秋のソロを受け取る響き。
自分のテナーの音。
練習したことは、録音の中に残っていた。
それでも、聖フェリス学園は代表には選ばれなかった。
「良くなったのに、届かなかったんですね」
由実が言うと、香苗は少し間を置いた。
「そうだな」
無理に明るく言い換えなかった。
良くなったから成功だとも、金賞だから十分だとも言わない。
上位大会には届かなかった。
その事実を、そのまま認めている。
「だったら、足りなかっただけです」
由実は楽譜の上へ鉛筆を置いた。
「良くなっても、代表校より足りなかった。結局、それが結果ですよね」
「足りなかったものはある」
香苗はすぐに答えた。
「でも、届いた音までなかったことにするな」
由実は顔を上げた。
「届いてません。上位大会には」
「そこにはな」
香苗はスマートフォンの画面を指で軽く叩いた。
「でも、地区大会よりそろった音はここに残ってる。千秋先輩のソロのあとを、前よりきれいに受け取れた音も残ってる。由実の音が最後まで和音の中にいたのも、聞けば分かる」
「でも、それだけじゃ代表には――」
「代表に届いたとは言ってない」
香苗の声は強くなかった。
由実が言葉を失う。
「届かなかったものはある。でも、届いた音までなかったことにするな」
同じ言葉が、今度はゆっくり置かれた。
由実は録音機器へ目を戻した。
地区大会より良くなった音。
真琴や香苗とそろえた音。
莉央の低音との間へ置いた音。
千秋のソロを受け取った和音。
それらは上位大会へは届かなかった。
けれど、何も届かなかったわけではない。
商業施設での演奏が、ふいに頭へ浮かんだ。
曲の途中で入りを間違え、一度自分の居場所を見失った。
それでも最後まで戻ったあと、小さな女の子が赤いテナーを指して言った。
『赤い楽器、格好よかった』
あの子は、審査員ではなかった。
賞をくれたわけでもない。
それでも、由実の音と姿を見ていた。
地区大会では、家族へ自分から結果を伝えた。
『私も吹いたんだよ』
あの言葉は、県大会で代表に選ばれなかったからといって、嘘になるのだろうか。
地区大会の演奏にも、県大会の演奏にも、自分の音は確かにあった。
前より吹けるようになった自分まで、結果と一緒に消えたわけではない。
「悔しいままでも、いいんですか」
由実は小さく尋ねた。
「いいだろ」
香苗は椅子へ深く座り直した。
「悔しくないふりをする必要もない。金賞だから喜べって、誰かに決められることでもない」
「でも、金賞を喜べないのは、悪いことみたいで」
「喜べるところは喜べばいい。今は無理なら、無理に喜ばなくてもいい」
「先輩は、どうなんですか」
香苗は少し黙った。
窓の外へ視線を向ける。
「悔しい」
答えは短かった。
「千秋先輩と、もう一回吹きたかった。代表校の演奏を聞いて、負けてないと思ったところもある。どうして選ばれなかったのかって、今でも考える」
香苗はスマートフォンへ視線を戻した。
「でも、県大会の演奏が地区大会より良くなったのも分かる。自分たちが吹いた音まで嫌いになる必要はないと思ってる」
「両方なんですね」
「たぶん」
香苗は、少しだけ笑った。
「そんなにきれいに分けられないだろ」
由実は鞄から記録帳を取り出した。
県大会の日付を書いたページを開く。
金賞。
代表には届かなかった。
その下には、
『先へ進めないなら、何のために練習したんだろう』
と残っている。
消しゴムを出しかけて、手を止めた。
「消さないのか?」
「そのときは、本当にそう思ったので」
由実は鉛筆を持った。
「今も、少し思ってます」
「なら残しとけ」
由実は、その一行の下へ新しく書き始めた。
地区大会より音の終わりがそろった。
ソロのあとを押し流さずに入れた。
自分の音を最後まで保てた。
そこまで書き、少し迷う。
それから、
悔しい。
と書いた。
文字を見つめる。
最後に、もう一行を加えた。
でも、前より良い演奏だった。
同じページに、金賞と代表落選がある。
努力の意味を疑う言葉も残っている。
その下には、できるようになったことと、悔しいという気持ちが並んだ。
どれか一つだけを本当の結果にしなくてもよい。
由実は記録帳を閉じた。
「少しは聞けそう?」
香苗が尋ねる。
「明日、全員でもう一度聞きます」
「自分のせいにしすぎるなよ」
「全部ではないです」
「半分くらい?」
「それも多いです」
「なら、一割」
「決められません」
由実が答えると、香苗は小さく笑った。
昨日から初めて聞いた、いつもの笑い方だった。
◇
三年生の引退日は、県大会から数日後に訪れた。
音楽室では、全体の引き継ぎが終わったあと、パートごとに集まる時間が設けられた。
サックスパートの部員たちは、普段の練習で使う小さな教室へ集まった。
千秋を中心に、香苗、由実、真琴、莉央たちが椅子を並べる。
楽器はケースへ収められたままだった。
音を出さないサックスパートの集まりは、少し不思議に感じられた。
「長く話すつもりはないんだけど」
千秋は膝の上へ一冊の厚いファイルを置いた。
「まず、県大会のこと」
教室の空気が少し固くなる。
千秋は部員たちを順番に見た。
「金賞だったことは、私はうれしい。でも、代表に届かなかったのは悔しい」
由実は、自分の記録帳へ書いた二つの言葉を思い出した。
「今の私たちは、代表校より届かなかった部分があった」
誰も反論しなかった。
千秋も、実力は同じだったと言い張ろうとはしない。
「音程かもしれない。曲の作り方かもしれない。全体の完成度かもしれない。審査員がどこをどう評価したか、私たちには全部は分からない」
千秋は一度言葉を切った。
「だからって、県大会の演奏が偽物になるわけじゃない」
由実は千秋を見た。
「地区大会より良くなったところはあった。できなかったことが、できるようになった人もいる。代表に届かなかったからって、それまで全部失敗だったことにはしないでほしい」
その言葉は、香苗と二人で録音を聞いた時間と重なった。
届かなかったものはある。
それでも、届いた音まで消えるわけではない。
「それから、これ」
千秋は膝の上のファイルを持ち上げ、香苗へ差し出した。
「パートの運営記録」
香苗は両手で受け取った。
表紙には年度と、サックスパートという文字が書かれている。
「練習予定、備品の場所、学校楽器の調整履歴、リードや消耗品の在庫。あとは、パート全体で気を付けてたこと」
千秋はページを開きながら説明した。
「部員ごとの細かい課題は、本人にも確認して。ここに書いてあることを、そのまま決めつけないでね」
「はい」
香苗の返事は、普段より少し硬かった。
軽口を挟まない。
ファイルの重さを確かめるように、両手で支えている。
「練習の順番も入れてあるけど、絶対じゃないから。人数も変わるし、曲も変わる。今のパートに合わせて変えて」
「分かりました」
「備品の調整時期だけは、忘れないで。特に学校のテナーとバリトンは古いから」
由実は赤いテナーのケースを思い浮かべた。
傷のある管体。
剥がれた塗装。
何人もの名前と、修理の日付が残された整備記録。
「香苗なら大丈夫、とは言わないよ」
千秋が言った。
香苗の眉が少し動く。
「言わないんですか」
「大丈夫じゃないときもあるから。そのときは一人で何とかしようとしないで。先生にも、ほかのパートリーダーにも頼って」
「はい」
香苗はもう一度、今度は少し力を抜いて答えた。
千秋から香苗へ。
ファイルが渡っただけだった。
けれど、これまで千秋がまとめてきたサックスパートを、次からは香苗が支える。
その変化が、由実にもはっきり見えた。
「それと、由実」
「はい」
名前を呼ばれ、由実は背筋を伸ばした。
千秋が鞄から、薄いノートを数冊取り出す。
表紙は少し擦れていた。
角が曲がり、何度も開かれた跡が残っている。
「これは、私の練習記録。全部じゃないけど」
「私に、ですか?」
「うん」
由実は両手で受け取った。
一冊目の表紙には、中学時代の日付が書かれている。
開いてよいのか迷っていると、千秋が頷いた。
最初のページには、細かな字が並んでいた。
ロングトーン。
音程が安定しない。
息が最後まで続かない。
ソロで音を外した。
本番で入りが遅れた。
由実はページをめくる。
今の千秋からは想像できない言葉が、いくつも残されている。
『音が細いと言われた』
『高音で噛む』
『一人になると怖くて大きく吹きすぎる』
『ソロを失敗した。もう吹きたくない』
由実の指が、その一行で止まった。
「千秋先輩にも、吹くのが嫌になった時期があったんですか」
「あるよ」
千秋はあっさり答えた。
「何度も」
「でも、先輩はずっと、迷いなく吹ける人だと思ってました」
「迷わないように見せるのも、本番では必要だからね」
千秋は少し笑った。
「最初から、今みたいな音が出たわけじゃないよ」
由実はノートへ目を戻した。
今まで目標にしてきた、届く音。
大きくなくても、自然に耳が向く音。
その音も、一日で生まれたものではなかった。
音程に悩み、息が続かず、ソロを失敗し、吹きたくないと思った日がある。
それでも記録し、次の日も吹いてきた。
さらにページをめくると、大会後の記録があった。
金賞。
悔しい。
もっとできた。
短い言葉の下に、次の練習で直す箇所が細かく並んでいる。
結果だけではない。
千秋も、その日に吹いた音と、次に吹きたい音を残し続けていた。
「全部まねしなくていいからね」
千秋が言う。
「同じ練習が由実に合うとは限らないし、私が遠回りしたところまで、同じように遠回りする必要もない」
「どうして、私にくれるんですか?」
「記録を続けてるから」
千秋は由実の鞄へ視線を向けた。
中には、いつもの記録帳が入っている。
「それに、次は橋を架けてもらう側じゃなくなるかもしれないね」
「橋……?」
「前に話したでしょ。テナーは、上と下の間をつなぐことが多いって」
「はい」
「由実は今まで、香苗や真琴や莉央の音を聞いて、曲の中へ入ってきた」
由実は頷いた。
最初の合奏では、自分の音が大きすぎることにも気付かなかった。
地域演奏では入りを間違え、香苗たちの音を頼りに戻った。
コンクールでは、周囲の呼吸を聞き、自分の音を置けるようになった。
「でも、これから新しく入る人がいるかもしれない。まだ合奏へ入れない人もいるかもしれない」
千秋は、由実が持つノートを指した。
「そのとき、今度は由実が、誰かが入れる場所を作る側になるかもしれない」
「私が教えるんですか?」
「今すぐ一人で教えろって話じゃないよ」
千秋は笑った。
「ただ、自分が教えてもらったことを、自分だけのものにしなくてもいいってこと」
由実はノートを胸の前で持ち直した。
今の自分は、まだ千秋のようには吹けない。
真琴ほど基礎が身についているわけでもない。
香苗のように、相手の癖をすぐに見抜くこともできない。
それでも、自分ができなかったことなら覚えている。
最初の一音が出るか怖かったこと。
休符の数が分からなくなったこと。
周囲を聞こうとして、遅れてしまったこと。
練習しすぎて、音が出なくなったこと。
その経験が、いつか誰かの役に立つのかもしれない。
「ありがとうございます」
由実はノートを両手で持ち、頭を下げた。
「なくさないでね」
「なくしません」
「全部ケースに入れると重くなるよ」
「分けます」
「それがいい」
千秋は笑い、サックスパートの部員たちを見渡した。
「じゃあ、私からはこれで終わり」
あまりにも簡単な言葉だった。
誰もすぐには動けなかった。
「本当に終わりですか?」
真琴が尋ねる。
「引退だからね」
「また来ますよね」
「遊びには来るよ。毎日は来ないけど」
千秋が答えると、教室の空気が少しだけ緩んだ。
それでも、明日から千秋が普段の練習へいないことは変わらない。
由実は、もう一度ノートを見た。
音は、その場で消える。
県大会の最後の和音も、千秋のソロも、今はもう聞こえない。
けれど、録音には演奏が残っている。
記録には、千秋がそこへ至るまでの時間が残っている。
受け取ったものまで、引退と同時に消えるわけではなかった。
◇
ミーティングのあと、由実は音楽室へ戻った。
部員の多くは帰り、室内には片づけの音がわずかに残っている。
由実は赤いテナーのケースを開いた。
赤い管体を持ち上げ、柔らかな布で表面を拭いていく。
以前は、学校の備品だから傷を増やさないように扱っていた。
壊せば迷惑をかける。
修理代が必要になる。
だから丁寧にしていた。
今は、それだけではなかった。
この楽器で初めて音を出した。
香苗に姿勢を直された。
自分で選んだ黒いマウスピースを取り付けた。
地域演奏で失敗し、それでも最後まで吹いた。
地区大会で金賞を取り、県大会へ進んだ。
県大会では代表に届かなかった。
それでも、地区大会より良い音を吹けた。
赤い塗装の剥がれた場所へ、布をゆっくり滑らせる。
傷は消えない。
古い楽器であることも変わらない。
けれど、その傷まで以前とは違って見えた。
誰かが吹いた。
誰かが調整へ出した。
誰かが大会へ持っていった。
そうして、自分のところまで残ってきた。
由実はケースの内側から整備記録を取り出した。
何人もの名前。
修理や調整の日付。
自分が生まれるより前の記録も残っている。
その隣へ、千秋から受け取ったノートと、自分の記録帳を置いてみる。
三つの記録が、一つのケースの中へ並んだ。
赤いテナーの記録。
千秋の記録。
自分の記録。
由実は、しばらくそれを眺めた。
千秋のノートは、今日から由実が持つ。
自分の記録帳には、これからも新しいページが増えていく。
けれど、赤いテナーは学校の楽器だった。
卒業すれば、返さなければならない。
その当たり前のことを考えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
最初にケースを開いたときは、赤い色が恥ずかしかった。
古く、傷だらけで、ほかの楽器とは違って見えた。
自分の楽器だと思ったこともなかった。
学校から借りているもの。
たまたま自分へ回ってきたもの。
そう思っていた。
今は、卒業後に返すことを寂しいと感じている。
(私、高校を卒業したあとも吹きたいんだ)
由実は、赤いテナーのベルへ目を向けた。
香苗に言われたからではない。
コンクールで金賞を取ったからでもない。
代表に届かなかった悔しさを取り返すためだけでもない。
自分の息で音が始まる感覚を、これからも確かめたい。
周囲の音を聞き、その間へ自分の音を置きたい。
昨日より少し良くなった音を、記録帳へ残したい。
千秋のような届く音へ、自分の時間で近づいていきたい。
部活動が終わっても。
香苗や真琴と同じ場所で吹かなくなっても。
テナーを続けたい。
由実は整備記録と二冊のノートを、それぞれ傷まないように分けて収めた。
赤いテナーをケースへ戻す。
黒いマウスピースも、決めた場所へしまう。
蓋を閉じる前に、もう一度だけ楽器を見た。
この楽器は大切だった。
これからも、丁寧に吹きたい。
それでも、いつかは返さなければならない。
なら、そのあとも吹き続けるための楽器が必要になる。
自分で息を入れ、自分の音を育てていくための楽器。
由実はケースの蓋を静かに閉じた。
いつか、自分のテナーが欲しい。
それは大会の賞よりも、ずっと先まで続く願いだった。




