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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第七章 私のテナー

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第28話 続けたい理由

 テナーサックスの値段を見た瞬間、由実は画面を閉じかけた。


「……高い」


 思わず声が漏れる。


 机の上には、千秋から受け取った練習記録と、自分の記録帳が置かれていた。


 その隣では、スマートフォンの画面に金色のテナーサックスが映っている。


 県大会の会場で見かけた楽器を思い出しながら、軽い気持ちで調べ始めた。


 自分のテナーが欲しい。


 その願いが、いくらくらいで叶うものなのか知りたかっただけだった。


 けれど、表示された数字は、由実が想像していたものより一桁大きかった。


 セルマー。


 ヤマハ。


 ヤナギサワ。


 カイルヴェルト。


 メーカー名を変えて検索しても、簡単に買えるような金額は出てこない。


 初心者向けと紹介されている楽器でも数十万円。


 上位機種になると、百万円を超えるものまであった。


「これ、楽器だよね……?」


 由実は、もう一度価格を確認した。


 桁は変わらない。


 当然だった。


 マウスピースを買ったときも、安い買い物だとは思わなかった。


 それでも、自分のお年玉や貯金で手が届いた。


 楽器本体は違う。


 お年玉を何年分集めても足りない。


 由実は別の店の価格表を開いた。


 中古なら少し安いものもある。


 しかし、状態や調整歴によって価格が変わるらしく、写真と説明を読んだだけでは良いのか悪いのか分からない。


 さらに調べていくうちに、楽器は買えば終わりではないことも分かってきた。


 定期調整。


 タンポの交換。


 曲がったキーやばねの修理。


 リード。


 クリーニング用品。


 ストラップ。


 ケース。


 マウスピースやリガチャーはすでに持っているが、楽器が変われば合わなくなる可能性もある。


 由実は記録帳を開き、調べた内容を一つずつ書き出した。


『本体』


『調整』


『修理』


『リード』


『手入れ用品』


 書けば書くほど、自分の楽器を持つということが重くなっていく。


 欲しい。


 その一言だけで両親へ頼めるものではなかった。


 由実は机の引き出しを開けた。


 奥から、貯金している封筒と小さな通帳を取り出す。


 お年玉。


 使わずに残した小遣い。


 誕生日にもらったお金。


 金額を確認し、記録帳の端へ書く。


 マウスピースを買ったあとも少しずつ貯めてきた。


 高校生としては、少ない額ではないのかもしれない。


 それでも、テナーサックスを買うには足りなかった。


 何分の一にもならない。


「全部出しても、無理だ」


 数字を見つめていると、胸の奥に申し訳なさが広がった。


 自分で払えないものを欲しがる。


 しかも、なくても部活動は続けられる。


 赤いテナーを学校から借りているのだから、今すぐ困るわけではない。


 卒業するまでには、まだ時間もある。


(やっぱり、言えないかも)


 由実はスマートフォンを伏せた。


 赤いテナーのことを思い浮かべる。


 古くて、傷が多い。


 操作しにくいところもある。


 それでも、由実を最初の音から県大会まで連れていってくれた楽器だった。


 卒業までは使える。


 だったら、今はそれで十分だと言われれば、由実にも反論できなかった。


 けれど、卒業後は返さなければならない。


 その先も吹きたいと思った気持ちは、価格を見ても消えなかった。


 むしろ、手が届かないと分かったことで、簡単な憧れではないことだけははっきりした。


 由実は伏せたスマートフォンを、もう一度持ち上げた。


 今度は楽器の価格だけでなく、サックスを続ける方法も調べた。


 大学の吹奏楽部。


 市民楽団。


 一般の吹奏楽団。


 個人練習のできる施設。


 高校を卒業したあとも、吹く場所はあるらしい。


 由実は記録帳へ、小さく書き加えた。


『卒業後も続ける場所はある』


 その一行を見ていると、少しだけ息がしやすくなった。


 ◇


 翌日の放課後。


 サックスパートの練習が終わったあと、由実は赤いテナーをケースへ戻しながら、香苗の様子をうかがっていた。


 香苗は千秋から受け取った運営記録を机の上へ広げ、練習予定へ何かを書き込んでいる。


 その横には、参考書らしい厚い本が置かれていた。


「香苗先輩」


「ん?」


「少し聞いてもいいですか」


「いいよ」


 香苗はペンを置いた。


 由実はケースの留め具へ指をかけたまま、言葉を探す。


「テナーサックスって、買うとしたら……どれくらい必要ですか」


「金額?」


「はい」


 香苗の眉がわずかに上がった。


「欲しいの?」


「まだ、買えるかどうかも分からないです。でも、少し調べてて」


 由実は慌てて続ける。


「赤いテナーが嫌になったわけじゃないです」


「分かってる」


 香苗はあっさり答えた。


「嫌だったら、あんなに毎日磨かないだろ」


 見られていたことが少し恥ずかしくなり、由実は視線をケースへ落とした。


「機種によるな」


 香苗は椅子を引き、由実の向かいへ座った。


「新品か中古かでも違うし、メーカーでも変わる。予算を決めずに見ると、上はいくらでもある」


「百万円を超えるものもありました」


「あるな」


「普通に言いますね」


「普通にあるから」


 香苗は机の上の紙を一枚取り、何本か線を引いた。


「学校で使うなら、必ずしも一番高い楽器が必要ってわけじゃない。むしろ、由実に合うかどうかの方が大事」


「初心者向けって書いてあるものを選べばいいんですか?」


「初心者向けって言葉も曖昧だよ。扱いやすいって意味のこともあるし、価格を抑えた入門用って意味のこともある。長く使うなら、卒業後まで考えた方がいい」


 香苗は、由実が調べたメーカーを一つずつ挙げた。


 セルマー。


 ヤマハ。


 ヤナギサワ。


 カイルヴェルト。


 由実が昨日見た名前ばかりだった。


「先輩の楽器は、カイルヴェルトですよね」


「そう」


「高いですか?」


「今の同じくらいのモデルを新品で買うなら、高い」


「先輩は、自分で選んだんですか?」


「いや。父親が使ってたのを譲ってもらった」


 香苗は隣に立てかけてある黒いケースへ目を向けた。


「あれは最初から家にあった。だから、私も一から予算を決めて買った経験はない」


「そうなんですか」


「楽器のことは話せるけど、家のお金のことまで私が決めるわけにはいかないからな」


 香苗は紙へ、楽器本体以外に必要なものを書き始めた。


「調整は定期的に必要。毎回同じ金額じゃない。大きな修理が出たら高くなる。リードは消耗品。手入れ用品もいる」


「昨日、調べました」


「なら、思ったより大変だっただろ」


「はい」


「ケースやストラップは付属してることも多いけど、ずっとそれで足りるとは限らない。マウスピースも、今のT20が新しい楽器に合うかは吹いてみないと分からない」


 由実は自分のケースの中にある黒いマウスピースを思い浮かべた。


 あれを買ったときは、自分の音が変わることが嬉しかった。


 けれど、楽器本体となれば、比べものにならない。


「欲しいって思うのと、買うって決めるのは別だからな」


 香苗の言葉に、由実は頷いた。


「はい」


「でも、欲しいって思うこと自体は悪くない」


 由実が顔を上げる。


「買えるかどうか分からないからって、最初から考えるのをやめる必要はないだろ」


「でも、私のお金だけじゃ全然足りません」


「高校生なんだから、普通だよ」


「両親に出してもらうことになります」


「だから相談するんだろ」


 香苗は紙を由実の方へ押した。


「本体の価格だけ見せて買ってほしいって言うんじゃなくて、どれくらい続けたいのか、維持費をどうするのか、自分で出せる分はどれくらいあるのか。そこまで考えて話した方がいい」


「認めてもらえると思いますか?」


「それは分からない」


 香苗は曖昧に励まさなかった。


「家によって違うし、高い買い物だから。でも、由実が何も言わなかったら、欲しいことも伝わらない」


 そのとき、香苗が時計を見た。


「あ」


 机の上の参考書と運営記録を急いで鞄へ入れる。


「もう帰るんですか?」


「今日はちょっと予定がある」


「パートの記録は?」


「家で見る。明日までに練習の順番だけ決めとく」


 香苗はケースを持ち上げた。


「悪い。続きはまた聞いて」


「はい」


 由実が答えると、香苗は一度教室を出かけ、振り返った。


「由実」


「何ですか?」


「楽器を買う理由を、メーカー名だけにするなよ」


「しません」


「私と同じ楽器が欲しい、とかも」


 由実は答えに詰まった。


 一度くらいは考えたことがある。


 香苗と同じ黒い楽器を持てば、少しだけ近づけるような気がした。


 表情に出たらしく、香苗が呆れたように笑う。


「やっぱり考えたな」


「少しだけです」


「私はカイルヴェルトが好き。でも、由実が吹く楽器は由実が決めろ」


 それだけ言って、香苗は今度こそ教室を出ていった。


 廊下を歩く足音が遠ざかる。


 以前なら、練習後も香苗はもう少し残っていた。


 由実は閉じた扉を見つめたが、すぐに赤いテナーのケースへ視線を戻した。


 今は、自分の楽器について考える方が先だった。


 ◇


 帰宅後、由実は記録帳の新しいページを開いた。


 上に、


『自分のテナーが欲しい理由』


 と書く。


 一行目。


『県大会で金賞を取ったから』


 書いたあとで、鉛筆が止まった。


 それは理由の一つかもしれない。


 でも、金賞を取ったご褒美として欲しいわけではない。


 県大会で代表に選ばれなかったから、代わりに何かが欲しいわけでもない。


 二行目。


『県大会へ出たから』


 これも違う気がした。


 県大会へ出ていなければ、欲しくならなかったのだろうか。


 由実は首を振る。


 三行目。


『香苗先輩や千秋先輩のようになりたいから』


 それは本当だった。


 千秋のように、自然に耳が向く音を吹きたい。


 香苗のように、相手の音を聴きながら支えられる奏者になりたい。


 けれど、それだけなら、赤いテナーでも練習できる。


 由実は鉛筆を置いた。


 ケースの中にある赤いテナーを思い浮かべる。


 最初は、赤い色が恥ずかしかった。


 古くて、傷があって、ほかの楽器より見劣りすると思っていた。


 今は違う。


 返さなければならないことが寂しい。


 なぜ寂しいのか。


 由実は、もう一度鉛筆を持った。


 県大会で代表に選ばれなかった日のことを思い出す。


 金賞を喜べなかった。


 練習した意味まで分からなくなった。


 それでも、テナーをやめたいとは思わなかった。


 録音を聴き、自分の音が前より長く残っていると知った。


 千秋の記録を受け取り、あの音も失敗や迷いの先にあったと知った。


 そのあと赤いテナーを磨きながら、卒業しても吹きたいと思った。


 大会の結果が良かったからではない。


 結果が思いどおりにならなかったあとにも、残った気持ちだった。


 由実は、ページへ書く。


『大会の結果に関係なく、卒業後もテナーを吹きたい』


 書いた文字を、何度か読み返した。


 これなら、嘘ではなかった。


 さらに下へ、自分にできることを書き加える。


『貯金を使う』


『リードや手入れ用品は、できるだけ小遣いから出す』


『練習と記録を続ける』


 そこで、また手が止まった。


 定期調整や大きな修理は、自分の小遣いだけでは難しい。


 両親の負担は、楽器を買ったときだけでは終わらない。


 続けられる保証もない。


 高校を卒業したあと、環境が変わるかもしれない。


 大学へ行けば忙しくなるかもしれない。


 大人になれば、今と同じように吹けるとは限らない。


(そんな先のこと、約束できない)


 由実は記録帳を閉じかけた。


 両親へ話さなければ、断られることもない。


 高すぎる楽器を欲しがって困らせることもない。


 赤いテナーは、まだ借りられる。


 卒業が近くなってから考えても遅くはない。


 そう思おうとした。


 けれど、閉じかけたページに書かれた言葉が見えた。


『卒業後もテナーを吹きたい』


 今の由実には、続けられる保証はない。


 それでも、続けたいと思っている。


 保証がないから黙って諦めるのと、分からないことも含めて相談するのは違う。


 香苗の言葉を思い出す。


『何も言わなかったら、欲しいことも伝わらない』


 由実は記録帳を開き直した。


 ページの一番下へ書く。


『駄目でもともとで、相談する』


 書いた瞬間、胸が少し速く打った。


 楽器を買えると決まったわけではない。


 むしろ、断られる可能性の方が高いと思う。


 それでも、自分が何を続けたいのかは、きちんと伝えたかった。


 由実は、調べた価格と維持費を別の紙へ整理し始めた。


 自分の貯金額。


 毎月使える小遣い。


 学校の楽器を借りられる期間。


 卒業後も続けたい理由。


 欲しいという気持ちだけではなく、分かっていることと、まだ分からないことも書く。


 明日の夕食後。


 両親がそろっているときに話そう。


 由実は最後に、記録帳へ一行加えた。


『自分の楽器が欲しいではなく、自分の音を続けたい』


 その文字を見つめてから、静かにページを閉じた。

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