第28話 続けたい理由
テナーサックスの値段を見た瞬間、由実は画面を閉じかけた。
「……高い」
思わず声が漏れる。
机の上には、千秋から受け取った練習記録と、自分の記録帳が置かれていた。
その隣では、スマートフォンの画面に金色のテナーサックスが映っている。
県大会の会場で見かけた楽器を思い出しながら、軽い気持ちで調べ始めた。
自分のテナーが欲しい。
その願いが、いくらくらいで叶うものなのか知りたかっただけだった。
けれど、表示された数字は、由実が想像していたものより一桁大きかった。
セルマー。
ヤマハ。
ヤナギサワ。
カイルヴェルト。
メーカー名を変えて検索しても、簡単に買えるような金額は出てこない。
初心者向けと紹介されている楽器でも数十万円。
上位機種になると、百万円を超えるものまであった。
「これ、楽器だよね……?」
由実は、もう一度価格を確認した。
桁は変わらない。
当然だった。
マウスピースを買ったときも、安い買い物だとは思わなかった。
それでも、自分のお年玉や貯金で手が届いた。
楽器本体は違う。
お年玉を何年分集めても足りない。
由実は別の店の価格表を開いた。
中古なら少し安いものもある。
しかし、状態や調整歴によって価格が変わるらしく、写真と説明を読んだだけでは良いのか悪いのか分からない。
さらに調べていくうちに、楽器は買えば終わりではないことも分かってきた。
定期調整。
タンポの交換。
曲がったキーやばねの修理。
リード。
クリーニング用品。
ストラップ。
ケース。
マウスピースやリガチャーはすでに持っているが、楽器が変われば合わなくなる可能性もある。
由実は記録帳を開き、調べた内容を一つずつ書き出した。
『本体』
『調整』
『修理』
『リード』
『手入れ用品』
書けば書くほど、自分の楽器を持つということが重くなっていく。
欲しい。
その一言だけで両親へ頼めるものではなかった。
由実は机の引き出しを開けた。
奥から、貯金している封筒と小さな通帳を取り出す。
お年玉。
使わずに残した小遣い。
誕生日にもらったお金。
金額を確認し、記録帳の端へ書く。
マウスピースを買ったあとも少しずつ貯めてきた。
高校生としては、少ない額ではないのかもしれない。
それでも、テナーサックスを買うには足りなかった。
何分の一にもならない。
「全部出しても、無理だ」
数字を見つめていると、胸の奥に申し訳なさが広がった。
自分で払えないものを欲しがる。
しかも、なくても部活動は続けられる。
赤いテナーを学校から借りているのだから、今すぐ困るわけではない。
卒業するまでには、まだ時間もある。
(やっぱり、言えないかも)
由実はスマートフォンを伏せた。
赤いテナーのことを思い浮かべる。
古くて、傷が多い。
操作しにくいところもある。
それでも、由実を最初の音から県大会まで連れていってくれた楽器だった。
卒業までは使える。
だったら、今はそれで十分だと言われれば、由実にも反論できなかった。
けれど、卒業後は返さなければならない。
その先も吹きたいと思った気持ちは、価格を見ても消えなかった。
むしろ、手が届かないと分かったことで、簡単な憧れではないことだけははっきりした。
由実は伏せたスマートフォンを、もう一度持ち上げた。
今度は楽器の価格だけでなく、サックスを続ける方法も調べた。
大学の吹奏楽部。
市民楽団。
一般の吹奏楽団。
個人練習のできる施設。
高校を卒業したあとも、吹く場所はあるらしい。
由実は記録帳へ、小さく書き加えた。
『卒業後も続ける場所はある』
その一行を見ていると、少しだけ息がしやすくなった。
◇
翌日の放課後。
サックスパートの練習が終わったあと、由実は赤いテナーをケースへ戻しながら、香苗の様子をうかがっていた。
香苗は千秋から受け取った運営記録を机の上へ広げ、練習予定へ何かを書き込んでいる。
その横には、参考書らしい厚い本が置かれていた。
「香苗先輩」
「ん?」
「少し聞いてもいいですか」
「いいよ」
香苗はペンを置いた。
由実はケースの留め具へ指をかけたまま、言葉を探す。
「テナーサックスって、買うとしたら……どれくらい必要ですか」
「金額?」
「はい」
香苗の眉がわずかに上がった。
「欲しいの?」
「まだ、買えるかどうかも分からないです。でも、少し調べてて」
由実は慌てて続ける。
「赤いテナーが嫌になったわけじゃないです」
「分かってる」
香苗はあっさり答えた。
「嫌だったら、あんなに毎日磨かないだろ」
見られていたことが少し恥ずかしくなり、由実は視線をケースへ落とした。
「機種によるな」
香苗は椅子を引き、由実の向かいへ座った。
「新品か中古かでも違うし、メーカーでも変わる。予算を決めずに見ると、上はいくらでもある」
「百万円を超えるものもありました」
「あるな」
「普通に言いますね」
「普通にあるから」
香苗は机の上の紙を一枚取り、何本か線を引いた。
「学校で使うなら、必ずしも一番高い楽器が必要ってわけじゃない。むしろ、由実に合うかどうかの方が大事」
「初心者向けって書いてあるものを選べばいいんですか?」
「初心者向けって言葉も曖昧だよ。扱いやすいって意味のこともあるし、価格を抑えた入門用って意味のこともある。長く使うなら、卒業後まで考えた方がいい」
香苗は、由実が調べたメーカーを一つずつ挙げた。
セルマー。
ヤマハ。
ヤナギサワ。
カイルヴェルト。
由実が昨日見た名前ばかりだった。
「先輩の楽器は、カイルヴェルトですよね」
「そう」
「高いですか?」
「今の同じくらいのモデルを新品で買うなら、高い」
「先輩は、自分で選んだんですか?」
「いや。父親が使ってたのを譲ってもらった」
香苗は隣に立てかけてある黒いケースへ目を向けた。
「あれは最初から家にあった。だから、私も一から予算を決めて買った経験はない」
「そうなんですか」
「楽器のことは話せるけど、家のお金のことまで私が決めるわけにはいかないからな」
香苗は紙へ、楽器本体以外に必要なものを書き始めた。
「調整は定期的に必要。毎回同じ金額じゃない。大きな修理が出たら高くなる。リードは消耗品。手入れ用品もいる」
「昨日、調べました」
「なら、思ったより大変だっただろ」
「はい」
「ケースやストラップは付属してることも多いけど、ずっとそれで足りるとは限らない。マウスピースも、今のT20が新しい楽器に合うかは吹いてみないと分からない」
由実は自分のケースの中にある黒いマウスピースを思い浮かべた。
あれを買ったときは、自分の音が変わることが嬉しかった。
けれど、楽器本体となれば、比べものにならない。
「欲しいって思うのと、買うって決めるのは別だからな」
香苗の言葉に、由実は頷いた。
「はい」
「でも、欲しいって思うこと自体は悪くない」
由実が顔を上げる。
「買えるかどうか分からないからって、最初から考えるのをやめる必要はないだろ」
「でも、私のお金だけじゃ全然足りません」
「高校生なんだから、普通だよ」
「両親に出してもらうことになります」
「だから相談するんだろ」
香苗は紙を由実の方へ押した。
「本体の価格だけ見せて買ってほしいって言うんじゃなくて、どれくらい続けたいのか、維持費をどうするのか、自分で出せる分はどれくらいあるのか。そこまで考えて話した方がいい」
「認めてもらえると思いますか?」
「それは分からない」
香苗は曖昧に励まさなかった。
「家によって違うし、高い買い物だから。でも、由実が何も言わなかったら、欲しいことも伝わらない」
そのとき、香苗が時計を見た。
「あ」
机の上の参考書と運営記録を急いで鞄へ入れる。
「もう帰るんですか?」
「今日はちょっと予定がある」
「パートの記録は?」
「家で見る。明日までに練習の順番だけ決めとく」
香苗はケースを持ち上げた。
「悪い。続きはまた聞いて」
「はい」
由実が答えると、香苗は一度教室を出かけ、振り返った。
「由実」
「何ですか?」
「楽器を買う理由を、メーカー名だけにするなよ」
「しません」
「私と同じ楽器が欲しい、とかも」
由実は答えに詰まった。
一度くらいは考えたことがある。
香苗と同じ黒い楽器を持てば、少しだけ近づけるような気がした。
表情に出たらしく、香苗が呆れたように笑う。
「やっぱり考えたな」
「少しだけです」
「私はカイルヴェルトが好き。でも、由実が吹く楽器は由実が決めろ」
それだけ言って、香苗は今度こそ教室を出ていった。
廊下を歩く足音が遠ざかる。
以前なら、練習後も香苗はもう少し残っていた。
由実は閉じた扉を見つめたが、すぐに赤いテナーのケースへ視線を戻した。
今は、自分の楽器について考える方が先だった。
◇
帰宅後、由実は記録帳の新しいページを開いた。
上に、
『自分のテナーが欲しい理由』
と書く。
一行目。
『県大会で金賞を取ったから』
書いたあとで、鉛筆が止まった。
それは理由の一つかもしれない。
でも、金賞を取ったご褒美として欲しいわけではない。
県大会で代表に選ばれなかったから、代わりに何かが欲しいわけでもない。
二行目。
『県大会へ出たから』
これも違う気がした。
県大会へ出ていなければ、欲しくならなかったのだろうか。
由実は首を振る。
三行目。
『香苗先輩や千秋先輩のようになりたいから』
それは本当だった。
千秋のように、自然に耳が向く音を吹きたい。
香苗のように、相手の音を聴きながら支えられる奏者になりたい。
けれど、それだけなら、赤いテナーでも練習できる。
由実は鉛筆を置いた。
ケースの中にある赤いテナーを思い浮かべる。
最初は、赤い色が恥ずかしかった。
古くて、傷があって、ほかの楽器より見劣りすると思っていた。
今は違う。
返さなければならないことが寂しい。
なぜ寂しいのか。
由実は、もう一度鉛筆を持った。
県大会で代表に選ばれなかった日のことを思い出す。
金賞を喜べなかった。
練習した意味まで分からなくなった。
それでも、テナーをやめたいとは思わなかった。
録音を聴き、自分の音が前より長く残っていると知った。
千秋の記録を受け取り、あの音も失敗や迷いの先にあったと知った。
そのあと赤いテナーを磨きながら、卒業しても吹きたいと思った。
大会の結果が良かったからではない。
結果が思いどおりにならなかったあとにも、残った気持ちだった。
由実は、ページへ書く。
『大会の結果に関係なく、卒業後もテナーを吹きたい』
書いた文字を、何度か読み返した。
これなら、嘘ではなかった。
さらに下へ、自分にできることを書き加える。
『貯金を使う』
『リードや手入れ用品は、できるだけ小遣いから出す』
『練習と記録を続ける』
そこで、また手が止まった。
定期調整や大きな修理は、自分の小遣いだけでは難しい。
両親の負担は、楽器を買ったときだけでは終わらない。
続けられる保証もない。
高校を卒業したあと、環境が変わるかもしれない。
大学へ行けば忙しくなるかもしれない。
大人になれば、今と同じように吹けるとは限らない。
(そんな先のこと、約束できない)
由実は記録帳を閉じかけた。
両親へ話さなければ、断られることもない。
高すぎる楽器を欲しがって困らせることもない。
赤いテナーは、まだ借りられる。
卒業が近くなってから考えても遅くはない。
そう思おうとした。
けれど、閉じかけたページに書かれた言葉が見えた。
『卒業後もテナーを吹きたい』
今の由実には、続けられる保証はない。
それでも、続けたいと思っている。
保証がないから黙って諦めるのと、分からないことも含めて相談するのは違う。
香苗の言葉を思い出す。
『何も言わなかったら、欲しいことも伝わらない』
由実は記録帳を開き直した。
ページの一番下へ書く。
『駄目でもともとで、相談する』
書いた瞬間、胸が少し速く打った。
楽器を買えると決まったわけではない。
むしろ、断られる可能性の方が高いと思う。
それでも、自分が何を続けたいのかは、きちんと伝えたかった。
由実は、調べた価格と維持費を別の紙へ整理し始めた。
自分の貯金額。
毎月使える小遣い。
学校の楽器を借りられる期間。
卒業後も続けたい理由。
欲しいという気持ちだけではなく、分かっていることと、まだ分からないことも書く。
明日の夕食後。
両親がそろっているときに話そう。
由実は最後に、記録帳へ一行加えた。
『自分の楽器が欲しいではなく、自分の音を続けたい』
その文字を見つめてから、静かにページを閉じた。




