第29話 駄目でもともと
「相談したいことがあります」
夕食後の食卓でそう切り出すと、父と母の手が同時に止まった。
父は湯飲みを持ち上げかけたまま、母は重ねた食器へ手を添えている。
「どうした?」
「学校で何かあったの?」
「悪い話じゃないです」
由実は膝の上に置いていた紙の束を、食卓へ載せた。
テナーサックスの価格。
定期調整や修理にかかる費用。
リードやクリーニング用品など、買い続けなければならない消耗品。
自分の貯金額。
昨夜まで何度も書き直した数字が、細かな字で並んでいる。
記録帳も、その横へ置いた。
「テナーサックスが欲しいです」
言ってしまった。
胸の奥で暴れていた鼓動が、口から飛び出したような気がした。
父はすぐには答えなかった。
母が、紙の一番上へ目を落とす。
「テナーサックスって、今学校から借りてる赤い楽器よね」
「うん」
「これくらいするの?」
「安いものでも、かなりします」
「かなりどころじゃないな」
父が紙を手に取った。
由実が候補として調べた価格帯には、数十万円という数字が並んでいる。
上位機種には、由実が書き写すのをためらったほど大きな金額もあった。
「これは新品の値段か?」
「新品が中心です。中古もあります。でも、状態を見てもらわないと分からないので、値段だけで決めない方がいいって言われました」
「誰に?」
「香苗先輩です」
父は紙をめくった。
「定期調整、タンポ交換、修理費……。買ったあとにも、これだけかかるのか」
「毎年全部が必要になるわけじゃないです。でも、調整は必要です。リードも使っていると交換します」
「今の学校の楽器では駄目なのか?」
予想していた質問だった。
由実は一度、息を吸った。
「駄目じゃないです」
答えると、母が少し意外そうに由実を見た。
「あの赤いテナーは、大切な楽器です。最初は嫌でしたけど、今は違います」
傷のある赤い管体が思い浮かぶ。
初めて音が出た日。
香苗に姿勢を直されたこと。
黒いマウスピースを選んだこと。
地域演奏で入りを間違えたこと。
地区大会と県大会。
「赤いテナーが嫌だから、新しい楽器が欲しいわけじゃありません」
「じゃあ、どうして?」
「学校の楽器だからです」
母の眉がわずかに寄る。
「卒業したら、返さないといけません。部活動を引退したあとも、ずっと借りられるわけじゃないです」
「卒業したあとも続けるつもりなのか?」
父の問いに、由実は頷いた。
「続けたいです」
言葉にすると、緊張で冷たくなっていた指先へ少し力が戻った。
「高校を卒業しても、吹きたいです」
「でも、まだ一年生だろう。これから気持ちが変わることもある」
「あると思います」
由実は否定しなかった。
「絶対に一生続けますって、今は言えません。でも、今の私は、卒業したら終わりにしたくないです」
父は黙って由実を見ている。
母も食器を片づける手を戻さなかった。
「県大会で金賞を取ったから欲しいんじゃないです」
由実は記録帳へ手を置いた。
「県大会では、次へ進めませんでした。すごく悔しかったです。練習した意味がなかったんじゃないかとも思いました」
あの日のページには、今もその言葉が残っている。
消してはいない。
「でも、次へ進めなかったあとも、テナーをやめたいとは思いませんでした」
むしろ、自分の音をもっと育てたいと思った。
赤いテナーを卒業後に返すことを、初めて寂しいと感じた。
「金賞のご褒美で買ってほしいんじゃありません。結果が思ったとおりにならなくても、これからも吹きたいから欲しいです」
父が記録帳へ視線を移した。
「このノートは?」
「練習記録です」
「見てもいいか?」
少し迷った。
上手く吹けなかった日も、泣きそうになった日も書いてある。
県大会のあとには、努力の意味を疑った言葉まで残していた。
「はい」
由実が差し出すと、父は表紙を開いた。
母も隣から覗き込む。
ロングトーン。
音程。
休符。
息の支え。
地域演奏で入りを間違えたこと。
地区大会で金賞を取ったこと。
県大会で代表に届かなかったこと。
ページをめくる音が、妙に大きく聞こえた。
「毎日書いてたの?」
母が尋ねる。
「毎日ではないけど、練習した日はできるだけ」
「こんなに細かく?」
「忘れるので」
「由実が?」
「私がです」
母が小さく笑った。
からかわれたような気がしたが、その声はやわらかかった。
父は記録帳を閉じ、最初の紙へ戻った。
「自分の貯金を使うと書いてあるな」
「全部ではないですけど、使います」
「全部出しても、楽器代には足りないだろう」
「足りません」
そこが一番言いにくかった。
「だから、お願いしています」
由実は膝の上で手を握った。
「リードや手入れ用品は、できる範囲で自分のお小遣いから出します。大きな修理や定期調整は、自分だけでは無理です。そこは手伝ってもらわないといけません」
「ずいぶん正直だな」
「無理なことを、できるとは言えないので」
「そうだな」
父は腕を組んだ。
由実は、次の言葉を待った。
高すぎる。
今は必要ない。
学校の楽器を使えばいい。
どれも正しいと思う。
由実自身、両親へ相談する前から、認めてもらえるとはほとんど考えていなかった。
駄目でもともと。
何も言わずに諦めるよりはいい。
そう思って口にしただけだった。
「すぐには決められない」
父が言った。
やはり、と由実の胸が少し沈む。
「高い買い物だ。楽器のことも、父さんたちには分からない。由実が書いたことだけ見て、今日ここでいいとは言えない」
「はい」
「でも、駄目とも言わない」
由実は顔を上げた。
「え?」
「少し考えさせてくれ」
父は紙の束をそろえた。
「母さんとも相談する」
「……分かりました」
断られなかった。
それだけで、胸の奥へ小さな期待が生まれる。
けれど、父の前に置かれた金額を見ると、その期待を大きくしてはいけない気もした。
「今日はもういいか?」
「はい」
「じゃあ、記録帳は返す」
父から受け取り、由実は椅子を立った。
自室へ戻る途中、食卓へ残った紙が目に入る。
父と母は、すぐには話し始めなかった。
由実は廊下で立ち止まらず、そのまま部屋へ戻った。
扉を閉めて、記録帳を机へ置く。
相談できた。
それだけでも、昨日までとは違う。
そう思おうとした。
それでも、眠る直前まで、食卓に置いた金額が頭から離れなかった。
◇
数日後。
夕食を終えた由実が食器を台所へ運ぼうとすると、父に呼び止められた。
「由実、少しいいか」
声の調子から、何の話かはすぐ分かった。
由実は食器を置き、食卓へ戻った。
母も向かい側へ座る。
あの日に渡した紙が、父の前へ置かれていた。
端には、由実が書いていない数字や短い言葉が加えられている。
「楽器のことだけど」
「はい」
由実は背筋を伸ばした。
「一つ、聞いていいか?」
「はい」
「由実は今まで、自分から何かを長く続けたいと言ったことがあったか?」
予想していなかった質問だった。
由実は答えようとして、言葉が出てこない。
習い事を始めたことはある。
学校の係も、頼まれれば断らなかった。
勉強も、必要だからしてきた。
けれど、自分からこれを続けたいと両親へ訴えた記憶はなかった。
「……ないと思います」
「そうだな」
父は困らせるためではなく、確かめるように頷いた。
母が続ける。
「由実は、あまり我が儘を言わない子だったから」
「それは、いいことじゃないんですか」
「悪いとは言ってないよ」
母は少し笑った。
「欲しいものがあっても、駄目だと思ったら言わなかったでしょう」
由実には思い当たることがあった。
値段を見て諦めたもの。
両親が忙しそうだからと頼まなかったこと。
どうせ続かないと思われるのが嫌で、口にしなかったこと。
「それに、何かへ夢中になることも、あまりなかった」
母の言葉は責める調子ではなかった。
「学校へ行って、宿題をして、言われたことはちゃんとやる。でも、自分から朝早く起きたり、失敗しても次の日にまたやったりすることは、今まであまりなかったでしょう」
由実は視線を落とした。
「部活動に入ってから、変わったよ」
母は指を折るように、一つずつ話した。
「朝、前より早く起きるようになった」
「重いケースを持って、毎日学校へ行った」
「帰ってきたら疲れてるのに、ご飯のあとでノートを書いてた」
「手が痛いって言ってた日も、唇が痛いって言ってた日も、次の日にはまた楽器を持って出ていった」
「見てたんですか」
「家にいるんだから、見るよ」
由実は、赤いテナーのケースを玄関へ置くたび、両親は重そうだと言うだけだと思っていた。
帰宅して記録帳を開いていても、詳しい内容までは知らないと思っていた。
「地域の演奏会で失敗した日も、帰ってきたとき、ずいぶん落ち込んでたよね」
由実の指先が少し縮こまる。
「次の日、休むかと思った」
「休みませんでした」
「うん。いつもどおり、ケースを持って出ていった」
母は穏やかに頷いた。
「県大会のあともそう。あれだけ落ち込んでたから、もう嫌だって言うかと思った。でも、言わなかった」
「言えなかったんじゃなくて、やめたくなかったので」
「だから、今回の話をちゃんと考えようと思ったの」
父が、由実のまとめた紙へ手を置いた。
「楽器のことは、正直よく分からない」
「はい」
「メーカーの違いも、音の違いも分からない。ここに書いてあるモデルが、値段に見合うものなのかも、父さんには判断できない」
由実は黙って聞いた。
「でも、由実が今まで本気で続けてきたことは分かる」
父はまっすぐ由実を見た。
「金賞を取ったから買うわけじゃない」
「はい」
「代表に選ばれなかったのに、それでも続けたいと言ったから、手伝いたいと思った」
由実は、すぐには意味を理解できなかった。
「手伝う、って」
「買っていいぞ」
父の言葉は、あまりにも短かった。
「え?」
「だから、買っていい」
由実は父と母を交互に見た。
「本当に?」
「本当」
母が笑う。
「駄目だと思ってた?」
「ほとんど」
「相談する前から?」
「はい」
「それなのに、あれだけ調べたの?」
「何も調べずに欲しいとは言えないので」
父が小さく息を吐いた。
「そういうところも含めて、今回は応援していいと思った」
嬉しい。
そのはずなのに、由実はすぐに喜べなかった。
紙に書かれた金額が目に入る。
「でも、高いです」
「高いな」
「本当に、かなり」
「父さんたちも、それくらいは分かってる」
「私の貯金だけじゃ、全然足りません」
「それも分かってる」
「途中で続けられなくなるかもしれません」
「絶対に飽きない保証があるものなんて、そうないだろう」
父は少し考えてから続けた。
「ただし、何でも好きなものを選んでいいわけじゃない」
「条件があるんですか」
「ある」
父は紙を由実の方へ向けた。
余白へ、いくつかの項目が書かれている。
「まず、予算の上限は決める」
「はい」
「由実の貯金も一部使う。全部使い切る必要はないが、自分の買い物でもあるからな」
「使います」
「一台だけ見て決めない。複数のメーカーと、できれば複数の楽器を試す」
「はい」
「値段が高いから良い、先輩と同じだから良い、見た目が好きだから良い、では決めない」
由実は少し驚いた。
「それ、香苗先輩にも似たことを言われました」
「なら、その先輩にも手伝ってもらえ」
「お願いしてもいいんですか」
「由実より詳しいんだろう」
「すごく詳しいです」
「詳しすぎて、由実の代わりに決めない人ならいい」
由実は香苗の言葉を思い出した。
『欲しいって思うのと、買うって決めるのは別だからな』
「大丈夫です。先輩は、最後は私が決めることだと言ってました」
「なら、相談しなさい」
父は最後の項目を指した。
「買ったあとは、自分で手入れをする。記録も続ける」
「はい」
「修理や調整が必要になったら、隠さずに言う。壊したくないからって放っておく方が困る」
「分かりました」
母が由実の顔を覗き込む。
「そんなに硬くならなくていいのよ」
「でも」
「高いものだからこそ、欲しいと言って終わりにはしないで、一緒に考えようってこと」
「一緒に?」
「楽器のことは分からないけど、由実が本気なのは分かるから」
母は少し照れたように笑った。
「今まで大きな我が儘を言わなかった分、何か一つ欲しいと言ったときくらい、手伝わせてよ」
「我が儘じゃ――」
「少しくらいは我が儘でもいいの」
母に言われ、由実は口を閉じた。
胸の奥が熱くなる。
自分の努力は、録音や記録帳の中だけに残っていたわけではなかった。
朝、ケースを持って家を出たこと。
失敗して帰ってきたこと。
それでも翌日また練習へ向かったこと。
自分では当たり前だと思っていた一つ一つを、両親も見ていた。
「ありがとうございます」
由実は頭を下げた。
「まだ買ってないぞ」
「それでもです」
声が少し震えた。
「私、ちゃんと選びます」
「焦らなくていい」
父が言う。
「せっかく高い買い物をするんだから、納得するまで試しなさい」
「はい」
「あと、父さんたちにも説明できるようにしてくれ」
「音の違いをですか?」
「専門用語じゃなくて、どうしてそれが由実に合うのかを」
難しい宿題だと思った。
けれど、嫌ではなかった。
自分の息で吹き、自分の耳で聞き、自分の言葉で選ぶ。
それなら、できるようになりたい。
由実は食卓に置かれた紙を集めた。
ただ買ってもらうのではない。
家族に負担をかけて終わるお願いでもない。
自分の貯金を使い、自分で試し、自分で選び、これから手入れと記録を続けていく。
家族と一緒に、自分の楽器を探すのだ。
自室へ戻ると、由実はすぐにスマートフォンを手に取った。
香苗とのメッセージ画面を開く。
『先輩。両親が、楽器を買ってもいいと言ってくれました』
そこまで打ち、少し考える。
『選ぶのを手伝ってください』
送信すると、思っていたより早く既読が付いた。
『もちろん』
続けて、もう一通届く。
『まず予算と候補メーカーを整理するぞ』
その直後から、セルマー、ヤマハ、ヤナギサワ、カイルヴェルトという名前と、いくつものモデル名が画面へ並び始めた。
由実は思わず笑った。
『先輩、まだお店にも行ってません』
『準備は早い方がいい』
『また始まってます』
返事を送ってから、由実は記録帳を開いた。
県大会のページより、さらに後ろ。
何も書かれていない新しいページへ、日付を入れる。
その下へ、一行だけ書いた。
『自分のテナーを探せることになった』
まだ、どの楽器を選ぶのかは分からない。
音も、色も、重さも知らない。
それでも、何も言わずに諦めていた昨日までとは違う。
由実は新しいページをしばらく眺め、それから、香苗から止まらずに届く楽器の説明を読み始めた。




