第30話 先輩、また始まりました
「来週の日曜日なら、空いてますか?」
部活動を終えたあと、由実は楽譜を鞄へ入れながら尋ねた。
香苗はすぐに、
「いいよ」
と答えかけ、口を閉じた。
制服のポケットからスマートフォンを取り出し、予定表を開く。
「来週は模試」
「では、その次の日曜日は?」
「午前中が補習。午後は進路面談」
「その次は?」
「その日は……空いてる」
香苗が画面を由実へ向ける。
そこには、部活動とは関係のない予定がいくつも並んでいた。
模試。
補習。
面談。
由実が一緒に楽器店へ行ってほしいと頼めば、すぐに日程が決まると思っていた。
以前の香苗なら、部活動のあとも音楽室へ残り、休日にも楽器店へ付き合ってくれた。
今も付き合ってくれないわけではない。
ただ、部活動以外にも、香苗が使わなければならない時間が増えている。
「その日で大丈夫ですか?」
「ああ。空けとく」
「無理しなくても」
「行きたいから行くんだよ」
香苗は予定表へ入力しながら答えた。
「テナー本体の選定なんて、そう何度も立ち会えるものじゃないからな」
言い終える頃には、もう少し楽しそうな声になっていた。
「先輩が買うみたいです」
「半分くらいは、私が買う気分だな」
「お金は出さないですよね?」
「出せない」
「では、半分ではありません」
「細かいな」
香苗が笑う。
由実も小さく笑いながら、新しい予定を自分のスマートフォンへ登録した。
自分のテナーを探す日。
その文字を見ただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。
◇
楽器店へ向かう電車の中でも、香苗の確認は続いた。
「見た目で気になるのは?」
「赤みのある楽器は、少し気になります」
「赤いテナーに慣れてるから?」
「たぶん。でも、色だけで選びません」
「重さは?」
「今より少し軽い方がいいです」
「音は?」
由実はすぐに答えられなかった。
「大きい音が出る方がいい、という意味ではなくて」
「うん」
「小さい音でも、どこに音があるか分かる方がいいです」
香苗が頷き、スマートフォンのメモへ入力する。
「低音は?」
「力を入れすぎなくても出てほしいです。でも、簡単に鳴りすぎるのも少し違う気がします」
「難しいこと言うようになったな」
「先輩が聞いたんです」
「そうだけど」
香苗はメモの続きを打ち込む。
「抵抗感は軽め。低音の立ち上がり。弱音で音の場所が分かること。あとは、息を入れたときに勝手に音が決まりすぎないこと」
「勝手に決まる楽器なんてあるんですか?」
「吹けば分かる」
「また、それですか」
「吹かないと分からないからな」
その答えだけは、以前から変わらなかった。
マウスピースを選んだときも、香苗は何度も同じことを言った。
説明を聞くより、まず吹け。
名前や評判より、自分の息で確かめろ。
あの頃の由実は、試奏するたびに何が違うのか分からず、香苗の言葉を頼りにするしかなかった。
今日は、自分の感じたことを自分で言葉にしなければならない。
それが少し怖く、同時に楽しみでもあった。
◇
楽器店の試奏室には、何本ものテナーサックスが並べられていた。
金色。
黒色。
少し赤みのあるもの。
彫刻の細かなもの。
管体の太さも、キーの形も、それぞれ少しずつ違っている。
「予算内だけで絞るより、まず基準を作った方がいいと思います」
店員が説明する。
「購入候補にはならない価格帯のものも、比較として試してみてください。同じモデルでも個体差がありますから、気に入った型が見つかったあとも、できれば複数本を吹き比べた方がいいですね」
「お願いします」
由実が頭を下げる横で、香苗はすでに並べられた楽器を順番に見ていた。
「このSignature、入ったばかりですか?」
「先週ですね」
「Supremeは同じ仕上げだけですか? ヤマハは62と82Zと875EXが全部あります? ヤナギサワはWO1、WO2、WO10、WO20を同じ部屋で比べられますか。カイルヴェルトは――」
「先輩」
「何?」
「まだ店員さんが説明している途中です」
香苗が口を閉じた。
店員が苦笑する。
「お詳しいですね」
「少しだけです」
「少しではないです」
由実が言うと、香苗は不満そうに眉を寄せた。
「知らないまま選ぶよりいいだろ」
「全部一度に言われると、分からなくなります」
「だからメモを取るんだよ」
「先輩の説明を整理するために、別の説明が必要になります」
店員が吹き出しそうになり、咳払いでごまかした。
由実は並んだ楽器を見渡す。
以前なら、値札と光沢だけで圧倒されていた。
今は違う。
どれもテナーサックスだ。
そして今日、自分が実際に吹いて確かめる楽器だった。
「先輩、また始まりました」
由実が笑うと、香苗は少しだけ目を細めた。
「始まったんじゃない。ずっと続いてる」
「もっと困ります」
◇
最初に吹いたのは、いつもの赤いS1 Prestigeだった。
試奏室へ持ち込んだ学校の備品へ、Vandoren V5 T20とBGのリガチャーを取り付ける。
息を入れる。
いつもの抵抗。
少し遅れて立ち上がる低音。
指に馴染んだキーの位置。
調整後も残っている癖を、自分の身体が自然に補っている。
課題曲『青空へ続く道』の冒頭を短く吹き、ロングトーンで音を伸ばす。
「今の感覚を忘れないように」
香苗が言った。
「ほかの楽器を吹くと、途中から基準が分からなくなるからな」
「はい」
赤いテナーをスタンドへ置く。
最初の候補として店員が運んできたのは、黒い管体のカイルヴェルトだった。
大きなベル。
厚みのあるキー。
金色の装飾が、黒い管体の上で強く光っている。
「先輩の楽器みたいです」
「同じメーカーだからな」
香苗の楽器も、黒く大きく、持つだけで人目を引く。
由実は一瞬、胸が高鳴った。
香苗と同じメーカー。
同じ黒い楽器。
これを選べば、香苗の音へ少し近づけるような気がした。
由実はストラップへ掛けた。
持った瞬間、赤いテナーよりも楽器が大きく感じられる。
左手を添え、右手を置く。
小指が少し遠い。
「無理に届かせなくていい。まず普通に吹いてみて」
香苗に言われ、由実は息を入れた。
低く太い音が、試奏室へ広がった。
最初の一音だけで、音の厚さが分かる。
もう一度吹く。
今度は少し小さくしようとした。
音は太いままだった。
由実が細く整えようとすると、管体の大きさに息を持っていかれる。
低音へ下りれば、響きはさらに太くなる。
けれど、音を支えるだけで精いっぱいだった。
数分吹いただけで、右手の位置が気になり始める。
「どう?」
香苗が尋ねた。
「格好いいです」
「それは見れば分かる」
「音も太いです。低音も、赤いテナーよりすぐ出ます」
「うん」
「でも……楽器に振り回されます」
由実はキーから手を離した。
「音を変えようとする前に、楽器についていくので精いっぱいです」
「私が吹くなら好きだけど、由実には少し大きいかもな」
「先輩と同じメーカーでも、同じようには吹けないんですね」
「身体も息も違うからな」
香苗は当然のように答えた。
その言葉に、由実は少しだけ寂しさを感じた。
けれど、もう一度黒い楽器を見る。
香苗が持てば似合う。
香苗が吹けば、きっともっと太く、自在に鳴る。
だからといって、自分も同じものを選ばなければならないわけではなかった。
「格好いいけど、候補からは外します」
由実が言うと、香苗はすぐに頷いた。
「それでいい」
◇
次に並んだのは、セルマーのSignatureとSupremeだった。
価格表を見た由実は、数字を二度確認した。
「先輩」
「何?」
「これ、数字が一つ多くないですか」
「多くない」
「戻します」
「比較のために吹くんだよ」
「買えません」
「買わなくていい。良い楽器がどういうものか知るために吹け」
店員も穏やかに頷いた。
「予算外の楽器を選ぶ必要はありません。ただ、基準を知っておくと、予算内で何を優先するか分かりやすくなります」
そう言われれば、吹かない理由はなかった。
由実はSignatureを構える。
キーへ指を置いた瞬間、動きが軽く感じられた。
強く押さえなくても、指の動きへすぐについてくる。
息を入れると、音の中心がはっきりしていた。
小さくしても、音が消えそうにならない。
弱い音量のまま、一本の線のように前へ伸びていく。
「すごいです」
「何が?」
「小さくしても、音がなくなりません」
「ほかは?」
「指が楽です。音程も……探さなくても、近いところにいます」
続けてSupremeを吹く。
こちらはさらに音の密度が高く、息を入れた分だけ響きがまとまった。
由実が少し乱れた息を入れても、音が大きく崩れない。
「これ、楽器が上手です」
由実が言うと、香苗が笑った。
「分かる」
「私が上手くなったみたいに聞こえます」
「だから気を付けるんだよ。いい楽器でいい音が出ても、自分に合うとは限らない」
「でも、すごくいいです」
「それも分かる」
香苗は楽器の彫刻へ視線を落とし、説明を始めた。
「Signatureは反応とまとまりのバランスが――」
「先輩」
「まだ何も言ってないだろ」
「今から始まるところでした」
香苗は不満そうに黙った。
由実はもう一度価格表を見る。
「やっぱり戻します」
「だから比較だって」
「比較は終わりました」
セルマーは良い。
初心者の由実にも分かるほど、操作しやすく、音の芯が失われにくい。
それでも、今の由実が家族へ出してもらう金額ではなかった。
良いことと、選ぶことは別だった。
◇
ヤマハのYTS-62は、構えた瞬間から手が自然に収まった。
キーの間隔に迷いがない。
音程も大きく外れにくい。
低音へ下りても、赤いテナーほど身構えずに済む。
「どう?」
「一番困らないです」
「褒めてる?」
「褒めています」
由実は音階を吹き、課題曲の一部を試した。
どこにも強い違和感がない。
吹きにくい場所も少ない。
けれど、楽器を置いたあとに、もう一度吹きたいという気持ちはそれほど強く残らなかった。
「いい楽器です。でも……」
「でも?」
「選びたいという感じではないです」
「理由は?」
「分かりません」
「今はそれでもいい」
香苗はメモへ短く書き込んだ。
次のYTS-82Zは、息を入れた瞬間に音が前へ出た。
反応が速い。
少し強く吹けば、音がまっすぐ試奏室の外へ向かっていく。
由実は思わず、いつもより長く旋律を吹いた。
「楽しいです」
「だろうな」
「すぐ音が出ます。大きくするのも楽です」
「小さくしてみて」
香苗に言われ、由実は息を抑えた。
音量は下がった。
けれど、音が前へ進もうとする感覚は残っている。
由実が少し形を変えようとする前に、楽器が先へ走っていく。
「私より先に行きます」
「どういう意味?」
「音を作ろうとする前に、もう音が出ています」
「反応が速いからな」
「吹いていて楽しいです。でも、合奏で周りを聞く前に、自分の音が出そうです」
由実が楽器を戻すと、香苗は何も否定しなかった。
「次、875EX」
YTS-875EXを構えた瞬間、先ほどの二本よりも息の入り口が狭く感じられた。
一音目は、思ったほど鳴らない。
由実は少し息を増やした。
音が急に大きくなるのではなく、管体の奥へ沈んでから、深い響きになって戻ってくる。
もう一度、今度は肩の力を抜いて吹く。
落ち着いた音が、ゆっくり広がった。
赤いS1 Prestigeと同じ音ではない。
操作性も、音程のまとまり方も違う。
それでも、息を丁寧に支えたときにだけ現れる厚みに、どこか似たものがあった。
「これ、好きです」
「音?」
「はい。少し、赤いテナーに似ています」
「響きの方向は近いかもな」
由実は低音へ下りる。
音は豊かだった。
ただし、途中から息を支えるのが苦しくなる。
少し力を抜くと、音の芯まで一緒に薄くなった。
「重いです」
「吹奏感が?」
「はい。ちゃんと吹けばすごくいい音になります。でも、毎回この楽器に負けないように吹かなきゃいけない気がします」
「今の由実には、少し要求が高いかもな」
「先輩なら吹けますか?」
「吹ける。でも、私が吹く楽器じゃないから」
香苗はあっさり答えた。
由実は875EXをスタンドへ戻す。
音は好きだった。
それでも、好きな音が出る楽器と、これから毎日一緒に吹ける楽器は、同じとは限らなかった。
◇
ヤナギサワの楽器は、金色のものと、少し赤みを含んだものが並んでいた。
「こっちが真鍮で、こっちがブロンズブラス」
香苗が説明する。
「WO1とWO10が真鍮。WO2とWO20がブロンズブラス。数字が一桁の方がライトタイプで、二桁がヘヴィタイプ」
「先輩、また始まりました」
「これは必要な説明だろ」
「今のは分かりやすかったです」
「なら言うな」
由実はWO2の前で足を止めた。
赤いS1 Prestigeほど濃い赤ではない。
金色の中に、落ち着いた赤みが混ざっている。
「少し、赤いテナーに似ています」
「同じ赤じゃないけどな。普通の真鍮より銅を多く含む分、赤みがある」
「似てるから選ぶわけじゃないです」
「まだ何も言ってない」
「先に言っておきました」
最初にWO1を吹く。
反応は軽く、音が素直に立ち上がった。
62より少し明るく、息の変化がそのまま音へ出る。
扱いやすい。
けれど、強く吹いたときの音に、由実は少し軽さを感じた。
次にWO10。
WO1より厚みがあり、音の芯も強い。
ただ、息を支える負担も増える。
低音はまとまるが、長く吹くと肩へ力が入りそうだった。
WO20は、さらに豊かで温かい音がした。
赤みのある管体から、厚い響きが広がる。
由実は好きだと思った。
同時に、875EXを吹いたときに近い重さも感じた。
「音は好きです」
「でも重い?」
「はい。楽器が悪いんじゃなくて、今の私には少し大きいです」
最後にWO2を構える。
見た目の赤みに、最初から少し好感を持っている。
だからこそ、由実は一度目の音を慎重に出した。
息を入れる。
音は軽く立ち上がった。
WO1より柔らかい。
WO20より負担が少ない。
小さく吹いても、音の始まる場所が分かる。
低音へ下りても、噛んで無理に出す必要がなかった。
由実は息の速さを変えてみる。
音の輪郭も、それに合わせて少し変化した。
楽器がすべてを決めるのではない。
自分の息へ、素直に反応している。
「どう?」
香苗が尋ねる。
由実はすぐに答えず、もう一度ロングトーンを吹いた。
「弱く吹いても、音がどこにあるか分かります」
「うん」
「低音も出ます。でも、簡単に鳴りすぎる感じではないです」
「ほかは?」
「息を変えると、音も変わります」
由実は楽器を置いた。
「これ、好きかもしれません」
「色が?」
「音です」
「本当に?」
「色も少しです」
香苗が笑った。
「正直でよろしい」
「でも、今日は決めません」
「それでいい」
香苗はWO2の欄へ印を付けた。
その横には、875EX、WO1、WO20の名前も残っている。
「同じ型でも個体差がある。次は、今日残した候補を別の順番で吹く。可能なら同じモデルを何本か比べる」
「まだ吹くんですか?」
「高い買い物だろ」
「先輩、楽しんでませんか?」
「楽しんでる」
即答だった。
由実は呆れながら、もう一度並んだ楽器を見た。
黒くて格好いいから。
香苗と同じメーカーだから。
値段が高いから。
有名だから。
音が良いから。
それだけでは、自分の楽器は決められない。
自分が吹いたときに、どう感じるのか。
どんな音を作りたいのか。
毎日持ち、息を入れ、少しずつ自分の音へ育てていけるのか。
答えは、香苗の知識だけでは決まらなかった。
◇
店を出たあとも、香苗は試奏記録を見直していた。
「カイルヴェルトは外す。セルマーは基準としては残すけど、予算外。62は安定してる。82Zは反応が速すぎる。875EXは音色が好みだけど重い。ヤナギサワは――」
「先輩」
「何?」
「歩きながらだと危ないです」
香苗は顔を上げ、前方の電柱を避けた。
「危なかった」
「試奏で疲れているのに、先輩の面倒まで見たくありません」
「前より言うようになったな」
「先輩が前を見ていないからです」
二人で駅へ向かう途中、香苗が書店の前で足を止めた。
「少し寄っていい?」
「サックスの本ですか?」
「参考書」
香苗は鞄から、折り畳んだメモを取り出した。
そこには問題集や参考書の名前が並んでいる。
店内へ入ると、香苗は楽器店にいたときとは違う静かな顔で棚を見た。
一冊を手に取り、目次を確認する。
別の本と比べ、内容を確かめる。
由実は少し離れた場所から、その姿を見ていた。
楽器の前では、言葉が止まらなくなる。
試奏記録には、細かな感想を何行も書く。
けれど今の香苗は、進路のために必要な本を選んでいる。
部活動とは別の時間。
由実の知らない予定。
それが少しずつ増えている。
「待たせた?」
参考書を二冊抱えた香苗が戻ってくる。
「いいえ」
「次の試奏、来月でも大丈夫?」
「来月?」
「模試と補習の間で、空けられそうなのがそこなんだ」
由実は一瞬だけ黙った。
今日、これほど楽しそうに楽器を選んでくれた香苗にも、すぐ次の休日を使えない理由がある。
「大丈夫です」
「急いで決めても仕方ないからな」
「はい」
由実は答え、香苗が持つ参考書へ目を向けた。
今日、候補は絞れた。
けれど、まだ決めてはいない。
次はもう一度、自分の息で確かめる。
そのときは、香苗にも同じ楽器を吹いてもらうことになっている。
自分が吹いたときとは違う音を、外側から聞くために。
由実は、赤いテナーのケースを持ち直した。
中には、まだ自分の楽器ではない一本が入っている。
それでも今までより少しだけ、次に選ぶ音の輪郭が見えていた。




