第31話 私が吹く楽器
「前と同じ順番で吹かない方がいいですね」
試奏室へ楽器を運びながら、店員が言った。
「最初に吹いた印象が基準になりやすいので、今日は順番を変えましょう。モデル名も、できるだけ気にせず吹いてみてください」
机の上には、番号札を付けられたテナーサックスが並んでいた。
ヤマハ。
ヤナギサワ。
前回の試奏で候補に残った楽器を中心に、比較のための数本も用意されている。
由実は、母と父の隣で小さく息を吐いた。
前回は、違いを知るだけで精いっぱいだった。
今日は、この中から自分の楽器を選ぶ。
そう考えただけで、どの楽器も前より重く見えた。
「緊張してる?」
母が尋ねた。
「少し」
「少しか?」
父が言う。
「かなりです」
正直に答えると、父は少し笑った。
「高い買い物だからな。迷うのは普通だろ」
「迷いすぎて、何も分からなくなりそうです」
「そのために先輩にも来てもらったんだろ」
由実が振り返ると、香苗は店員と並んだ楽器を確認していた。
ベルの内側。
キーの動き。
管体に傷がないか。
試奏前から目つきが真剣だった。
「先輩」
「ん?」
「今日は、説明しすぎないでくださいね」
「まだ何も言ってないだろ」
「今から言いそうなので」
「必要なことは言う」
「全部必要だと思ってますよね」
香苗は一瞬黙り、店員が小さく笑った。
「まずは橋本さんご本人に吹いていただきましょうか」
「そうしてください」
「由実、私が邪魔みたいになってるぞ」
「今日は私の楽器を選ぶ日ですから」
そう言うと、香苗は少し目を見開いた。
それから口元だけで笑う。
「分かってるならいい」
由実は、自分のVandoren V5 T20へリードを付けた。
BGのリガチャーを締め、最初の楽器へ取り付ける。
番号だけを見てネックを差し込むと、モデル名を知っていたときより、少しだけ落ち着いて構えられた。
息を入れる。
ロングトーン。
音階。
低音。
小さな音から、少しずつ音量を上げる。
前回吹いたときの感覚を思い出しながら、記録用の紙へ書き込む。
音の始まりが早い。
低音は出しやすい。
小さな音では、少し輪郭が分かりにくい。
「どうだった?」
香苗が尋ねる。
「吹きやすいです。音程も合わせやすい。でも……」
「でも?」
「困るところが少ないだけで、これがいいとは、まだ思いません」
「分かった」
香苗は自分の意見を言わず、次の楽器を店員から受け取った。
二本目は、息を入れた瞬間に音が前へ飛び出した。
力を入れなくても、明るい響きが試奏室へ広がる。
由実は思わず、課題曲『青空へ続く道』の冒頭を吹いた。
音が真っすぐ進む。
吹いていて楽しい。
けれど、音量を落とそうとすると、今度は楽器に先へ行かれるような感覚があった。
「反応は速いです」
「うん」
「でも、私が音を作る前に、もう音が出てしまいます」
「それが好きな人もいる」
「先輩は?」
「私は嫌いじゃない」
「でも、カイルヴェルトの方が好きですよね」
「今日は私の楽器を選ぶ日じゃないんだろ」
言い返され、由実は口を閉じた。
香苗は少し得意そうに笑っている。
三本目は、息を入れたときにはっきりと抵抗があった。
前回も吹いた、ヤマハのYTS-875EXだと思う。
由実は息を深く吸い、焦らずに音を出した。
最初の音は、すぐには広がらない。
しかし、息を支えて吹き続けると、響きが少しずつ太くなる。
中音域には落ち着きがあり、低音へ下りても音の芯が崩れにくい。
赤いS1 Prestigeとは違う。
それでも、息を入れた分だけ奥から音が返ってくる感覚に、どこか似たものがあった。
由実は長めのフレーズを吹き、楽器を下ろした。
「音は好きです」
「そうだろうな」
香苗が初めて、少しだけ納得した顔をした。
「でも、重いです」
「管体が?」
「吹く方がです。ずっと、この楽器に負けないように吹かないといけない気がします」
「悪い言い方じゃない」
「悪い楽器ではないです」
「うん」
「たぶん、すごくいい楽器です。でも、今の私には、この音を出し続けるのが大変です」
父が由実と楽器を交互に見る。
「吹きやすければいい、というわけでもないのか」
「それだけでもないみたい」
「難しいな」
「私も、まだ分かってません」
由実は次の番号札へ手を伸ばした。
今度は、管体へ少し赤みがある。
前回気になったWO2かもしれない。
しかし、色だけで決めないと自分へ言い聞かせ、モデル名を確認せずに構えた。
息を入れる。
音は素直に立ち上がった。
派手ではない。
けれど、どこから音が始まったのかが分かる。
低音も、無理に口元を締めなくても鳴った。
音量を小さくしても、音が途中で消えない。
強く吹けば明るさが増し、息の速さを落とせば柔らかくなる。
楽器が勝手に音を決めている感じはしなかった。
由実が変えた分だけ、音も少しずつ変わる。
演奏を止めたあとも、すぐには楽器を下ろせなかった。
「どうだった?」
香苗の声が聞こえる。
「前より、気になります」
「何が?」
「弱く吹いても、音の場所が分かります。低音も出しやすいです」
「ほかは?」
「吹きやすいだけじゃなくて……私が息を変えると、音も変わります」
「当たり前だろ」
「そうですけど、さっきの楽器より、自分で変えた感じが分かるんです」
香苗は由実の答えを聞き、楽器へ視線を移した。
それでも、これがいいとは言わなかった。
「まだ残ってるぞ」
「はい」
由実は次の楽器を吹いた。
反応が速く、音が明るい。
キーも押さえやすい。
たぶんWO1だ。
扱いやすく、音も素直だった。
前回なら、これで十分だと思ったかもしれない。
しかし、強く吹いたときの音が、由実には少し軽く感じられた。
続いて吹いた楽器は、温かく厚い響きを持っていた。
中音域の音には密度があり、低音も豊かだった。
ただし、875EXとは違う種類の重さがある。
息を入れればよく鳴る。
けれど、今の由実には、音を動かすまでに少し時間がかかった。
「これは好きです」
吹き終えた由実が言う。
「音が?」
「はい。でも、吹くのは大変です」
「なら、好きと合うは別だな」
「そうですね」
由実は、自分で書いた言葉を記録用紙へ加えた。
音は好き。
今の自分には重い。
前回よりも、自分の感じたことをはっきり書けるようになっていた。
どの楽器にも良いところがある。
しかし、良い楽器がそのまま自分の楽器になるわけではない。
すべて吹き終えたところで、店員が番号とモデル名を対応させた表を見せた。
予想したとおりだったものもあれば、違ったものもある。
最初の楽器はYTS-62。
反応が速かったものはYTS-82Z。
重く深い響きはYTS-875EX。
赤みを持つ管体はYanagisawa WO2。
明るく反応のよかったものはWO1。
厚みのあるものはWO20だった。
「思っていたのと違うものはありましたか?」
店員に尋ねられ、由実は表を見る。
「一つ、WO10だと思っていたのが875EXでした」
「見た目や名前を隠すと、意外と変わるんです」
「値段を知ってからだと、良く聞こえそうです」
「それもありますね」
由実は、WO2の番号へ丸を付けた。
ただし、それだけで決めるには、まだ不安が残っていた。
(吹きやすいから選んでいいのかな)
高い買い物だった。
何年も使う楽器になる。
今の自分に合うだけでなく、上手くなったあとにも使えるのか。
もっと難しい楽器を選んだ方が、将来のためになるのではないか。
由実が記録用紙を見つめていると、香苗が赤いS1 Prestigeのケースへ視線を向けた。
「由実」
「はい」
「マウスピース、使っていい?」
由実は顔を上げた。
「私ので吹くんですか?」
「楽器だけの違いを聞きたいなら、条件を近づけた方が分かりやすい」
「先輩のマウスピースではなく?」
「それだと、私のいつもの音に寄りすぎるからな」
香苗は由実のV5 T20を指した。
「もちろん、嫌ならやめる」
「嫌ではないです」
自分のマウスピースを香苗が使う。
それは少し不思議で、少しだけ緊張することだった。
「お願いします」
香苗は頷いた。
店員が用意した消毒用品でマウスピースを整え、リードの状態を確認する。
最初に選んだのは、新しい候補楽器ではなかった。
赤いS1 Prestige。
「そこからですか?」
「基準だからな」
香苗はネックへV5 T20を取り付け、BGのリガチャーを締めた。
由実が毎日使っている組み合わせ。
それを香苗が構える。
黒いカイルヴェルトではなく、傷の残った赤いテナーを持つ香苗の姿は、少し見慣れなかった。
香苗が息を吸う。
最初の音が鳴った。
由実は、思わず顔を上げた。
音量が大きいわけではない。
強く押し出しているわけでもない。
それなのに、太い。
暗く、深く、音の奥にまだ別の響きが残っているように聞こえた。
中音域には落ち着いた重さがある。
低音へ下りると、床の近くをゆっくり進むような音がした。
香苗がロングトーンを続ける。
音は試奏室の中で膨らみ、壁へぶつかるのではなく、その向こうまで伸びていくようだった。
「これ……赤いテナーですよね」
音が止まったあと、由実は尋ねた。
「そうだけど」
「こんな音がするんですか」
「由実も毎日吹いてるだろ」
「私の音と全然違います」
「吹いてる人間が違うからな」
香苗はもう一度息を入れ、音階を吹いた。
指を動かす途中で、わずかに眉が寄る。
特定の音で息の方向を変え、低音では口元を調整しているのが分かった。
音は美しい。
しかし、香苗でも何も考えずに鳴らしているわけではない。
吹き終えると、香苗はキーを何度か押した。
「操作性は、正直あんまりよくないな」
「言っていいんですか」
「事実だからな」
「学校の楽器ですけど」
「学校の楽器でも、悪いところは悪い」
香苗はもう一度、低音のキーを確かめた。
「今の楽器に比べると、キーの位置に癖がある。反応が遅いところもあるし、音程も奏者が合わせないといけない」
「やっぱり、古いからですか」
「古い設計だからっていうのもある。使われてきた分、調整しても新品みたいにはならないところもある」
由実は赤い管体を見つめた。
初めて吹いたとき、音が出なかった。
低音も出しにくかった。
休符のあとには入りを間違えた。
自分が下手だからだと思っていた。
もちろん、それもあった。
けれど、楽器にも簡単ではない部分があったのだ。
「でも、音は……」
「いいよ」
香苗はベルへ視線を落とした。
「吹き込まれてるからな」
「吹き込まれてる?」
「何人も使ってきたんだろ。ずっと息を入れられて、調整されて、また吹かれてきた」
香苗は、赤い塗装が薄くなった部分を指で触れずに眺めた。
「楽器そのものが急に上手くなるわけじゃない。でも、どこへ息を入れれば鳴るか、どういう音が得意かが、長い時間の中ではっきりしてくる。癖を知ってる人が吹けば、ちゃんと応えてくれる」
「新品より、いいんですか?」
「そういう比べ方じゃない」
香苗は首を振った。
「新しい楽器の方が操作しやすいことは多い。音程も安定してる。でも、古いから音まで悪いわけじゃない。この楽器には、この楽器の音がある」
由実は、赤いS1 Prestigeを見た。
古い。
傷がある。
キーにも癖がある。
初心者へ簡単に音を出させてくれる楽器ではない。
それでも、香苗が吹いた音は、今まで試したどの楽器とも違っていた。
希少な楽器だと聞いたときよりも。
製造番号の意味を知ったときよりも。
今、初めて赤いテナーの価値が、自分の耳へ届いた。
「次、候補も吹くぞ」
香苗はV5 T20を外し、店員から次の楽器を受け取った。
同じマウスピース。
同じリード。
同じ奏者。
楽器だけが変わる。
YTS-875EXでは、深く整った音が鳴った。
赤いS1より輪郭が揃い、音程も安定している。
それでも、息を深く入れたときの厚みに、どこか共通するものがあった。
WO20は、温かく豊かだった。
香苗の息を受けても音が崩れず、太さを保ったまま前へ進む。
WO1は明るく、反応が速い。
音の始まりがはっきりしている。
最後にWO2。
香苗が吹くと、由実が吹いたときよりも芯のある音がした。
それでも、赤いS1のような暗さではない。
軽やかで、柔らかい。
音の始まりが自然で、その後に形を変えられる余地が残っている。
香苗が楽器を下ろした。
「どう聞こえた?」
「全部、先輩の音でした」
「それはそうだろ」
「でも、同じではなかったです」
由実は記録用紙を見ながら答えた。
「875EXは深いです。WO20は太くて温かい。WO1は明るい。WO2は……」
「うん」
「柔らかいけど、薄くないです」
香苗は頷いた。
「なら、もう一回自分で吹け」
「先輩が選んでくれないんですか?」
「選ぶわけないだろ」
「前は、マウスピースをたくさん出してくれました」
「あれも最後に選んだのは由実だ」
「そうでした」
由実はマウスピースを受け取った。
自分のリード。
自分のリガチャー。
自分の口元。
今度は、自分の息で確かめる。
最初に875EX。
音は好きだった。
深く、落ち着いている。
赤いS1と同じではないが、息を支えて音を作る感覚には、確かに近いものがある。
けれど、低音へ下りると肩へ力が入る。
長く吹き続ければ、音を保つことだけで精いっぱいになりそうだった。
WO20は豊かだった。
厚い音を出せる。
しかし、香苗が吹いたときのようには動かせない。
今の由実には、楽器の持つ音へ追いつくまでに時間がかかる。
WO1は軽い。
反応がよく、音も出しやすい。
それでも、強く吹いたときの響きに、少し物足りなさが残った。
最後にWO2を持つ。
赤いS1とは違う、赤みを含んだ管体。
その色へ惹かれていることは否定できない。
けれど、もう色だけで見てはいなかった。
由実は息を吸った。
最初の音を出す。
弱い息でも、音が始まる場所が分かる。
小さな音量を保つ。
消えそうになっても、息を止めなければ音が残る。
少しずつ音量を大きくする。
息の速さを変えると、輪郭が変わった。
力を抜けば柔らかくなる。
支えれば、音の中心に芯が残る。
低音へ下りても、無理に噛まなくてよい。
由実は課題曲『青空へ続く道』の冒頭を吹いた。
県大会で、周囲と自然に音をそろえられた箇所。
続けて『元禄』の、千秋のソロ後へ入る和音を吹く。
音の余韻を押し流さないように。
アルトと低音の間へ、自分の音を置くように。
WO2は、由実の代わりに正しい音を作ってはくれない。
息が足りなければ薄くなる。
支えが崩れれば音程も揺れる。
それでも、由実が作ろうとした音へ、素直についてきた。
(この楽器なら、上手く聞こえるんじゃない)
由実は音を伸ばしながら思った。
(この楽器なら、これから自分で音を作っていける)
吹き終え、楽器を下ろす。
香苗が尋ねた。
「どうだった?」
「弱く吹いても、音が始まる場所が分かります」
「うん」
「でも、音を勝手に決められてる感じがしません」
「ほかは?」
「低音で、無理に噛まなくても鳴ります。息を変えると、音も変わります」
「それで?」
由実はWO2を見た。
「これがいいです」
香苗はすぐには頷かなかった。
「もう一回、WO1」
「まだ吹くんですか?」
「決めたあとに、違ったかもって思わないためだ」
由実はWO1を吹いた。
続いて875EX。
もう一度WO20。
最後に、再びWO2。
順番を変えても、感じたことは変わらなかった。
「やっぱり、これがいいです」
「理由は?」
「一番高いからでも、色が赤いテナーに似てるからでもないです」
由実は言葉を探した。
「今の私でも音を出しやすいです。でも、楽器が全部やってくれるわけじゃない。これから吹き方を変えたら、音も一緒に変わってくれそうです」
香苗が、ようやく少し笑った。
「なら、いいんじゃないか」
「先輩なら、どれを選びますか?」
「私?」
「はい」
香苗は並んだ楽器を見る。
「WO20か、カイルヴェルト」
迷いのない答えだった。
由実は笑った。
「先輩の好み、分かりやすいです」
「悪いか」
「悪くないです。でも、私はWO2がいいです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に残っていた迷いが少し薄くなった。
香苗と同じメーカーではない。
香苗が一番好きな楽器でもない。
赤いS1と同じ音がする楽器でもない。
それでも、自分が選んだ。
由実は赤いS1 Prestigeへ視線を向けた。
新しい楽器の方が操作しやすい。
音程も取りやすい。
今の自分にはWO2の方が合っている。
だからといって、赤いテナーより良い楽器を選んだとは思わなかった。
赤いテナーには、何人もの奏者が積み重ねた音がある。
癖を知り、息を入れ続けなければ出せない深さがある。
WO2には、まだ誰の音も十分には染みついていない。
これから自分が息を入れ、調整を重ね、音を作っていく。
二つは、違う。
違うからこそ、どちらかを否定する必要はなかった。
「由実」
父に呼ばれ、振り返る。
「本当に、これでいいのか?」
父はWO2の価格表と、由実の顔を交互に見た。
母も隣で、静かに答えを待っている。
由実は頷いた。
「これがいい」
「ほかの方が高いとか、有名だとかは関係ないんだな」
「うん」
「理由を、もう一度聞いてもいい?」
由実はWO2へ手を添えた。
「弱い息でも、音の始まりが分かるの。でも、吹けば勝手にきれいな音になるわけじゃない」
父は黙って聞いている。
「私が息を変えると、音も変わる。今の私でも吹けるけど、これから上手くなったら、その分だけ違う音も作れそうだから」
「長く使えそうか?」
「使いたい」
由実は一度息を吸った。
「私は、この楽器でテナーを続けたい」
母が小さく頷いた。
「分かった」
父も、価格表を机へ置いた。
「じゃあ、これにしよう」
購入の手続きが始まった。
店員が保証や調整について説明する。
選んだ個体は、受け取り前に最終調整を行う。
キーの高さやタンポの状態を確認し、由実が使いやすい状態へ整えるため、持ち帰りは後日になる。
すぐに持って帰れると思っていたわけではない。
それでも、目の前の楽器が一度店の奥へ戻されると、少し寂しく感じた。
「手続きが終われば、正式に橋本さんの楽器としてお預かりします」
店員が言った。
自分の楽器。
その言葉に、由実は背筋を伸ばした。
父が支払いの確認をしている間に、由実は鞄から封筒を取り出した。
お年玉と小遣いから貯めた、自分の貯金の一部。
楽器の価格全体から見れば、小さな金額だった。
これだけで買えるわけではない。
両親が出してくれる金額の方が、ずっと大きい。
それでも、由実は封筒を父へ差し出した。
「これ、使ってください」
父は受け取る前に、由実を見た。
「全部じゃなくていいんだぞ」
「全部は入れてないです」
「ちゃんと残したか?」
「はい」
母が封筒の厚みを見てから、由実へ尋ねる。
「本当にいいの?」
「私の楽器だから」
父は少しだけ考え、封筒を受け取った。
「分かった。これは由実の分として使おう」
「お願いします」
「その代わり、手入れは自分でやれよ」
「やります」
「記録も」
「続けます」
父の返事はいつもと同じ落ち着いたものだった。
けれど、封筒を受け取る手は、少しだけ丁寧だった。
手続きを終え、店を出る前。
由実は一度、試奏室を振り返った。
赤いS1 Prestigeはケースへ戻っている。
WO2は調整のため、店員が奥へ運んでいった。
まだ自分の手元にはない。
それでも、選んだという感覚は確かに残っていた。
「由実」
隣に立った香苗が言う。
「本当にテナーでいいんだな」
由実は香苗を見る。
入部した日のことを思い出した。
楽器体験で、どの楽器を選べばよいか分からなかった。
香苗に声をかけられた。
テナーが必要だと言われた。
最初は、必要とされたから担当した。
赤い色が恥ずかしかった。
音も出なかった。
重くて、扱いにくくて、自分に向いているのかも分からなかった。
それでも、今は違う。
「はい」
由実は答えた。
「私は、テナーを吹きたいです」
香苗に頼まれたからではない。
パートに必要だからでもない。
金賞を取ったからでもない。
自分が選んだ楽器で。
自分の息を入れて。
これからも音を作っていきたい。
由実の言葉を聞き、香苗は何も言わずに頷いた。
その表情は、初めて由実へテナーを勧めた日よりも、少しだけ遠く、少しだけうれしそうに見えた。




