第32話 私のテナー
「こちらで最終調整は終わっています」
店員がケースを由実の前へ置いた。
黒いケースだった。
赤いS1 Prestigeの古いケースとは違い、表面には傷も擦れもない。
持ち手にも、まだ誰かの手になじんだ跡はなかった。
「キーの開きと、タンポの当たりを確認しています。試奏時より少し変化を感じるかもしれませんので、まずはこちらで吹いてみてください」
「はい」
由実は返事をしたが、すぐには留め具へ触れなかった。
隣では、父と母が静かに待っている。
「開けないの?」
母に尋ねられる。
「開けます」
「さっきから見てるだけだぞ」
父にも言われ、由実はようやく手を伸ばした。
留め具を一つずつ外す。
小さな音が、いつもより大きく聞こえた。
ケースの蓋を持ち上げる。
中には、調整を終えたYanagisawa WO2が収められていた。
試奏したときと同じ楽器。
それでも、前に見たときとは違って見えた。
もう、店に並ぶ候補の一本ではない。
由実が選び、両親が購入を支えてくれた、自分の楽器だった。
赤いS1 Prestigeとは違う、落ち着いた赤みのある管体。
どちらも表面をクリアラッカーで仕上げているため、色を塗って赤くしているわけではない。
S1 Prestigeの濃い赤も。
WO2の、金色の中へ銅を混ぜたような色も。
それぞれの地金が持つ色だった。
「やっぱり、赤いな」
父が言った。
「学校のよりは、少し明るいです」
「同じ色ではないの?」
母がケースをのぞき込む。
「素材が違うから」
由実は、店員から聞いた説明を思い出しながら答えた。
「どっちも透明なラッカーだから、見えてるのは元の金属の色なんだって。赤いテナーはもっと赤くて、こっちは銅が多いから普通の真鍮より赤みがあるみたい」
「塗ってる色じゃないのね」
「うん」
由実は、まだ使用跡のないキーへ目を向けた。
どこにも塗装の剥がれはない。
親指を置く場所にも、指が触れる場所にも、曇り一つなかった。
赤いテナーには、何人もの手が触れた跡がある。
WO2には、まだ誰の跡もない。
それが少しうれしく、少し怖かった。
「触って大丈夫ですよ」
店員が笑う。
「由実のだからな」
父にも言われる。
「分かってます」
由実は両手を伸ばし、WO2を持ち上げた。
試奏のときにも触れたはずなのに、重さまで違って感じた。
落とせない。
傷を付けたくない。
壊してはいけない。
そう思った途端、肩へ力が入る。
「普通に持って大丈夫です」
店員が言った。
「もちろん丁寧に扱う必要はありますが、怖がって触らない方が楽器にはよくありません。吹いて、手入れをして、調整へ出しながら使ってください」
「はい」
「新品なので、最初から無理に長時間吹き続けなくても構いません。橋本さんご自身も、新しいキー配置や吹奏感へ慣れる必要がありますから」
由実は頷いた。
その場でVandoren V5 T20へリードを付け、BGのリガチャーを締める。
ネックへ取り付け、WO2を構えた。
最初の音を出す。
試奏したときと同じように、弱い息でも音の始まりが分かった。
しかし、以前とまったく同じではない。
調整された分、キーの閉じる感触がそろっている。
低音へ下りても、息が途中で逃げにくい。
由実はゆっくり音階を吹いた。
途中、一つの音で音程が高くなった。
赤いS1 Prestigeでは無意識に口元を緩めていた音だった。
同じように吹いたことで、今度は補正しすぎたらしい。
由実は一度止まり、もう一度吹く。
「すぐには同じように吹けないものなんですね」
「楽器が変われば、同じ指や息でも結果は変わります」
店員が答える。
「今まで使っていた楽器で覚えたことが無駄になるわけではありません。ただ、新しい楽器に合わせて調整し直す部分は出てきます」
上手く吹けなかったのに、由実は少し安心した。
この楽器を買ったからといって、急に音が完成するわけではない。
これから一緒に覚えていくことがある。
「定期調整は、使用状況にもよりますが、最初は半年ほどを目安に考えてください。違和感があれば、それより前でも構いません」
「分かりました」
「日常の水分取りと、ネックやマウスピースの手入れは今までどおりで大丈夫です。無理に磨きすぎる必要はありません」
保証書。
調整記録。
取り扱いの説明。
由実は、一つずつ受け取った。
父と母も説明を聞いていたが、専門的な部分では、由実の方を見た。
自分の楽器なのだと、何度も確かめられている気がした。
店を出るとき、ケースの持ち手を握る。
赤いS1 Prestigeのケースより新しく、まだ硬い。
手の中へなじんでこない。
それでも、離したくなかった。
◇
家へ着くと、由実は居間でもう一度ケースを開けた。
「さっきも見ただろ」
父が言う。
「家では初めてです」
「同じ楽器だぞ」
「分かってます」
母が笑いながら、テーブルの上を片づける。
「置くなら、傷が付かないようにしてね」
「はい」
由実はケースの中を確かめた。
ネック。
保証書。
手入れ用品。
それぞれの位置を覚える。
学校の楽器とは違い、返却する場所は決められていない。
どこへ何を入れるかも、自分で管理しなければならない。
「高かったな」
父が、ケースの横へ座りながら言った。
「うん」
「改めて見ると、少し怖いな」
「私も怖いです」
「買うって決めたときは、もっと堂々としてたぞ」
「あのときは選ぶことで精いっぱいだったから」
由実はWO2の管体を布で軽く拭いた。
店から持ち帰っただけなので、ほとんど汚れていない。
それでも、自分の指が触れた場所に薄い跡が残っている。
最初の使用跡だった。
「お父さん、お母さん」
「何?」
母が振り返る。
「ありがとう」
二人が同時に由実を見る。
「高いのに、買うのを手伝ってくれて」
父は少しだけ困ったような顔をした。
「買う前に何度も話しただろ」
「でも、言っておきたかったから」
「なら、ちゃんと使え」
「うん」
「壊すなとは言わない。使ってたら調整も必要になるし、傷も付くかもしれない」
父は、ケースの中をのぞいた。
「ただ、欲しいと言ったときの気持ちは忘れるなよ」
「忘れません」
母が、由実の記録帳へ視線を向けた。
「手入れと記録も続けるんでしょ」
「続ける」
「だったら、最初の日のことも書いておいたら?」
由実は頷いた。
記録帳を開き、今日の日付を書く。
Yanagisawa WO2受け取り。
最初の音。
調整後は低音が安定。
S1 Prestigeと同じ吹き方では、音程がずれる箇所がある。
まだ怖くて、強く吹けない。
そこまで書いたあと、少し迷う。
最後に、
私のテナー。
と加えた。
◇
翌朝。
由実はいつもより早く家を出た。
新しいケースは、赤いS1 Prestigeのケースより持ちやすいはずだった。
それでも、いつも以上に重く感じる。
金額を知っているからかもしれない。
自分のものだと意識しているからかもしれない。
電車では、座席の前へケースを立て、倒れないように両手で支えた。
誰かが近くを通るたび、ぶつからないか気になる。
学校へ着くまでに、持ち手を何度も握り直した。
音楽室へ入ると、真琴が最初に気付いた。
「ケースが違う」
「買ったの?」
莉央も振り返る。
「はい」
由実はケースを床へ置いた。
「昨日、受け取りました」
「見せて」
真琴がすぐに近づいてくる。
ほかのサックスパートの部員たちも集まった。
以前なら、何人もの視線を向けられるだけで、ケースを開ける手が止まったと思う。
今も緊張はする。
それでも、これは自分で選んだ楽器だった。
由実は留め具を外し、蓋を開けた。
「赤い」
莉央が言う。
「学校のテナーよりは金色に近いけど」
「ブロンズブラスなんです」
由実は説明した。
「普通の真鍮より銅が多いので、少し赤く見えるみたいです。表面は透明なラッカーだから、これは元の素材の色です」
「選んだ理由も色?」
真琴に聞かれる。
「色も好きです。でも、それだけではないです」
由実はWO2を見た。
「弱い音でも始まりが分かって、私が息を変えたら音も変わったから」
「自分で決めたんだ」
「うん」
そう答えると、真琴は楽器を見ながら頷いた。
「いいね」
短い言葉だった。
それでも、由実はうれしかった。
「吹くの?」
「今から少しだけ」
「聞いていい?」
「まだ慣れてないから、変な音になるかも」
「新しい楽器なんだから、普通でしょ」
莉央が椅子を引いた。
由実はWO2を組み立てた。
V5 T20。
BGのリガチャー。
赤いテナーで使っていたものを、新しい楽器へ取り付ける。
同じマウスピース。
同じリード。
けれど、手の中にある感覚は違った。
最初にロングトーンを吹く。
音は素直に立ち上がった。
次の音へ移る。
指の感覚が少し違う。
赤いS1 Prestigeでは遠く感じていたキーが、WO2では近い。
無意識に大きく指を動かしたため、逆に遅れた。
由実は途中で止める。
「今、変だった」
「少しだけ」
真琴が答えた。
「指?」
「うん。赤いテナーと位置が違う」
「もう一回やれば?」
由実は同じ音階を吹いた。
今度は指を小さく動かす。
先ほどより滑らかにつながった。
「直った」
莉央が言う。
「まだ一回だけです」
「でも、自分で分かったんでしょ」
由実は頷いた。
次に低音を吹く。
以前より簡単に音が出る。
しかし、音が出しやすい分、息を多く入れすぎた。
響きが膨らみ、音程も少し下がる。
由実は記録帳へ短く書き込んだ。
低音、息を入れすぎない。
「新しいのに、もう反省書いてる」
真琴がのぞき込む。
「忘れるから」
「由実らしいね」
そのとき、音楽室の扉が開いた。
「遅れた」
香苗が入ってくる。
片方の肩には楽器のケース。
もう片方には、教科書や参考書の入った鞄を掛けている。
「先輩」
由実が振り返る。
香苗は部員たちの集まる場所を見て、すぐに新しいケースへ気付いた。
「来たのか」
「はい。昨日、受け取りました」
香苗は鞄を椅子へ置くと、WO2の前へ来た。
ベル。
キー。
ネック。
調整された箇所を確認するように視線を動かす。
「吹いた?」
「少し」
「どうだった?」
「赤いテナーと同じ吹き方だと、合わないところがあります」
「そりゃそうだ」
「でも、低音は出しやすいです」
「なら吹いてみて」
「先輩も見ないんですか?」
「あとで見る」
以前の香苗なら、先にキーの動きや調整状態を確かめたかもしれない。
今日は、楽器より由実へ視線を向けている。
「まず由実の音を聞く」
「はい」
由実はWO2を構えた。
ロングトーン。
音階。
低音。
それから、合奏で使う数小節を吹いた。
音の始まりはそろっている。
しかし、途中の音程が少し高い。
赤いS1で低くなりやすかった音を、無意識に持ち上げてしまっている。
由実は吹き終え、香苗を見る。
「今、高かったですよね」
「高かった」
「赤いテナーでは下がりやすかったから、上げる癖が付いてるんだと思います」
「たぶんな」
「直した方がいいですよね」
「由実は、どうしたい?」
由実は一瞬、答えられなかった。
いつもなら香苗が、息を下へとか、口元を緩めろとか、具体的な直し方を言ってくれた。
「どうしたい、ですか?」
「その音を、どう直したい?」
香苗は椅子へ座った。
「私が答えを言ったら、そのとおりやるだけだろ」
「今までもそうでした」
「今は、自分で高いって分かった」
由実は、もう一度同じ音を思い浮かべた。
口元を緩めるだけでは、音の芯まで薄くなりそうだった。
息を少し下へ向ける。
支えは残す。
「息の方向を変えてみます」
「やってみて」
由実は楽器を構えた。
同じ音を吹く。
今度は音程が近づいた。
しかし、少し音が弱い。
もう一度。
息の支えを戻し、方向だけを変える。
三度目の音は、先ほどより自然に響いた。
「今のは?」
香苗が尋ねる。
「近いです」
「私もそう思う」
「合ってますか?」
「合ってるかどうかは、チューナーでも確認しろ。でも、自分で直した音を覚えた方がいい」
由実は頷いた。
すぐに答えをもらえなかったことへ、不安はあった。
それでも、自分で探した音が近づいたとき、少しだけうれしかった。
香苗はWO2の細部を確かめながらも、もう修正点を並べなかった。
「新品だから、しばらくは音も変わる」
「楽器の音が?」
「由実の吹き方も変わるし、調整も落ち着いてくる。すぐ完成させようとするな」
「はい」
「でも記録は続けろよ」
「もう書いてます」
記録帳を見せると、香苗は笑った。
「早いな」
その笑い方は、いつもと同じだった。
ただ、香苗の鞄からのぞく参考書だけが、少し気になった。
◇
練習後。
由実は楽器庫の前で、赤いS1 Prestigeのケースを開いた。
個人楽器を使うことになったため、赤いテナーは一度学校へ返す。
すぐに次の使用者が決まるわけではない。
けれど、必要なときに使える状態へ戻しておかなければならなかった。
由実は管体を布で拭いた。
赤い塗装だと思っていた色。
実際には、透明なラッカーの下にある地金そのものの色。
長い時間の中で、その赤みは所々薄れ、手が触れてきた場所には傷や曇りが残っている。
香苗が吹いた音を思い出す。
太く。
暗く。
深い。
由実が毎日吹いていた楽器から、あんな音が出た。
操作しやすい楽器ではない。
音程にも癖がある。
低音も、息を入れれば簡単に鳴るわけではない。
それでも、癖を知り、息を合わせれば、ほかの楽器にはない音を返してくれる。
「吹き込まれてるからな」
香苗の言葉が耳へ残っている。
由実はケースの内側から、整備記録を取り出した。
最初に読んだときよりも、紙は少し柔らかくなっている。
何度も開いたからかもしれない。
過去の使用者の名前。
使用した期間。
調整や修理の日付。
マウスピースやリードについての短い記録。
由実は、一ページずつ読み返した。
『個人楽器購入のため返却』
ある名前の横に、その言葉があった。
別のページには、
『新入部員へ引き継ぎ』
と残されている。
ほかにも、個人楽器を購入したあと、赤いテナーを学校へ戻した記録がいくつかあった。
由実だけではなかった。
赤いテナーから始めた人がいた。
この楽器で音の出し方を覚えた。
合奏へ入り。
大会へ出て。
いつか自分の楽器を選んだ。
そのあと、赤いテナーは次の奏者へ渡った。
誰にも選ばれなかったから、学校へ残っていたのではない。
まだ自分の楽器を持たない人を、最初の音へ連れていくために残されてきた。
由実は自分の記録帳と、整備記録を並べた。
鉛筆を持つ。
自分の名前。
使用開始の日付。
使用終了の欄には、今日の日付を書いた。
完全に二度と吹かないわけではない。
それでも、個人楽器へ移った区切りとして残す。
調整へ出した時期。
低音キーの調整。
タンポの確認。
使用したマウスピース。
Vandoren V5 T20。
リガチャー。
BG。
地区大会金賞。
県大会金賞。
そこまで書いて、由実は鉛筆を止めた。
賞だけが、この楽器で得たものではなかった。
むしろ、賞のためだけなら、書き残したいことの半分にも足りない。
由実は続けて書いた。
最初は低音が出にくかった。
休符のあとで入りを間違えた。
音の始まりを、周囲と合わせられるようになった。
音の終わりまで息を保てるようになった。
香苗先輩が吹いたとき、自分の知らない深い音が出た。
操作には癖がある。
音程も、自分で合わせる必要がある。
でも、息を止めずに吹けば応えてくれる。
最後に、次に使う人へという欄を見る。
由実は少し迷った。
上手く吹く方法を書けるほど、自分は上手くない。
赤いテナーの癖を、すべて理解したわけでもない。
それでも、最初の頃の自分が読んだなら、少しだけ安心できる言葉があった。
由実は、短く書いた。
『最初は音が出なくても、息を止めないでください』
鉛筆を置く。
文字は、過去の使用者たちの記録の下へ続いていた。
自分も、この楽器を使った一人になった。
由実は赤いS1 Prestigeをケースから持ち上げた。
隣には、WO2の新しいケースがある。
二本を並べる。
赤いテナーは、深い赤を持つ古い楽器。
表面のクリアラッカーは所々傷み、地金にも長い使用の跡が残っている。
何人もの指と息が重なっている。
操作には癖がある。
簡単には鳴らない。
けれど、吹き込まれた深い音を持っている。
WO2は、銅を多く含む素材の色が、透明なラッカー越しに見えている。
赤いS1より明るく、まだ傷もない。
キーの動きは素直で、由実の弱い息にも応えてくれる。
それでも、まだ由実の音にはなっていない。
これから何度も吹く。
失敗する。
調整へ出す。
手入れをする。
少しずつ傷も増えるかもしれない。
そうして、いつか自分の楽器になっていく。
どちらかだけが、本物なのではなかった。
赤いテナーがあったから、WO2を選べた。
古い楽器を嫌って、新しい楽器へ移るのではない。
受け取ったものを残し、自分の音を作るために先へ進む。
由実は赤いS1 Prestigeをケースへ戻した。
ネック。
整備記録。
手入れ用品。
次に必要とする人が、すぐに使えるように位置を整える。
ケースの蓋を閉じる前、赤い管体へ目を向けた。
「ありがとうございました」
声に出すと、少し恥ずかしかった。
それでも、誰もいない楽器庫では、その言葉を取り消す必要はなかった。
蓋を閉じる。
留め具を掛ける。
由実は、WO2のケースを持ち上げた。
今度は、朝より少しだけ持ち手が手になじんだ気がした。
◇
校舎を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
由実は校門へ向かいながら、前を歩く香苗の背中を見ていた。
今日は練習へ遅れて来た。
この前は、補習で欠席した。
楽器店へ行く日を決めたときも、模試や面談の予定がいくつも入っていた。
由実は、新しいケースを持ち直した。
「先輩」
「ん?」
香苗が振り返る。
「最近、遅れて来ることが増えましたよね」
「そうだな」
「補習も多いですか?」
「補習だけじゃない。模試とか、進路の面談とか」
香苗は肩に掛けた鞄を持ち直した。
楽譜のほかに、厚い参考書が入っている。
「大変ですか?」
「まあ、それなりに」
「部活と両立できますか?」
由実は、何気なく尋ねたつもりだった。
忙しくても、香苗なら何とかする。
少し練習時間が減るだけで、また元に戻る。
どこかでそう思っていた。
香苗はすぐには答えなかった。
歩く速度が少し落ちる。
由実も隣へ並んだ。
「先輩?」
「そのことなんだけど」
香苗は前を向いたまま言った。
「年内で、吹奏楽部を辞めようと思ってる」
由実は、歩くのを止めた。
香苗も数歩先で止まり、振り返る。
「辞める……?」
「うん」
「退部するってことですか?」
「そう」
言葉の意味は分かる。
けれど、由実の中へ入ってこなかった。
香苗が部活を辞める。
今度の大会ではない。
卒業でもない。
年内。
「どうしてですか?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「進路のことで、今より時間が必要になる」
「でも、まだ引退まで……」
「引退まで続けると、間に合わなくなるかもしれない」
香苗の答えは落ち着いていた。
前から考えていたのだと思う。
由実が知らなかっただけで。
「いつ決めたんですか」
「まだ先生には正式に話してない。でも、家では話してる」
「私には……」
そこまで言い、由実は口を閉じた。
どうして言ってくれなかったのか。
そう尋ねかけた。
けれど、新しい楽器を選んでいた間にも、香苗には香苗の進路があった。
由実がWO2を吹き比べていたときも。
赤いテナーの音を聞いて驚いていたときも。
香苗は年内で部活を辞めることを考えていた。
「いつまでですか」
「まだ具体的な日は決めてない。先生と相談してからになる」
「年内って、もうそんなに……」
由実は言葉を続けられなかった。
新しい楽器を一緒に選んだ。
これから、このWO2で香苗と練習するのだと思っていた。
赤いテナーで教わったことを、新しい楽器でも直してもらう。
もっと音を聞いてもらう。
香苗のカイルヴェルトと並んで吹く。
まだ、いくらでも時間があると思っていた。
由実の右手には、WO2のケースがある。
自分で選んだ楽器。
高校を卒業したあとも続けるための楽器。
由実の音楽は、これからも続いていく。
そのはずだった。
けれど、その音楽の始まりにいた香苗は、同じ場所から先にいなくなる。
「由実」
香苗が名前を呼ぶ。
返事をしなければならない。
理由を聞くべきなのかもしれない。
退部しないでほしいと言うべきなのかもしれない。
応援すると言うべきなのかもしれない。
どの言葉も、まだ由実のものにならなかった。
由実は、WO2のケースの持ち手を握り直した。
朝よりも少しなじんだはずの持ち手が、急に知らないもののように硬く感じられた。




