第33話 先輩がいなくなる
次の日になっても、由実は香苗の言葉をうまく理解できていなかった。
『年内で、吹奏楽部を辞めるつもりなんだ』
聞き間違いではない。
帰宅してからも、何度も同じ言葉を思い出した。
それでも、まだ決まったわけではないのかもしれないと思っていた。
香苗が自分に相談しただけで、顧問や部長とは話していないのかもしれない。
もっと考えれば、やはり続けるという結論になるかもしれない。
そんな期待を、由実は捨てきれなかった。
新しいケースを手に、音楽室へ入る。
「おはようございます」
「おはよう、由実」
真琴がいつもと変わらない声で返した。
莉央も譜面台を運びながら、由実のケースへ視線を向ける。
「まだ見慣れないね、そのケース」
「私もです」
「もう傷つけた?」
「つけてません」
「今日つくかも」
「やめてください」
普段なら、それだけで少し笑えた。
けれど今日の由実は、音楽室の中を探すように見回していた。
香苗はまだ来ていない。
机の上にWO2のケースを置く。
留め具へ指をかけたところで、廊下から足音が近づいた。
「おはよう」
香苗だった。
肩にはいつもの黒いアルトサックスのケース。
反対の手には、参考書の入った鞄を持っている。
「おはようございます」
由実は、香苗の顔を見た。
昨日と変わらない。
いつもと同じように髪をまとめ、いつもと同じ歩き方で音楽室へ入ってくる。
それだけで、少し安心しかけた。
「佐伯、少しいいか」
顧問の高瀬美緒が、入口から香苗を呼んだ。
「はい」
香苗はケースを置かず、そのまま高瀬のもとへ向かった。
廊下の向こうには部長も立っていた。
三人は小さな声で何かを確認し、そのまま職員室の方角へ歩いていく。
由実の指が、ケースの留め具の上で止まった。
「由実?」
真琴に呼ばれて、ようやく手を動かす。
「何でもないです」
ケースを開ける。
赤みを帯びた管体が、音楽室の光を静かに返した。
昨日までなら、見るだけで胸が弾んだはずだった。
今日は、自分の楽器がひどく重く見えた。
◇
基礎合奏が始まる前。
高瀬が部員たちへ声をかけた。
「少し話があります。楽器を置いて、こちらを見てください」
音楽室に散らばっていた音が止まる。
由実はWO2をスタンドへ置き、椅子へ座り直した。
高瀬の隣には、部長と香苗が立っている。
それを見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「佐伯さんから、皆さんへ伝えることがあります」
高瀬が一歩下がる。
香苗は部員たちを見渡した。
いつも合奏中に注意を出すときより、少しだけ硬い表情をしていた。
「急な話で悪い」
音楽室の空気が静まる。
「私は、年内で吹奏楽部を退部します」
誰かが、小さく息を呑んだ。
由実は膝の上で両手を握った。
昨日と同じ言葉だった。
けれど、今度は自分一人へ向けられたものではない。
音楽室にいる全員へ届いた。
「進学のための勉強に、今まで以上に時間を使いたいと思ってる。家族や先生に辞めろと言われたわけじゃない。自分で考えて決めた」
「退部って、もう決定なんですか?」
部員の一人が尋ねた。
「ああ」
「休部じゃなくて?」
「休部だと、戻る前提で考えることになるから。今は勉強へ集中したい」
香苗は迷わず答えた。
由実の中に残っていた、小さな期待が消えていく。
まだ相談しているだけかもしれない。
考え直すかもしれない。
そう思っていたのは、自分だけだった。
「佐伯先輩、ずっと考えてたんですか?」
真琴が尋ねる。
「県大会が終わる前から、少しずつな。決めたのは最近だけど」
「そうですか」
真琴は視線を落とした。
寂しそうだった。
それでも、顔を上げるとまっすぐ香苗を見る。
「寂しいです。でも、先輩が決めたことなら応援します」
「ありがとう」
そのやり取りが、由実には遠く聞こえた。
「私も寂しいです」
莉央が続けた。
「でも、香苗先輩なら、退部してもたまに顔を出してくれますよね?」
「勉強に余裕があればな」
「そこは絶対とは言ってくれないんですね」
「できない約束はしない」
「先輩らしいです」
莉央は困ったように笑った。
ほかの部員たちからも、残念だという声や、頑張ってほしいという言葉が続く。
どうして。
由実は俯いた。
どうして、みんなはそんなふうに話せるのだろう。
香苗が辞めると言っている。
来年のコンクールにはいない。
放課後、音楽室へ来ても、香苗の黒いケースは置かれていない。
それなのに、周囲の人たちはもう、その未来を受け入れ始めている。
高瀬が前へ出た。
「私から退部を勧めたわけではありません。続けながら勉強する方法も含めて、佐伯さんとは話しました」
高瀬は一度、香苗を見る。
「そのうえで、本人が将来を考えて決めたことです。教師として、無理に引き止めるつもりはありません」
部長も頷いた。
「退部までの練習と、今後の引き継ぎについては、これから相談します。佐伯さんが担当していた仕事も多いので、誰か一人へ全部任せることはしません」
引き継ぎ。
その言葉が、由実の胸へ刺さった。
香苗はまだ隣に立っている。
まだ退部していない。
なのに、もういなくなったあとの話が始まっている。
「サックスパートは、まず練習計画と備品管理を整理してください」
「分かりました」
真琴が答えた。
「定期演奏会については?」
部長が高瀬へ尋ねる。
「佐伯さんと話してから決めます。退部の時期も含めて、無理のない形を考えましょう」
定期演奏会。
由実は顔を上げた。
けれど香苗は何も言わなかった。
演奏会へ出るのか。
その前に辞めるのか。
聞きたかった。
しかし、声が出なかった。
「それでは、練習を始めましょう」
高瀬の言葉で、部員たちが立ち上がる。
椅子が動き、譜面台の高さを直す音が重なった。
いつもと同じように、部活動が始まっていく。
由実だけが、しばらく動けなかった。
◇
WO2へ息を入れる。
音が揺れた。
もう一度吹く。
今度は、入りが遅れた。
「由実、息を急がせるな」
隣から香苗の声が飛んでくる。
「はい」
返事はした。
けれど、次の音も上手くそろわなかった。
せっかく自分で選んだ楽器なのに。
弱い息でも音の始まりが分かると思った。
自分で音を作っていけると思った。
今は、どこから音を始めればよいのかさえ分からない。
「一回止めよう」
香苗が譜面を下ろした。
「口が固くなってる」
「すみません」
「謝らなくていい。少し休め」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないから言ってる」
いつもの香苗の声だった。
由実は返事をせず、楽器を膝へ置いた。
香苗が隣にいる。
音を聞いてくれる。
間違えば止めてくれる。
今はまだ、何も変わっていないように見える。
けれど、この時間には終わりがある。
そのことばかりが、頭から離れなかった。
「由実」
「はい」
「昨日のこと、あとで話すか?」
由実は香苗の顔を見られなかった。
「今日は、いいです」
「そうか」
香苗はそれ以上尋ねなかった。
そのことにも、由実は少し傷ついた。
引き止めてほしかったのかもしれない。
今すぐ話せと言ってほしかったのかもしれない。
自分でも、どうしてほしいのか分からなかった。
◇
練習が終わると、香苗は高瀬と部長に呼ばれた。
引き継ぎについて話すらしい。
由実はWO2の水分を拭き取り、ケースへ収めた。
留め具を閉めても、立ち上がる気になれない。
「由実」
向かいから真琴が声をかけた。
莉央は先に譜面を片付けている。
「少し話せる?」
「はい」
二人は誰もいなくなりかけた音楽室の隅へ移った。
真琴はしばらく言葉を探していた。
「香苗先輩のことなんだけど」
由実はケースの持ち手を握った。
「うん」
「私も寂しいよ」
由実は黙ったまま真琴を見る。
「来年もいると思ってたし、もっと教えてもらえると思ってた。アルトのことも、パートのことも」
「でも、応援するって言ったよね」
「うん」
「莉央先輩も。みんなも」
「うん」
真琴は由実の言葉を否定しなかった。
それが余計につらかった。
「みんな、平気なんだね」
口から出たあとで、ひどい言い方だと思った。
真琴の表情がわずかに曇る。
「平気じゃないよ」
「でも、もう引き継ぎの話をしてる」
「必要だからだよ」
「先輩はまだいるのに」
「いるうちに聞かないと、分からなくなることもあるから」
由実にも分かっていた。
正しいのは真琴だ。
引き継ぎをせず、香苗が辞めてから困る方が無責任だ。
それでも、気持ちが追いつかなかった。
「私は、そんなにすぐ無理」
「私だって、すぐ平気になったわけじゃない」
真琴は少し強い声で言った。
由実が顔を上げると、真琴の目も赤くなっていた。
「寂しいよ。辞めないでほしいとも思ってる」
「じゃあ、どうして言わないの?」
「香苗先輩が考えて決めたことだから」
真琴は一度、息を吸った。
「寂しいことと、香苗先輩の決めたことを大事にするのは、別じゃないと思う」
二つとも持っていていいのだと、真琴は言った。
寂しい。
辞めてほしくない。
それでも、香苗の選択を尊重する。
由実には、まだできなかった。
どちらかしか選べないように思えた。
香苗に残ってもらうか。
香苗がいなくなることを、諦めて受け入れるか。
「ごめん」
真琴が小さく言った。
「今すぐ同じように思えって言いたいんじゃないの」
「分かってる」
「分かってない顔してる」
「今は、分かりたくないのかもしれない」
真琴はそれ以上何も言わなかった。
廊下から、香苗と部長の話し声が聞こえる。
由実はケースの持ち手へ目を落とした。
新しいテナー。
これから自分で音を育てていくと決めた楽器。
けれど、その音を最初に聞いてほしかった人がいなくなる。
(私が、もっと一人でできていたら)
ふいに、そんな考えが浮かんだ。
練習のたびに香苗を呼ばなければ。
音の入り方も、低音も、自分で直せていたら。
パートの仕事を香苗へ任せきりにしなければ。
香苗は、辞めずに済んだのだろうか。
由実は、廊下の向こうを見た。
話し合いを終えた香苗が、こちらへ戻ってくる。
今度は、目を逸らさなかった。
聞かなければならない。
香苗がいなくなる本当の理由を。
自分に関係があるのかを。
由実はWO2のケースを握ったまま、香苗が近づいてくるのを待った。




