第34話 私のせいですか
香苗へ話しかける機会を探しているうちに、放課後の練習は終わってしまった。
由実はWO2の水分を拭き取りながら、隣の椅子に置かれたアルトサックスのケースを何度も見た。
香苗は譜面台を片付けたあと、真琴へファイルを渡している。
「パート練習の記録。次から真琴が持ってて」
「分かりました」
「分からないところがあったら聞いて。まだいるから」
まだいる。
その言葉が、由実の胸へ引っかかった。
今はいる。
けれど、もうすぐいなくなる。
昨日までは、香苗の隣で吹くことを当たり前だと思っていた。
新しい楽器を選んだときも、これからこの楽器で何を教えてもらおうかと考えていた。
低音をもっと安定させたい。
小さな音でも、芯をなくしたくない。
いつか赤いテナーを香苗が吹いたときのように、深く響かせてみたい。
その全部に、香苗がいるつもりだった。
「橋本さん?」
真琴に呼ばれ、由実は顔を上げた。
「片付け、終わりました?」
「あ……うん」
手元を見る。
WO2はまだケースへ収められていなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
すぐに答えた。
真琴は少し迷うように由実を見たが、それ以上は聞かなかった。
昨日、真琴から言われた言葉を思い出す。
『平気なんじゃないよ』
『寂しいことと、先輩の決めたことを応援することは、別じゃないと思う』
由実にも、正しいことだとは分かっている。
けれど、分かることと受け入れられることは違った。
香苗がいなくなる。
その事実を考えるたびに、胸の奥が狭くなる。
誰かに間違いだと言ってほしかった。
退部なんて必要なかったと。
何かを変えれば、まだ間に合うと。
由実はケースの留め具を閉じ、立ち上がった。
「先輩」
香苗が振り返る。
「どうした?」
「あの……少し、話せますか」
香苗は由実の顔を見たあと、教室の時計へ目を向けた。
一瞬だけだった。
けれど、その仕草にも、由実は胸を刺された。
以前なら、香苗は時間など気にしなかった。
練習が終わったあとも、由実の質問へいくらでも付き合ってくれた。
今は違う。
「少しなら大丈夫」
「すみません」
「謝らなくていい」
ほかの部員たちが帰っていく中、二人は音楽室の隅へ移った。
椅子を向かい合わせるほどの話ではない気がして、由実は窓際に立ったままケースの持ち手を握った。
香苗も急かさずに待っている。
何を聞きたかったのか。
考えていたはずなのに、言葉が出てこない。
「今日のWO2、どうでしたか」
ようやく出たのは、退部とは関係のない言葉だった。
「昨日より鳴ってた」
「低音、少し上ずってましたよね」
「楽器が変わったばかりだからな。S1で無意識にやってた補正が残ってる」
「はい」
「明日、音階やれば分かる。全部直そうとしなくていい」
「はい」
会話が終わる。
由実はケースの持ち手を握り直した。
聞きたいのは、そんなことではない。
香苗も分かっているのだろう。
「退部のことだろ」
先に言われて、由実はうつむいた。
「……はい」
「何が聞きたい?」
何から聞けばいいのか分からなかった。
なぜ辞めるのか。
本当に辞めなければならないのか。
もう決めてしまったのか。
自分には何もできないのか。
いくつもの言葉が喉元へ集まり、どれも形にならない。
結局、最初に出たのは、ずっと胸の中で膨らんでいた問いだった。
「私がもっと一人で練習できたら、辞めなくて済みましたか」
香苗の表情が変わった。
「違う」
迷いのない声だった。
「でも、先輩はずっと私を見てくれてました。私がもっと早く一人で吹けるようになってたら、先輩の時間を使わなくて済んだんじゃないですか」
「由実」
「パートのことも、私がもっとできたら」
「違うって言ってる」
強い声ではなかった。
それでも、由実の言葉は止まった。
香苗は少し息をつき、窓の外へ目を向けた。
校庭から、運動部の掛け声が聞こえる。
「私が部活を続けてたのは、由実の練習を見るためだけじゃない」
「……はい」
「由実が上手くなったから辞めるわけでもない。上手くならないから辞めるわけでもない」
香苗は由実へ視線を戻した。
「これは私の問題だ」
由実は唇を結んだ。
「じゃあ、どうして今なんですか」
「今?」
「三年生になってからじゃ、駄目なんですか。まだ二年生なのに」
言った直後、自分がどれほど勝手なことを言っているのか分かった。
けれど、止められなかった。
「みんな、先輩が決めたことだからって言います。でも、私は理由を知らないです。勉強が忙しいっていうのは分かります。でも、先輩は今までだって勉強してました」
「そうだな」
「部活もちゃんとやってました」
「ああ」
「だったら、これからも――」
「医者になりたいんだ」
由実は口を閉じた。
音楽室の外から聞こえていた足音が、遠ざかっていく。
「……お医者さん、ですか」
「うん」
香苗の口から出た言葉が、すぐには現実として結び付かなかった。
由実にとって香苗は、いつもサックスのことを考えている人だった。
楽器のメーカー。
マウスピース。
リード。
音色。
合奏。
知らないことを尋ねれば、呆れるほど詳しく答えてくれた。
だから、香苗の将来にも音楽があるのだと思い込んでいた。
「音大とかじゃなくて……?」
「音大へ行くつもりはない」
「でも、先輩はサックスが好きですよね」
「好きだよ」
香苗はすぐに答えた。
「好きだから、適当にはやりたくない」
その言葉が、由実には少し分からなかった。
好きなら続ければいい。
続けたいものを見つけた由実には、そう思えた。
けれど、香苗の顔には迷いがなかった。
「私、小さい頃に病気したんだ」
香苗が静かに続ける。
「すぐ治るようなものじゃなくて、しばらく入院してた」
「重い病気だったんですか」
「当時の私には、重かった」
病名を説明するつもりはないのだろう。
由実も聞かなかった。
「検査も嫌だったし、治療も怖かった。子どもだったから、何をされてるのかもよく分からなかった」
香苗は窓の外を見たまま話していた。
「親は大丈夫だって言うけど、大人が言う大丈夫って、信用できないときがあるだろ」
由実は小さくうなずいた。
「担当の先生が、ちゃんと話してくれたんだ。子ども扱いして誤魔化さずに、今から何をするのか、何のためにするのか。痛いなら痛いって言っていいし、怖いなら怖いって言っていいって」
香苗の声は、いつもと変わらなかった。
それなのに、由実には、遠い記憶を大切に取り出しているように聞こえた。
「病気を治してもらったから、医者になりたいと思ったんですか」
「それもある」
香苗は少し考えてから答えた。
「治してもらったことより、怖いままにされなかったことの方が残ってるかもしれない」
由実は何も言えなかった。
「退院するとき、私もそういう仕事がしたいと思った。子どもの頃の話だから、そのうち変わると思ってたけど、変わらなかった」
「ずっと……?」
「ずっと」
知らなかった。
香苗がそんなに長い間、一つの夢を持っていたことを。
模試の日程を気にしていたこと。
補習へ行くために早く帰ったこと。
進路面談。
楽器店の帰りに立ち寄った書店で、参考書を何冊も見比べていたこと。
今まで見てきたものが、一つにつながっていく。
「でも、先輩なら、勉強もできるんじゃないですか」
「できてたら辞めない」
香苗は苦笑した。
「今の成績じゃ、医学部に届くとは言えない。特に苦手な科目は、このままだと厳しい」
「まだ二年生ですよね」
「もう二年生だよ」
由実には長く残っているように思える時間を、香苗は短いものとして見ている。
「部活を続けながら頑張ればいいって、私も思ってた。実際、今まではそうしてきた」
「だったら――」
「でも、最近はどっちも中途半端になってる」
香苗は自分の鞄を指先で軽く叩いた。
中には今日も参考書が入っているのだろう。
「部活に来ても、帰ったあとの勉強時間が気になる。勉強してても、部活へ行けなかった日のことが気になる」
由実は、香苗が練習中に時計を見た姿を思い出した。
「音楽も、医者になることも、中途半端にしたくない」
その言葉を前にすると、由実が用意していたものは何も出せなくなった。
退部しないでください。
もっと教えてください。
一人にしないでください。
全部、由実のための言葉だった。
香苗の夢を聞いたあとでは、それを口にすることができない。
言えば、香苗は困るだろう。
もしかすると、悩んでくれるかもしれない。
由実が泣けば、放っておけないと思うかもしれない。
香苗はそういう人だ。
だからこそ、言ってはいけない気がした。
「私は……」
声が震えた。
「私は、まだ先輩に教えてほしいことがたくさんあります」
「ああ」
「新しい楽器も、一緒に選んだばかりです」
「うん」
「もっと一緒に吹けると思ってました」
香苗は否定しなかった。
由実の言葉を遮らず、ただ聞いていた。
「先輩がいなくなったら」
喉が詰まる。
こんなことを言えば、香苗を困らせる。
それでも、もう隠せなかった。
「私がテナーを続ける意味も、なくなる気がします」
香苗はすぐには答えなかった。
励ましも、否定もなかった。
その沈黙が、由実には苦しかった。
「由実が吹いてきた音は、私がいなくなったら消えるのか」
「……分かりません」
「県大会まで吹いたのも、新しい楽器を選んだのも、全部なかったことになる?」
「なりません」
「じゃあ、由実がテナーを選んだのは、私がいたからだけか?」
由実は答えられなかった。
最初は、香苗に言われたからだった。
テナーが必要だったから。
赤い楽器を渡されたから。
隣に香苗がいたから。
けれど、県大会で代表に届かなかったあとも、吹きたいと思った。
卒業後も続けたいと思った。
両親へ頭を下げた。
何本もの楽器を吹き、自分でWO2を選んだ。
それでも、そのすべての場面に香苗がいた。
テナーが好きなのか。
香苗の隣で吹くことが好きだったのか。
どちらか一つを選べと言われても、分からない。
「分かりません」
由実はもう一度言った。
「今は、それでいい」
香苗の声が少し柔らかくなった。
「でも、私が辞めることを由実のせいにはするな」
「……はい」
「由実がもっと上手かったらとか、一人で練習できたらとか、そういう話じゃない」
「はい」
「私が決めたことだ」
香苗の夢。
香苗の成績。
香苗の時間。
どれも由実が代わって背負えるものではない。
由実がどれほど寂しくても、香苗の未来を決める理由にはならない。
頭では分かった。
けれど、胸の痛みは少しも消えなかった。
「先輩」
「何だ?」
「お医者さんになりたいんですね」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
香苗は迷わず答えた。
由実はその顔を見て、初めて分かった。
香苗が吹奏楽部を辞めたいわけではない。
音楽に飽きたのでもない。
大切ではなくなったのでもない。
大切なものを手放してでも、選びたい未来があるのだ。
「分かりました」
口にしてから、由実は首を振った。
「ごめんなさい。まだ、分かってないです」
「正直だな」
「退部してほしくないです」
「ああ」
「でも、先輩にお医者さんを諦めてほしいわけでもないです」
香苗は少しだけ目を細めた。
「それでいい」
「よくないです。全然、整理できてません」
「今すぐ整理しなくていいって言ってる」
香苗は鞄を肩へ掛けた。
「帰ろう。今日はもう遅い」
「はい」
二人で音楽室を出る。
廊下の窓へ、夕方の薄い光が残っていた。
由実はWO2のケースを持ち直す。
昨日までよりも、少し重く感じた。
香苗の退部は、自分のせいではなかった。
それが分かっても、安心はできなかった。
むしろ、香苗には由実が引き止めてはいけない理由があると知ってしまった。
階段を下りながら、由実は隣を歩く香苗を見た。
もう少し一緒に吹きたい。
もっと教えてほしい。
できることなら、辞めないでほしい。
その気持ちは消えない。
けれど、香苗の夢も消してはいけない。
その二つを、どちらか一方にしなくてもいい方法はないのだろうか。
由実はまだ答えを持っていなかった。
ただ、香苗の決断を変えさせる以外の方法を、初めて探そうとしていた。




