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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第八章 先輩がいなくなる

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第35話 残された時間

 由実は、記録帳の新しいページへ線を引いた。


 左側には、香苗が部活動でしていたこと。


 右側には、それを誰が引き受けられるか。


 けれど、書き始めてすぐ、手が止まった。


 パート練習の計画。


 アルトの基礎練習。


 合奏前の音程確認。


 後輩への指示。


 譜面の整理。


 備品の確認。


 欠席した部員への連絡。


 先生や部長との相談。


 思い付くたびに書き加えていくと、左側ばかりが埋まっていった。


「こんなに……」


 香苗がいつもしていたことは、楽器の吹き方を教えるだけではなかった。


 由実が低音を出せずに困っていたとき。


 休符のあとへ入れなかったとき。


 合奏で音が埋もれて落ち込んでいたとき。


 香苗はいつも由実の隣にいた。


 けれど、その間にもパート全体を見ていた。


 誰の音が遅れているか。


 誰が譜読みで止まっているか。


 どの曲を先に練習すべきか。


 由実が気付かなかった仕事を、香苗はずっと引き受けていた。


 由実は右側へ、自分の名前を書いた。


 パート練習の計画。


 譜面の整理。


 備品の確認。


 その下にも書こうとして、鉛筆が止まる。


 アルトの基礎練習は、自分には見られない。


 自分のテナーだけでも、まだ新しいWO2へ慣れている途中だ。


 香苗がいない日の音程確認も、自分一人で正しく判断できるとは限らない。


 それでも、誰かへ頼むより、自分が引き受けなければならない気がした。


 香苗に残ってほしいと言うのは、自分なのだから。


(私が全部できれば、先輩の負担はなくなる)


 そう考えて、由実はさらに仕事を書き足した。


 けれど、ページの半分まで埋まったところで、無理だと分かった。


 練習計画を作りながら、全員の譜読みを確認し、備品を管理し、自分の個人練習もする。


 それでは由実自身が演奏へ集中できない。


 香苗の負担を減らすために、別の誰かが無理をするのでは意味がない。


 由実は鉛筆を置き、前のページをめくった。


 四月。


 最初に赤いテナーを渡された日。


 音が出なかったこと。


 指が届かなかったこと。


 香苗に息を止めるなと言われたこと。


 地域演奏。


 マウスピース選び。


 合宿。


 地区大会。


 県大会。


 記録帳には、その日できなかったことと、次にすることが残っている。


 これまでは、自分がどれだけ進めたかを確かめるために書いてきた。


 けれど今、知りたいのは別のことだった。


 香苗が定期演奏会へ出るために、部活動へどれだけ来なければならないのか。


 毎日でなければ駄目なのか。


 全部の曲へ出なければならないのか。


 パートの仕事を続けなければ、演奏会へ参加できないのか。


 由実は過去の練習記録を読み返した。


 新しい曲へ入った最初の頃は、譜読みや音の確認に時間がかかっている。


 一方、譜読みを自宅で済ませた曲は、合奏へ早く入れていた。


 パート練習も、毎回全員が同じ内容をする必要はなかった。


 個人で補えること。


 学校でなければできないこと。


 香苗がいなければ進まないこと。


 ほかの部員でもできること。


 由実は、さっきまでのページを破らず、その隣に新しい欄を作った。


 通常練習への参加は、週二日。


 参加する曲を絞る。


 譜読みと個人練習は、自宅で行う。


 合奏へ参加する日は、事前に共有する。


 パート運営の仕事は、ほかの部員へ分ける。


 香苗が欠席していても、練習を止めない。


 書き終えても、それが本当に可能なのかは分からなかった。


 香苗本人が嫌だと言うかもしれない。


 顧問に認めてもらえないかもしれない。


 ほかの部員へ負担を押し付ける案になっているかもしれない。


 それでも。


 退部をやめてほしいと頼むよりは、香苗の夢を奪わない。


 何もせずに見送るよりは、自分の気持ちを諦めなくて済む。


 由実はページの最後へ、一行だけ書いた。


『先輩が選べる方法にする』


 自分の望みを叶えるためではない。


 香苗へ選択肢を渡すための案にする。


 そう決めて、由実は記録帳を閉じた。


 ◇


「相談したいことがあるんだけど」


 翌日の練習前。


 由実は真琴と莉央を、音楽室の隅へ呼んだ。


「香苗先輩のこと?」


 真琴に先に聞かれ、由実はうなずいた。


 莉央は椅子へ腰掛け、由実が開いた記録帳をのぞき込む。


「定期演奏会まで、出てもらう方法を考えたいの」


「退部をやめてもらうんじゃなくて?」


「うん」


 口にすると、まだ胸が少し痛んだ。


 本当は、辞めてほしくない。


 定期演奏会のあとも、来年も、その先も一緒に吹きたい。


 けれど、その願いを香苗へ背負わせないと決めた。


「先輩は、勉強する時間が必要だから辞める。だから、毎日部活へ来なくても演奏会に出られるようにしたいの」


 由実は昨夜まとめた案を見せた。


 週二日の参加。


 参加曲の限定。


 譜読みと個人練習は自宅。


 欠席日に練習を止めないこと。


 真琴はしばらく黙ってページを読んでいた。


「これ、橋本さんが全部やるの?」


 記録帳には、由実の名前が多く書かれたままだった。


「できることは、やろうと思ってる」


「できることと、全部やることは違うよ」


「でも、私が先輩に残ってほしいって言うんだから」


「私だって、残ってほしいよ」


 真琴の声は静かだった。


「莉央先輩も、みんなもそうだと思う」


 莉央がうなずく。


「由実だけのお願いじゃないよ」


「でも……」


「香苗先輩の代わりにはなれないけど、香苗先輩がしていた仕事は分けられるよ」


 真琴は記録帳を自分の方へ引き寄せた。


 アルトの基礎練習。


 譜読みの確認。


 後輩への指示。


 その横へ、自分の名前を書き込む。


「アルトは私が見る。香苗先輩ほど細かくはできないけど、基礎練習と譜読みの確認ならできる」


「でも、真琴も自分の練習があるよ」


「橋本さんにもあるでしょ」


「そうだけど」


「じゃあ、同じ」


 真琴は当たり前のように言った。


 莉央も記録帳へ手を伸ばす。


「香苗がいない日の低音は、私が見るよ」


「莉央先輩が?」


「バリトンからなら、テナーの音も聞きやすいし。音程とか、入りがずれてたら言える」


「でも、私の練習まで見てもらうことになります」


「見るっていうか、一緒に合わせるだけ」


 莉央は笑った。


「由実、一人で何でもやろうとしすぎ」


「そんなつもりは……」


 ないと言い切れなかった。


 香苗の分まで自分がしなければならないと思っていた。


 それが、香苗を引き止めようとした自分の責任だと思っていた。


 けれど、真琴も莉央も、香苗がいなくなることを寂しいと感じている。


 由実だけが残したいのではない。


「備品は、今までどおりみんなで確認すればいいんじゃない?」


 真琴が言う。


「練習計画は、香苗先輩がいるうちに教えてもらって、次から三人で作るとか」


「部長にも見てもらった方がいいね」


 莉央が、記録帳の端へ書き足す。


 一人の名前で埋まりかけていた右側に、真琴、莉央、部長、パート全員という言葉が増えていく。


 香苗の代わりになる人はいない。


 けれど、香苗が担ってきた仕事を、一人で背負う必要もない。


「ありがとう」


 由実が言うと、真琴は少し困ったように笑った。


「私も、定期演奏会まで一緒に吹きたいから」


「うん」


「でも、香苗先輩が嫌だって言ったら、無理に頼まないでね」


 由実はすぐには答えられなかった。


 昨日、香苗へ退部しないでほしいと言えなかった。


 今度は、別の形で断られるかもしれない。


 せっかく考えた案を受け入れてもらえなければ、何も変わらない。


「……うん」


 それでも、由実はうなずいた。


「先輩が決めることだから」


 ◇


 部長へ相談すると、最初に聞かれたのは、香苗がいない場合の練習についてだった。


「香苗が来られない日は、サックスパートの練習を止めるの?」


「止めません」


 由実は記録帳を開いた。


「アルトは真琴が見ます。低音の音合わせは莉央先輩が確認してくれます。練習計画も、香苗先輩一人に任せません」


「参加する曲は?」


「まだ決めてません。でも、全部ではなくて、必要な曲に絞ります」


「香苗が出る曲だけ、ほかの曲より練習時間が増えることは?」


 由実は言葉に詰まった。


 香苗に残ってもらうことばかり考え、ほかの部員から見た公平さまでは考えきれていなかった。


「それは……駄目だと思います」


「駄目というより、理由が必要だね」


 部長は記録帳を見ながら続けた。


「一人だけ特別な参加の仕方を認めるなら、そのために誰かが無理をする形にはできない。香苗のために演奏会全体が振り回されるのも違う」


「はい」


「でも、進路の事情に合わせて参加方法を変えること自体は、悪いことじゃないと思う」


 由実は顔を上げた。


「本番までに必要な練習ができること。欠席しても合奏が止まらないこと。ほかの部員へ負担が偏らないこと。それが説明できれば、先生に相談していいんじゃないかな」


「ありがとうございます」


「まだ決まったわけじゃないよ」


「はい」


 部長は少し笑った。


「橋本さん、最近ちゃんと人に相談できるようになったね」


「前は、できてませんでしたか」


「できてなかったというより、自分で何とかしようとしすぎてた」


 真琴にも似たことを言われた。


 由実は記録帳を抱え直した。


 自分では、一人で立てるようになろうとしていたつもりだった。


 香苗へ頼らなくても吹けるように。


 香苗の負担にならないように。


 けれど、一人で全部することが自立ではないのかもしれない。


 必要なときに人へ頼り、誰かと役割を分けることも、自分で進むために必要なのだ。


 ◇


 最後に、由実たちは顧問の高瀬へ案を持っていった。


 高瀬は記録帳のページを最初から最後まで読み、すぐには返事をしなかった。


 由実、真琴、莉央、部長の四人は、机の前へ並んで立っている。


「香苗さんは、この案を知っているの?」


「まだです」


「先に私へ相談した理由は?」


「先輩に期待させてから、学校では無理だと言われたくなかったからです」


 由実が答えると、高瀬は小さくうなずいた。


「週二日。参加曲を限定。個人練習は自宅。パート運営は分担する」


 指先で項目を追っていく。


「考えてはあるね」


「はい」


「でも、週二日なら必ず学業に影響しないとは限らない」


「それは……」


「本人が自宅練習まで抱え込めば、今より忙しくなることもある。部活へ来る時間だけ減らせばいいわけじゃないよ」


 由実は、そこまで考えられていなかった。


 自宅練習なら、香苗の負担にならないと思っていた。


 けれど、その時間も勉強に使うはずだった時間だ。


「それから、香苗さんが参加することを前提に演奏会を作らないこと」


「はい」


「途中で参加できなくなっても、曲が成立する形にしておく。体調でも、模試でも、勉強の遅れでも、事情は変わるからね」


「分かりました」


「パートの仕事を分けることは賛成。ただし、あなたたちが無理をしないこと」


 高瀬は真琴と莉央にも目を向ける。


 二人はそろってうなずいた。


「条件が守れるなら、検討する価値はあると思う」


 由実の胸が大きく鳴った。


「本当ですか」


「まだ許可ではありません」


 高瀬は穏やかな声で念を押した。


「一番大事なのは、香苗さん本人がどうしたいかです」


「はい」


「あなたがこれだけ考えたからといって、受け入れなければならないわけではない」


 由実は記録帳へ目を落とした。


 昨夜から何度も書き直した案。


 真琴や莉央が、自分の名前を書いてくれたページ。


 部長が指摘してくれた条件。


 それでも、香苗が断れば終わる。


「断られたら、受け入れられる?」


 高瀬に問われる。


 由実はすぐに返事をしなかった。


 受け入れたくはない。


 きっと寂しい。


 何日も考えたことが無駄になったように感じるかもしれない。


 けれど、この案は香苗を残すための命令ではない。


 香苗が選べるようにするためのものだ。


「先輩が断ったら、無理には頼みません」


「本当に?」


「はい」


 今度は、はっきり答えた。


「先輩の未来を変えないために考えた案なので」


 高瀬は記録帳を閉じ、由実へ返した。


「では、本人へ話してみなさい」


「はい」


 職員室を出ると、真琴が息を吐いた。


「緊張した」


「私も」


「由実が一番普通に話してたよ」


「普通じゃなかったよ」


 記録帳を持つ手には、汗がにじんでいる。


 莉央が由実の肩を軽く叩いた。


「ここからだね」


「はい」


 由実は記録帳を開いた。


 一人で埋めようとしていた欄には、いくつもの名前がある。


 香苗がいなくなったあとも、自分を支えてくれる人たち。


 同じように香苗と吹きたいと思い、力を貸してくれた仲間たち。


 由実はそのページを見てから、音楽室へ続く廊下の先へ目を向けた。


 今度は、香苗へ話さなければならない。


 辞めないでほしいと、ただ縋るのではなく。


 夢を諦めてほしいと願うのでもなく。


 香苗が選んだ未来を変えないまま、最後の演奏まで一緒に吹きたい。


 その望みを、自分の言葉で伝えるために。

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