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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第八章 先輩がいなくなる

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第36話 未来を変えなくていい

「先輩、今日、少し時間をもらえますか」


 練習が終わったあと、由実は香苗へ声をかけた。


 香苗は開いていた参考書から顔を上げる。


 部活動へ持ってくる鞄の中には、以前より楽譜以外の本が増えていた。


「退部のことか?」


「はい」


「分かった。片付けが終わってからでいいか?」


「お願いします」


 由実は記録帳を抱え直した。


 昨夜までなら、それだけで胸が苦しくなっていた。


 退部。


 香苗がいなくなる。


 その二つの言葉を考えるたび、何かを奪われるような気がした。


 今も、寂しくないわけではない。


 むしろ、これから話すことで、香苗が本当にいなくなる日が決まってしまうかもしれなかった。


 それでも、話さなければならない。


 香苗の未来を変えるためではなく。


 残された時間を、自分たちで選ぶために。


 ◇


 ほかの部員が帰ったあとの音楽室は、急に広く感じられた。


 譜面台は壁際へ寄せられ、椅子も重ねられている。


 窓の外には、日が落ちかけた校庭が見えた。


「それで?」


 香苗は椅子へ座り、由実を見た。


「何か考えた顔してるな」


「分かりますか」


「分かる。由実が記録帳を抱えてるときは、大体そうだから」


 由実は向かいの椅子へ座った。


 記録帳と、別の紙へまとめた予定案を机の上へ並べる。


「先輩に、定期演奏会まで一緒に出てもらう方法を考えました」


 香苗の目が、わずかに見開かれた。


「定期演奏会まで?」


「はい」


「私は年内で辞めるって話しただろ」


「分かっています」


「分かってないから、こういう話をしてるんじゃないのか?」


 強い口調ではなかった。


 けれど、香苗は簡単には受け取らなかった。


 由実は一度、息を整えた。


「退部をやめてほしいっていう話じゃありません」


「じゃあ、何だ?」


「退部する日は変えなくてもいいです。ただ、最後の日を定期演奏会にできないかと思って」


 由実は予定案を香苗の方へ向けた。


「通常練習へ来るのは、週二日です。参加する曲も全部じゃなくて、必要な曲だけにします」


 香苗は紙へ目を落とした。


「譜読みと個人練習は、自宅でしてもらいます。でも、勉強に影響が出るなら、参加する曲はもっと減らします」


「自宅練習だって時間は使うぞ」


「はい。先生にも言われました」


「先生?」


「高瀬先生と、部長には相談しました」


 香苗が顔を上げた。


「もうそこまで話したのか?」


「勝手に決めたわけじゃありません。学校として考えられる案か、先に確認しました」


「真琴たちも知ってるのか」


「はい」


 由実は記録帳を開いた。


 香苗が担当していた仕事と、それを誰が引き受けるか。


 以前は由実の名前ばかりだった欄に、今はいくつもの名前が書かれている。


「アルトの基礎練習や後輩の確認は、真琴が引き受けます。香苗先輩がいない日の低音とテナーの音合わせは、莉央先輩が見てくれます」


「由実は?」


「練習計画と、備品の確認と、自分のテナーです」


「多くないか?」


「最初は、全部自分でやろうとしてました」


「やっぱりな」


 香苗が眉を寄せる。


「でも、無理だって言われました」


「誰に?」


「みんなにです」


 由実は少しだけ笑った。


「香苗先輩の代わりにはなれないけど、先輩がしていた仕事は分けられるって、真琴が言ってくれました」


 香苗は記録帳へ視線を戻した。


 一人で担っていた仕事が、何人もの名前へ分かれている。


「私がいない日に、練習を止めるつもりはありません」


「……そうか」


「先輩が来る日だけ、特別に練習時間を増やすこともしません。定期演奏会全体が、先輩一人の参加に頼らない形にします」


「そこまでして私を出す意味があるのか?」


 由実は黙った。


 香苗の声には、戸惑いがあった。


 怒っているのではない。


 迷惑をかけることを恐れているように聞こえた。


「私が出れば、誰かが仕事を増やすことになる」


「仕事は増えます」


 由実はごまかさなかった。


「でも、香苗先輩がいなくなったあとも、誰かがしなきゃいけない仕事です」


「だから今から分けるって?」


「はい」


「私が楽をするために?」


「先輩だけのためじゃありません」


 由実は記録帳のページへ指を置いた。


「今まで先輩一人がしていたことを、私たちが覚えるためでもあります」


 香苗が黙る。


「先輩が退部したあと、結局は私たちでやらなきゃいけません。だったら、先輩がいるうちに教えてもらって、少しずつ引き継いだ方がいいと思います」


「でも、私は週二日しか来ないんだろ」


「だからこそです」


 由実は香苗を見た。


「先輩がいない日にも、自分たちで進められるようにします」


 香苗は椅子の背へ身体を預けた。


 机の上の紙を、もう一度最初から読み直している。


「高瀬先生は何て?」


「先輩の勉強を邪魔しないこと。先輩が無理をしないこと。ほかの部員へ負担が偏らないこと。先輩が出られなくなっても、演奏会が成立すること。それが条件です」


「ずいぶん厳しいな」


「当然だと思います」


「由実が言うのか」


「私が考えられてなかったことを、先生が教えてくれました」


 香苗は小さく息を吐いた。


「私が断ったら?」


 その問いに、由実の指が止まった。


 分かっていた。


 この話をすれば、必ず聞かれる。


 高瀬にも確認された。


 真琴にも念を押された。


 それでも、実際に香苗から聞かれると、胸の奥が痛んだ。


「受け入れます」


「本当に?」


「はい」


「ここまでみんなに話して、計画まで作ったのに?」


「はい」


 答える声が、少し震えた。


 香苗はそれを聞き逃さなかったようだった。


「無理してないか」


「しています」


 由実は正直に言った。


「断られたら、すごく嫌です」


「由実」


「定期演奏会まで一緒に吹きたいです。もっと長くいてほしいし、できるなら退部してほしくありません」


 言葉にするほど、抑えていた気持ちがあふれてくる。


 新しいWO2を選んだ日。


 香苗が赤いテナーを吹いた音。


 初めて隣へ座った春の日。


 低音が出ずに困っていたとき、何度も息を入れ直してくれたこと。


 県大会で代表に届かなかったあとも、由実の音は残ると言ってくれたこと。


「先輩がいなくなるのは、嫌です」


 香苗は何も言わなかった。


「でも、先輩が医者になりたいことも知りました」


 由実は膝の上で手を握った。


「子どもの頃からの夢で、今のままじゃ足りなくて、勉強する時間が必要なことも」


「……ああ」


「だから、退部をやめてほしいとは言いません」


 喉が詰まりそうになる。


 それでも、由実は顔を上げた。


「先輩が選んだ未来を変えなくていいです」


 香苗の目が、由実をまっすぐに捉えた。


「医者になりたいことも、勉強を優先したいことも、変えなくていいです」


 由実は一度だけ息を吸った。


「でも、最後の演奏まで一緒に吹ける方法を、考えさせてください」


 音楽室には、壁掛け時計の音だけが響いていた。


 香苗は長い間、答えなかった。


 由実は急かさなかった。


 ここまで伝えたのだから、あとは香苗が選ぶことだ。


 自分が寂しいから。


 自分が一人で吹くのが怖いから。


 そんな理由で、香苗へ残る責任を背負わせたくない。


 けれど、一緒に吹きたいという願いまで隠したくはなかった。


「由実」


「はい」


「私は、辞めれば全部終わると思ってた」


 香苗が紙から目を離した。


「パートの仕事も、後輩を見ることも、演奏会のことも。一度で手放した方が、みんなに迷惑をかけないと思ってた」


「迷惑じゃありません」


「そう言い切るな。実際、仕事は増える」


「はい」


「そこは否定しないんだな」


「先輩がそういうところをごまかすと、怒るので」


 香苗の口元が、わずかに緩んだ。


「でも、先輩が今まで一人でしていたことを、これからも一人で終わらせる必要はないと思います」


「終わらせる必要はない?」


「任せてください」


「由実たちに?」


「はい」


 由実は記録帳を香苗の前へ置いた。


「全部じゃなくていいです。最初は少しずつでいいので」


 香苗は、真琴や莉央の名前が書かれた欄を指でなぞった。


「私がいなくても、できるようにするのか」


「そうします」


「寂しくないのか?」


「寂しいです」


 由実は迷わず答えた。


「でも、寂しいことと、先輩の未来を応援することは、同時にできるって言われました」


「誰に?」


「真琴です」


「真琴らしいな」


「私は、まだ上手くできてません」


 香苗が退部すると聞いたとき、周囲だけが簡単に受け入れたように思えた。


 けれど違った。


 みんな寂しい。


 寂しいまま、香苗の選択を尊重しようとしていた。


「でも、できるようになりたいです」


 由実は続けた。


「先輩に残ってもらうためじゃなくて、先輩が自分で選べるようにしたいです」


「私が断っても?」


「受け入れます」


「参加曲をもっと減らしたいと言っても?」


「はい」


「途中で、やっぱり無理だと判断しても?」


 胸がまた痛んだ。


 けれど、由実はうなずいた。


「はい」


「……そうか」


 香苗は椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。


 夕暮れの校庭では、運動部の掛け声が小さく聞こえている。


 由実は待った。


 何分経ったのかは分からない。


 香苗が振り返った。


「高瀬先生と部長には、私からも話す」


「はい」


「勉強を優先する。模試の前や、遅れてる科目があるときは休む」


「はい」


「自宅練習も、時間を決める。部活へ出るために睡眠を削るのもなしだ」


「はい」


「参加する曲は、最初から少なめにする。無理なら、さらに減らす」


「分かりました」


「それでもいいなら――」


 香苗は、少しだけ視線を逸らした。


「定期演奏会までは、吹きたい」


 由実はすぐに返事ができなかった。


 聞き間違いではないかと思った。


「先輩」


「私も、最後まで吹きたい曲はある」


「じゃあ……」


「正式な退部日は、定期演奏会の日にする」


 胸の奥へ、熱いものが広がった。


 退部がなくなったわけではない。


 香苗がいなくなる未来は変わらない。


 それでも、二人で最後の演奏へ向かう時間ができた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのは違うだろ」


「でも」


「私が選んだんだ」


 香苗は机の上の予定案を持ち上げた。


「由実たちの案を聞いて、それでも出たいと思ったから出る」


 由実は何度もうなずいた。


「はい」


「だから、無理してるように見えたら止めろ」


「私がですか?」


「お前が言い出したんだから、責任持て」


「分かりました」


「あと、由実も一人で抱え込むな」


「それは、もう言われました」


「何回でも言う」


 香苗は紙を記録帳へ挟んだ。


「それと、一曲だけ、二人で吹きたい」


「二人で?」


「定期演奏会で、アルトとテナーの短い二重奏を入れられないか、先生に相談する」


 由実の心臓が、また大きく鳴った。


「私と先輩で、ですか」


「ほかに誰がいる」


「でも、私でいいんですか」


「そういうことをまだ聞くのか?」


 香苗が少し呆れた顔をする。


「由実と吹きたいから言ってる」


「……はい」


「曲はこれから決める。難しすぎるのは無理だし、練習時間も限られてる」


「はい」


「全体合奏へ影響しない範囲でな」


「はい」


「返事ばっかりだな」


「今は、それしか言えません」


 香苗は小さく笑った。


「じゃあ、少し吹くか」


「今からですか?」


「まだ時間はあるだろ」


 香苗はケースを開き、黒いカイルヴェルトを取り出した。


 由実もWO2のケースを開く。


 クリアラッカーの下に見える、少し赤みを含んだ地金の色。


 まだ新しく、使用跡の少ない由実の楽器。


 隣には、香苗が長く吹いてきた黒いテナーではなく、今日はアルトサックスがある。


 違う大きさ。


 違う音域。


 違う音色。


 二人が進む未来も、きっと同じではない。


 香苗は医師を目指す。


 由実は、まだ自分が何になりたいのか知らない。


 それでも今は、同じ曲へ向かって音を重ねられる。


 香苗はマウスピースを取り付け、譜面台を二つ並べた。


 以前なら、どこを吹くかも、どんな練習をするかも、香苗が先に決めていた。


 けれど香苗は楽譜を開かず、由実を見る。


「どこから合わせる?」


 由実は少しだけ迷った。


 正しい答えを探すためではない。


 自分が、どこから始めたいかを考えるために。


「最初からお願いします」


「分かった」


 二人は楽器を構えた。


 まだ曲は決まっていない。


 演奏会でどんな音を出せるのかも分からない。


 香苗が来られる日は限られている。


 由実のWO2も、まだ由実の息に完全には馴染んでいない。


 それでも。


 二人は同時に息を吸った。


 香苗のアルトが、先に柔らかな音を置く。


 由実のテナーが、その下へ重なる。


 教えられた音ではなく。


 引き止めるための音でもなく。


 別々の未来へ進む二人が、最後の演奏を作り始めるための、最初の音だった。

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