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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第八章 先輩がいなくなる

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第37話 定期演奏会

 今日で、香苗先輩は吹奏楽部を辞める。


 由実はそのことを考えないようにしながら、三度目のリードをマウスピースへ取り付けた。


 横から見て、曲がっていないか確認する。


 一度外す。


 もう一度、取り付ける。


「由実、それ、さっきも見てなかった?」


 隣でアルトサックスを組み立てていた真琴が、苦笑しながら声をかけてきた。


「見たけど、少しずれている気がして」


「さっきも同じこと言ってたよ」


「でも、本当に少しだけ……」


「貸して」


 真琴が由実のVandoren V5 T20をのぞき込む。


 BGのリガチャーに固定されたリードを左右から確認し、すぐに顔を上げた。


「大丈夫。まっすぐ」


「そうかな」


「うん。それ以上触ったら、逆にずれると思う」


 由実はようやく諦め、マウスピースをWO2のネックへ差し込んだ。


 キーを一つずつ押す。


 タンポが閉じる小さな音が、舞台裏のざわめきに混ざった。


 新しい楽器を受け取ったばかりの頃とは違う。


 どのキーを押せば、指先へどれほどの感触が返ってくるのか。


 どの音が少し高くなりやすく、どこで息を支え直す必要があるのか。


 まだすべてではないが、少しずつ分かるようになっていた。


 それでも今日だけは、自分の楽器が知らないもののように思えた。


「緊張してる?」


 真琴が尋ねる。


「少し」


「少し?」


「かなり」


「だよね」


 定期演奏会には、審査員がいない。


 順位も、金賞も、代表選考もない。


 失敗したからといって、何かを失うわけではない。


 県大会の前より、ずっと気楽なはずだった。


 けれど、由実の指は落ち着かない。


 今日は、評価されるために吹くのではない。


 自分たちの音を聴いてほしい人たちの前で吹く。


 客席には両親がいる。


 地域演奏を聴いてくれた人もいる。


 学校の友人や先生たちもいる。


 そして何より。


 香苗と一緒に演奏する、最後の日だった。


「橋本」


 呼ばれて振り返る。


 演奏衣装に着替えた香苗が、黒いケースを片手に立っていた。


 その中には、太い管体を持つカイルヴェルトのアルトサックスが収まっている。


「もう本番前だぞ。リードをいじりすぎるな」


「真琴にも同じことを言われました」


「なら、言うことを聞け」


「先輩にも言われたくないです」


「何でだよ」


「先輩も、練習前に何回もネジを確認してます」


「私は必要だからやってる」


「私も必要です」


「三回も?」


 由実は答えなかった。


 香苗が呆れたように息を吐く。


 その声も。


 眉間へ少しだけしわを寄せる顔も。


 明日からは、毎日見られるものではなくなる。


「……何だよ」


「何でもないです」


「変な顔するな。音まで湿っぽくなるぞ」


「湿っぽい音って何ですか」


「今のお前が吹いたら出そうな音」


「先輩のせいです」


「私のせいにするな」


 いつものやり取りだった。


 それだけで少し、呼吸が楽になった。


 ◇


 演奏会は、全体合奏から始まった。


 照明の下へ出ると、客席は思っていたより暗かった。


 人の顔までは、はっきり見えない。


 それでも前方の席に、両親らしい姿が見えた。


 母が小さく手を振ろうとして、隣の父に止められている。


 由実は思わず笑いそうになり、慌ててマウスピースをくわえた。


 指揮台へ上がった高瀬が、全員を見渡す。


 タクトが上がった。


 息を吸う。


 最初の音が、ホールへ広がった。


 県大会のとき、由実は間違えないことばかり考えていた。


 入りを外さない。


 音程を崩さない。


 低音を割らない。


 音の終わりを早く切らない。


 今日も、気を付けることは同じだった。


 けれど、聴いているものが違う。


 真琴のアルトが、自分の少し前を進んでいる。


 莉央のバリトンサックスが、さらに下から支えている。


 金管の音が膨らみ、木管の細かな動きがその隙間を通る。


 由実は、自分の音が合奏のどこへ置かれるべきかを探す。


 香苗が不在の日にも、練習を続けてきた。


 分からないことがあれば、自分で楽譜を見た。


 真琴と吹き方を確かめた。


 莉央に低音を聴いてもらった。


 香苗が来るまで止まっていた頃とは違う。


 指示を待たず、自分で周囲を聴く。


 入る。


 支える。


 譲る。


 次の音へ渡す。


 WO2は、由実の息へ素直についてきた。


 赤いS1 Prestigeとは違う。


 軽やかで、音の始まりが分かりやすい。


 それでも、楽器が勝手に音を決めてくれるわけではない。


 息を支えなければ、音は薄くなる。


 迷えば、入りも遅れる。


 由実が作ろうとした分だけ、音が返ってくる。


 それが、今は嬉しかった。


 全体合奏の最後の音が終わる。


 一瞬の静けさ。


 それから、拍手が広がった。


 舞台袖へ戻ると、真琴が小さく拳を握った。


「よかったね」


「うん」


「低音、きれいだった」


「莉央先輩が合わせてくれたから」


「由実も合わせたんだよ」


 真琴はそう言って、自分のアルトを持ち直した。


 次は、由実と香苗の二重奏だった。


 由実の喉が、急に狭くなる。


「橋本、佐伯。準備して」


 高瀬に呼ばれる。


「はい」


 返事をした声が、自分のものではないように聞こえた。


 舞台へ出る前、香苗が隣へ並ぶ。


 カイルヴェルトのアルトは、香苗が持つと少しも大きく見えない。


 太く存在感のある管体。


 使い込まれたキー。


 由実のWO2とは、形も音も違う。


「大丈夫か?」


 香苗が小さく尋ねた。


 以前なら、その一言だけで安心しようとした。


 大丈夫だと言ってもらいたかった。


 失敗しても支えてもらえると、確認したかった。


 由実は一度、ゆっくり息を吸った。


「はい」


 本当は、まだ怖い。


 それでも、自分で足を舞台へ向ける。


「先輩も、間違えないでくださいね」


 香苗が目を丸くした。


 すぐに口元だけで笑う。


「言うようになったな」


「先輩に鍛えられました」


「なら、責任持って吹けよ」


「先輩もです」


 二人は並んで舞台へ出た。


 ◇


 照明の中に、椅子が二つ置かれている。


 譜面台も二つ。


 由実と香苗は、それぞれの場所へ座った。


 客席へ頭を下げる。


 拍手が静まるのを待つ。


 香苗と目を合わせた。


 小さく頷かれる。


 最初の息は、香苗からだった。


 アルトサックスの音が、静かなホールへ伸びていく。


 初めて音楽室で聴いたときと同じ、強く澄んだ音。


 けれど、今はただ遠くから聴いているのではない。


 由実は、その音の隣へ自分の息を置いた。


 テナーの音が、アルトより低い場所から重なる。


 同じ高さではない。


 同じ色でもない。


 香苗の音が前へ進むところでは、由実が下から支える。


 香苗がわずかに息を緩めたところで、由実が旋律を受け取る。


 テナーが主旋律へ移る。


 今度は、香苗のアルトが上から寄り添った。


 追いかけない。


 置いていかれないように急がない。


 香苗の音を聴きながら、自分の音があるべき場所を選ぶ。


 そのはずだった。


 短い休符の中で、最初の記憶がよみがえった。


『サックス、興味ないか?』


 入学したばかりの音楽室。


 アルトサックスを持った香苗が、由実を逃がさないように見ていた。


『ありますけど……』


『じゃあ、決まりだな』


『何がですか?』


『サックスパート』


 強引だった。


 こちらの返事など、ほとんど聞いていなかった。


 次のフレーズへ入る。


 赤いテナーを初めて持った日。


 大きくて、重くて、変な色だと思った。


 息を入れても、音にならなかった。


『もっと息を入れろ』


『入れてます』


『止めるな。最後まで通せ』


 もう一度、息を入れた。


 濁った、汚い音が鳴った。


 それでも香苗は笑わなかった。


『出たじゃん』


 その一言が、嬉しかった。


 由実は息を支える。


 WO2の音が少し揺れた。


 香苗のアルトが、すぐ隣で輪郭を保っている。


 姿勢を直された日のこと。


 肩へ手を置かれた。


 肘の位置を直された。


 近すぎて、練習へ集中できなかった。


『力を抜け』


『先輩が近いからです』


『関係あるか?』


『あります』


『知らん』


 マウスピースを選びに行った日。


 香苗は試奏する前から説明が止まらなくなった。


『先輩、また始まりました』


『知らないまま選ぶよりいいだろ』


『全部一度に言われると、分からなくなります』


 あの頃の由実なら、そんなことは言えなかった。


 香苗の言葉をすべて正解だと思い、黙って聞いていた。


 今は違う。


 分からないと言える。


 自分の感覚を言葉にできる。


 香苗と違う楽器を選び、違う音を出せる。


 地域演奏で失敗した日。


 休符の数を間違えた。


 入るべき場所で音が出なかった。


 終わったあと、何度も謝った。


 香苗は慰めなかった。


『次は間違えるな』


 翌日の練習では、何もなかったように同じ箇所から始めた。


 県大会の録音を、二人で聴いた夜。


 金賞だった。


 けれど、代表には届かなかった。


 悔しかった。


 それでも香苗は、結果だけで音を否定しなかった。


『ここ、前より良くなってる』


 由実が自分の成長を認められないとき、香苗は先に見つけてくれた。


 いくつもの楽器を吹いた日。


 セルマー。


 ヤマハ。


 ヤナギサワ。


 カイルヴェルト。


 香苗と同じメーカーを持てば、少し近づける気がした。


 けれど、由実には合わなかった。


『私が吹くなら好きだけど、由実には少し大きいかもな』


 香苗は、自分と同じものを選ばせようとはしなかった。


 由実がWO2を選んだときも。


『私ならWO20か、カイルヴェルト』


『先輩の好み、分かりやすいです』


『悪いか』


『悪くないです。でも、私はWO2がいいです』


 あのとき、初めて自分で選べた。


 香苗と違うものを選んでも、隣にいられると知った。


 そして。


 医師になりたいと話してくれた日。


 幼い頃に重い病気を患ったこと。


 不安な自分と向き合ってくれた医師に憧れたこと。


 今の成績では、医学部へ十分に届いていないこと。


『音楽も、医者になることも、中途半端にしたくない』


 香苗は、自分の不足を認めた。


 大切な吹奏楽部から離れてでも、夢へ進もうとした。


 由実のために、ここへ残ることを選ばなかった。


 そのことが寂しかった。


 今でも寂しい。


 もっと一緒に吹きたい。


 新しい楽器の音を、もっと聴いてほしい。


 うまくなったところを、もっと褒めてほしい。


 失敗したら、また呆れた顔で直してほしい。


 来年も。


 その次も。


 できるなら、ずっと。


 香苗の隣にいたい。


 胸の奥から、急に何かがこみ上げた。


 視界がにじむ。


(あ……)


 涙が頬を伝った。


 演奏中なのに。


 止めようとしても、次の一滴がこぼれる。


 由実はマウスピースをくわえたまま、息を続けた。


 音を止めるわけにはいかない。


 泣いている場合ではない。


 それでも、涙は止まらなかった。


 香苗がこちらを見る。


 ほんの一瞬、目が合った。


 驚いたように目を見開いたあと、すぐに眉を寄せる。


 呆れたような。


 少し心配しているような。


 由実が失敗したとき、いつも向けられてきた目だった。


 声など聞こえるはずがない。


 香苗も何も言っていない。


 それでも、その目が何を言っているのか、由実には分かった。


『何泣いてんだよ』


 由実は泣きながら、少しだけ笑った。


(先輩のせいです)


 目だけで、そう返した。


 香苗の眉間のしわが、ほんの少しだけ深くなる。


 けれど、次の音が来る。


 息を吸う。


 涙で視界が揺れる。


 それでも指は、練習してきた通りに動いた。


 香苗の音が聴こえる。


 強く、まっすぐで。


 けれど、由実が遅れないように、わずかにこちらへ寄り添っている。


 由実は気付いた。


 好きだったのは、香苗の音だけではない。


 不器用なくせに、困っている人を放っておけないところ。


 説明が下手なのに、教えることを諦めないところ。


 好きな楽器の話になると止まらないところ。


 由実が失敗しても、勝手に見限らなかったところ。


 自分の夢のために、苦しい選択をできるところ。


 由実とは違う未来へ進もうとしている、その人自身。


(私は、香苗先輩が好きなんだ)


 ずっと、隣にいたい。


 ただ音を教えてほしいのではない。


 先輩だから憧れているだけでもない。


 もっと話したい。


 もっと一緒に笑いたい。


 香苗が医師になる未来も見たい。


 その未来の中に、自分も少しだけ残っていたい。


 今まで名前を付けられなかった気持ちへ、恋心がようやく追いついた。


 気付いた瞬間、胸が苦しくなった。


 今日で終わる。


 香苗は部を辞める。


 由実がこの気持ちへ気付いた日に、二人が毎日一緒に吹ける時間は終わる。


 まるで、気付くのが遅すぎたようだった。


 それでも、由実は音を止めない。


 好きだから、同じ音になりたいわけではない。


 好きだから、香苗の音を消したくない。


 自分の音も消したくない。


 違う音のまま。


 違う未来へ進むまま。


 今だけは、隣で響いていたい。


 最後のフレーズへ入る。


 香苗のアルトが、細く長く伸びる。


 由実のテナーが、その下へ重なる。


 涙のせいで呼吸は乱れている。


 それでも、支えを失わない。


 弱くなった音を、WO2が受け止める。


 香苗の音も、由実が崩れないように隣へ残っている。


 二人の音は、同じ場所へ溶け切らない。


 異なる輪郭を残したまま、ホールの奥へ伸びていく。


 最後の音。


 由実は、香苗と同じタイミングで息を終えた。


 楽器を下ろす。


 一瞬、何も聴こえなかった。


 やがて、客席から拍手が広がった。


 由実は涙を拭くことも忘れ、香苗を見る。


 香苗も由実を見ていた。


 呆れたような顔。


 けれど、その口元はわずかに緩んでいる。


 由実は泣きながら笑った。


 香苗も、小さく笑った。


 その表情だけで、最後まで一緒に吹けたことが分かった。


 ◇


 演奏会が終わったあとも、片付けには時間がかかった。


 譜面台を運ぶ。


 椅子を戻す。


 楽器を拭く。


 部員たちは香苗の周りへ集まり、退部を惜しむ言葉や、これまでの感謝を伝えた。


 真琴は泣いた。


 莉央も、笑いながら目元を拭っていた。


 由実は少し離れたところで、自分のWO2を片付けた。


 管体の水分を拭く。


 スワブを通す。


 マウスピースを外す。


 いつも通りの作業をしているはずなのに、指先が何度も止まった。


 さっきの涙は、演奏に感動したから。


 最後だったから。


 思い出がよみがえったから。


 それだけなら、まだ誤魔化せる。


 けれど、自分の気持ちにはもう気付いてしまった。


 香苗が好きだ。


 伝えれば、何かが変わるかもしれない。


 何も変わらないかもしれない。


 困らせるだけかもしれない。


 香苗は医学部を目指している。


 これから、もっと忙しくなる。


 今日まで部活へ残ることも、由実たちのために時間を作ってくれた結果だった。


 そんな香苗へ、答えを求めることはできなかった。


「由実」


 名前を呼ばれる。


 顔を上げると、香苗が立っていた。


 黒いケースを持っている。


 もう、そのケースが部室の楽器棚へ置かれることはない。


「片付け、終わったか?」


「はい」


「じゃあ帰るぞ」


「……先輩」


「何だ?」


 由実は立ち上がった。


 喉が乾いている。


 演奏したせいだけではなかった。


「さっきは、すみませんでした」


「何が?」


「泣いてしまって」


「本番中に泣くやつがあるか」


「止められなかったんです」


「音まで止めなくてよかったな」


「そこは褒めてください」


「泣かなかったら褒めてた」


「厳しいです」


 由実は笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 香苗がじっとこちらを見る。


「何で泣いたんだよ」


「最後だったからです」


「それだけか?」


 由実の胸が跳ねた。


 香苗は、いつものように鈍いわけではない。


 むしろ、気付いているような目をしていた。


「思い出したんです」


「何を?」


「いろいろです。先輩に連れてこられたこととか、最初に音が出たこととか、失敗したこととか」


「私に強引に勧誘されたことも?」


「それが最初です」


「嫌だったのか?」


「少し」


「少しかよ」


「今は、感謝してます」


 香苗が何も言わなくなる。


 由実は、自分のケースの持ち手を握った。


 好きです。


 その一言が、喉のすぐ近くまで来ている。


 けれど、それをそのまま出せば、香苗に何かを選ばせることになる気がした。


 今すぐ返事を求めたいわけではない。


 香苗の夢を、自分との関係で重くしたくない。


 由実は息を吸った。


「私、先輩の音が好きです」


 香苗の目が、わずかに細くなる。


「今日の音だけじゃなくて、最初に聴いた音も、赤いテナーを吹いてくれたときの音も、全部好きです」


「……そうか」


「はい」


 言葉が足りない。


 本当に好きなのは、音だけではない。


 香苗自身が好きだ。


 けれど、今はこれ以上言えない。


 言えば、本当に失恋してしまう気がした。


 由実は、涙が戻ってきそうになるのを誤魔化すように笑った。


「これからも、たまに聴かせてください」


 香苗はしばらく何も言わなかった。


 視線をそらし、自分のケースへ落とす。


「部活は辞めるけど、サックスを辞めるわけじゃない」


「本当ですか?」


「家で吹く時間くらいは作る。勉強の邪魔にならない程度にな」


「じゃあ、また一緒に吹けますか?」


「模試の結果次第」


「厳しい条件です」


「私にとっては重要なんだよ」


「分かってます」


 由実は頷いた。


 分かっているから、引き止められなかった。


 香苗は由実を見る。


「それと」


「はい」


「音が好きだとか、紛らわしい言い方するな」


 由実の心臓が止まりそうになった。


「紛らわしいって……」


「そのままの意味だ」


「先輩は、どういう意味に聞こえたんですか」


「言わない」


「ずるいです」


「今のお前に答える義務はない」


 由実は唇を結んだ。


 やはり、失恋なのだろうか。


 はっきり断られてはいない。


 けれど、受け入れてももらえなかった。


 医学部を目指す香苗には、今はそんなことを考える余裕がないのかもしれない。


 胸が痛む。


 また涙がにじんだ。


「おい。また泣くな」


「泣いてません」


「目が赤い」


「演奏中に泣いたからです」


「今、増えただろ」


「気のせいです」


 香苗がため息をつく。


 次の瞬間、由実の額が指先で軽く小突かれた。


「痛いです」


「お前も、聴かせられる音を出し続けろ」


「先輩が聴いてくれるなら」


「私が聴かなくても吹け」


「……はい」


「でも」


 香苗が言葉を止めた。


 由実は顔を上げる。


 香苗は少しだけ視線をそらしている。


「お前の音なら、たまには聴いてやる」


「それ、満更でもないってことですか?」


「調子に乗るな」


「違うんですか?」


「帰るぞ」


 香苗は答えず、先に歩き出した。


 耳が少し赤く見えた。


 舞台裏の照明のせいかもしれない。


 由実が泣いているせいで、そう見えただけかもしれない。


 それでも、完全に断られたわけではない気がした。


「先輩、待ってください」


「早く来い」


 由実はWO2のケースを持ち上げる。


 追いつき、香苗の隣へ並ぶ。


 寂しさは残っている。


 明日から音楽室へ行っても、香苗はそこにいない。


 今日気付いた恋心も、すぐに届くものではない。


 少し失恋したような胸の痛みを抱えたまま、由実は涙の跡を袖で拭った。


 同じ学校にいても。


 いつか、別の場所へ進んでも。


 互いに音を続けていれば、また聴くことができる。


「先輩」


「今度は何だ?」


「医者になっても、サックスは続けてくださいね」


「まず医者になれるように勉強する」


「じゃあ、私も先輩に聴かせられるくらい、上手くなります」


「私が医学部に受かる方が先かもな」


「負けません」


「競うところじゃないだろ」


 二人は並んで音楽室を出た。


 同じ方向へ歩ける時間が、永遠ではないことを由実は知っている。


 それでも今は。


 好きな人のとなりを、歩いていた。

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