エピローグ 赤いテナーと、次の春
春の風が、音楽室のカーテンを大きく膨らませた。
譜面台の上に置かれていた体験用の楽譜が、ぱらぱらとめくれていく。
「あっ、待って」
由実はYanagisawa WO2を首から下げたまま、慌てて楽譜を押さえた。
窓を少しだけ閉める。
暖かくなったとはいえ、吹き込む風にはまだ冷たさが残っていた。
去年の春も、こんな風が吹いていただろうか。
由実はもう、はっきりと思い出せない。
覚えているのは、初めて入った音楽室の広さと、そこで聴いたアルトサックスの音。
そして、楽器を手にした香苗に声をかけられたことだった。
『サックス、興味ないか?』
あれから一年。
由実は二年生になった。
「次、サックスを試してみたい人はいますか?」
真琴の声が、音楽室に響く。
新入生たちは、いくつかの楽器に分かれて体験を続けていた。
フルートの前では、息だけが抜けて音にならず、首をかしげている子がいる。
トランペットからは、短く裏返った音が鳴った。
クラリネットを持った子は、指の穴をすべて押さえるだけでも苦労している。
そのたびに上級生たちが笑わず、ゆっくりと説明していた。
由実も去年は、向こう側にいた。
何を選べばいいのか分からず、少し離れた場所から楽器を眺めていた。
自分に向いているものなど、きっとない。
何かを始めても、どうせ続かない。
そんなふうに思っていた。
「由実、テナーを見たいって」
真琴に呼ばれ、由実は顔を上げた。
一人の新入生が、少し不安そうに立っている。
「あ、はい。どうぞ」
由実はWO2を持ち直した。
「これはテナーサックス。真琴が持ってるアルトより少し大きくて、低い音が出るの」
「重そうですね」
「重いよ」
思わず即答すると、新入生が目を丸くした。
真琴が隣で笑う。
「そこで否定しないんだ」
「だって、本当に重いから」
「でも、由実は毎日持ってるでしょ?」
「慣れたから」
由実はストラップへ指を掛けた。
「最初は重かったけど、持ち方が分かれば少し楽になるよ。首だけで支えないようにするのが大事」
言いながら、自分でも不思議な気持ちになった。
去年、香苗から言われたこと。
自分が何度も失敗して、ようやく分かったこと。
今は、それを別の誰かへ説明している。
「こっちはアルトね。テナーより少し小さくて、吹奏楽でもよく旋律を担当するよ」
真琴が自分の楽器を見せる。
「大きさも音も違うから、持ってみて決めてもいいと思う」
「どっちが簡単ですか?」
新入生が尋ねる。
由実と真琴は顔を見合わせた。
「簡単かどうかは、人によるかな」
真琴が答える。
「最初に音が出やすい楽器と、続けやすい楽器も違うかもしれないし」
「見た目で気に入ることもあるしね」
由実が付け加える。
「先輩は、どうしてテナーにしたんですか?」
「私は……」
答えかけたとき、別の新入生が音楽室の奥へ歩いていくのが見えた。
壁際には、学校備品のケースがいくつも並んでいる。
その一つの前で、新入生が立ち止まった。
「これもサックスですか?」
古いケースだった。
表面には細かな傷があり、金具にも使用された時間が残っている。
由実は、ゆっくりとそちらへ向かった。
「うん。テナーサックス」
「開けてもいいですか?」
「いいよ。私が開けるね」
由実は床へ膝をつき、留め金を外した。
一つ。
二つ。
蓋を持ち上げる。
ケースの中から、赤みを帯びたテナーサックスが姿を現した。
長く使われたキー。
細かな傷。
ところどころ薄くなった表面。
新品の金色の楽器と並べれば、ずいぶん変わった色に見える。
新入生が少し首をかしげた。
「変な色」
由実は、一年前の自分を見ているような気がした。
初めて赤いテナーを見たとき、自分も同じことを思った。
古い。
大きい。
どうしてこんな色をしているのだろう。
アルトを吹きたかった自分へ、人数の都合で渡された余り物。
あの頃は、そう見えていた。
「珍しい色だよね」
由実は、赤いS1 Prestigeのベルへそっと触れた。
「塗ったんですか?」
「ううん。透明なラッカーが掛かっていて、もともとの素材の色が見えてるんだって」
「先輩のも、ちょっと赤いです」
新入生が由実のWO2を指す。
「そうだね。私の楽器も透明なラッカーだから、素材の色が見えてるの」
由実は二本の楽器を見比べた。
WO2の管体には、ブロンズブラス特有の落ち着いた赤みがある。
赤いS1 Prestigeにも、金色とは異なる深い色が残っている。
けれど、二本の赤は同じではない。
材質も。
作られた時代も。
重ねてきた時間も違う。
「同じ赤じゃないんですか?」
「うん。似て見えるけど、同じじゃないよ」
違っていていい。
そのことを、由実はこの一年で知った。
香苗のカイルヴェルトと、自分のWO2。
アルトとテナー。
医師を目指して勉強を続ける香苗と、吹奏楽部に残る由実。
同じものを選ばなくても、互いの音を聴くことはできる。
「これ、吹けますか?」
新入生が赤いテナーを見つめる。
「もちろん」
由実はWO2をスタンドへ置いた。
赤いS1 Prestigeを、両手で慎重にケースから取り出す。
久しぶりに持つと、WO2とは重さの掛かり方が違った。
キーの位置も。
管体の大きさも。
手へ返ってくる感触も違う。
それでも、身体は覚えていた。
この楽器を使っていた頃、何度も構え直した。
重さに負けて姿勢を崩した。
低音が出なくて、息を入れ直した。
失敗して。
また吹いた。
「古いから、少し指が動かしにくいところもあるよ」
「難しいんですか?」
「少しね」
由実は正直に答えた。
「音程も、吹く人が合わせないといけないところがあるし、低い音も簡単には出ない」
「じゃあ、新しい方がいいんですか?」
由実はすぐには答えなかった。
新しい楽器の方が、操作しやすい。
音程も取りやすい。
今の由実にはWO2の方が合っている。
けれど、それは赤いテナーの価値が低いという意味ではなかった。
香苗がこの楽器を吹いたときの音を、今でも覚えている。
太く。
暗く。
深く。
何人もの奏者が息を入れてきた時間が、音の中へ重なっていた。
「新しい方が使いやすいことは多いよ」
由実は言った。
「でも、この楽器には、この楽器にしか出せない音があるの」
「どんな音ですか?」
「吹いてみる?」
新入生が戸惑いながらも頷いた。
由実はストラップを渡す。
首へ掛けてもらい、赤いテナーを持たせる。
楽器の重さが掛かった瞬間、新入生の肩が大きく下がった。
「重いです」
「私も、最初はそう思った」
由実は笑わなかった。
自分が初めて持ったときも、楽器を落としそうになった。
「少し短くしようか」
ストラップの長さを調整する。
「首だけで持とうとしないで、身体の真ん中に楽器が来るようにしてみて」
「こうですか?」
「もう少し右手を下に。そう。左手はこっち」
右手の親指。
左手の位置。
ベルの向き。
楽器を身体へ押し付けすぎないこと。
由実は一つずつ説明した。
香苗が教えてくれた言葉を、そのまま繰り返すのではない。
自分がどこで困ったのか。
何を言われても最初は分からなかったのか。
それを思い出しながら、新入生が理解できる言葉へ変えていく。
「マウスピースは、強く噛みすぎないでね」
「どれくらいくわえるんですか?」
「最初は少しずつで大丈夫。下唇を軽く巻いて……そう」
新入生が、おそるおそるマウスピースをくわえた。
「じゃあ、息を入れてみようか」
新入生が息を吹き込む。
空気の抜ける音だけがして、楽器は鳴らない。
すぐに口を離し、恥ずかしそうに俯いた。
「音が出ませんでした」
「大丈夫」
由実はすぐに答えた。
「私も、最初は出なかったよ」
「先輩も?」
「うん。何回やっても、空気の音しかしなかった」
少し離れた場所で、真琴がこちらを見ていた。
目が合うと、柔らかく笑う。
由実は再び新入生へ向き直った。
「もう一度やってみよう。今度は、音を出そうとしすぎなくていいから」
「音を出さないんですか?」
「楽器の中へ、ずっと息を通すつもりで。途中で止めないでね」
新入生は頷き、もう一度構えた。
息を吸う。
吹き込む。
今度は一瞬だけ、濁った低い音が鳴った。
すぐに途切れる。
新入生は驚いたように目を開いた。
「出ました?」
「出たよ」
「でも、変な音でした」
「最初は汚い音でもいいから」
その言葉が、自然に口から出た。
赤いS1 Prestigeのケースには、整備記録が入っている。
過去の使用者の名前。
調整履歴。
個人楽器を購入し、次の部員へ引き継いだ記録。
由実の使用期間。
地区大会と県大会。
苦手だった低音。
使っていたVandoren V5 T20とBGのリガチャー。
そして、由実が次の奏者へ残した言葉。
『最初は音が出なくても、息を止めないでください』
記録へ書いたときは、まだ誰へ渡すのか分からなかった。
今、その言葉を自分の声で伝えている。
「もう一回、吹いてみてもいいですか?」
「もちろん」
新入生が楽器を構え直す。
今度は先ほどよりも、肩の力が抜けていた。
大きく息を吸う。
吹き込む。
かすれた音が鳴った。
まだ整ってはいない。
音程も安定していない。
少し揺れながら、それでも先ほどより長く、音楽室へ響いていく。
周りでは別の楽器の音も鳴っていた。
高い音。
裏返った音。
空気だけが抜ける音。
その中に、赤いテナーの新しい音が混ざった。
由実は、静かに耳を傾ける。
自分が初めて出した音とは違う。
香苗が出した深い音とも違う。
この新入生の、最初の音だった。
「今の、さっきより長く鳴ったよ」
「本当ですか?」
「うん。ちゃんと息が楽器の中へ入ってた」
新入生が、赤いテナーを見下ろした。
最初に見たときとは、少し違う目をしていた。
「もう一回やってみます」
「うん」
そのとき。
開いた音楽室の扉の向こうを、誰かが通り過ぎた。
参考書を抱えている。
肩には、以前より重そうな鞄。
見慣れた横顔だった。
「あ」
由実が声を漏らすと、香苗が足を止めた。
図書室へ向かう途中らしい。
部活動を辞めてから、香苗が音楽室へ来ることはほとんどなくなった。
けれど、廊下ですれ違うことはある。
短い時間なら、話すこともある。
模試の結果を由実が尋ねると、香苗は嫌そうな顔をする。
たまには一緒に吹いてほしいと頼めば、本当に模試の結果次第で予定を決める。
由実の気持ちは、あの日から消えていない。
香苗の姿を見ると、今でも胸が少し騒がしくなる。
話したい。
最近の勉強のことを聞きたい。
次にいつ一緒に吹けるのか、確かめたい。
香苗が由実へ気付き、軽く手を上げた。
由実も手を振り返す。
それだけだった。
香苗は音楽室の中へ入ってこない。
由実を呼びもしない。
赤いテナーを持つ新入生と、その隣にいる由実を見て、少しだけ目を細めた。
どこか満足そうに。
けれど、いつものように少し偉そうに。
それから再び歩き出す。
由実はその背中を追わなかった。
以前なら、すぐに楽器を誰かへ預けて廊下へ出ていたかもしれない。
香苗が音楽室にいないなら、自分もここにいる意味がないと思ったかもしれない。
今も、会いたい気持ちはある。
けれど、今は新入生の隣にいる。
この子が、もう一度音を出そうとしている。
由実には、今やることがあった。
「先輩?」
新入生に呼ばれ、由実は振り返った。
「ごめん。もう一度やってみようか」
「はい」
由実は赤いテナーの角度を少しだけ直した。
「今度は、もう少し息を続けてみて」
新入生が吹く。
音が鳴る。
まだ不安定で、最後にはかすれて消えた。
それでも、前より長い。
「さっきより良くなった」
「でも、まだ汚いです」
「これから変わるよ」
新入生は、赤い楽器を眺めた。
「先輩も、これを吹いてたんですか?」
「うん」
由実は頷いた。
「これが、私の最初のテナーだった」
視線を上げる。
少し離れたスタンドには、由実のWO2が置かれている。
買ったばかりの頃の光沢は、少しだけ落ち着いていた。
何度も触れたキー。
ケースへ出し入れするとき、いつも手を添える場所。
毎日の手入れと練習によって、少しずつ由実の楽器になっている。
まだ香苗が赤いテナーから出したような、深い音には届かない。
それでも、由実自身の音は確かに育っていた。
赤いS1 Prestigeには、何人もの奏者の音と時間が重なっている。
WO2には、これからも由実の音が積み重なっていく。
どちらか一方だけが、本物なのではない。
赤いテナーがあったから、由実はWO2を選ぶことができた。
香苗と出会ったから、テナーを始めた。
けれど今は、香苗がそばにいない日にも音を出している。
真琴や莉央と合奏を作る。
後輩の指を直す。
自分の音を、自分で探す。
由実は、大会で一番になったわけではない。
特別な才能を得たわけでもない。
香苗と恋人になったわけでもない。
それでも。
自分で選んだ楽器がある。
続けたいと思える音楽がある。
失敗しても、次に吹く方法を知っている。
そして今は、その経験を誰かへ渡すことができる。
新入生が、赤いテナーを持ち直した。
「これ、私にも吹けますか?」
由実はS1 Prestigeへ目を向けた。
古い楽器。
扱いにくいところもある。
低音は簡単に出ない。
キーにも音程にも癖がある。
けれど、この楽器は由実を最初の音へ連れていってくれた。
最初の合奏へ。
最初の舞台へ。
結果へ届いた日も。
届かなかった日も。
何度も由実の息を受け止めてくれた。
赤いテナーは、誰にも選ばれなかった余り物ではない。
まだ自分の楽器を持たない誰かを、音楽の中へ連れていくために残されてきた楽器だった。
由実は新入生の隣へ座り直した。
ストラップの長さを、ほんの少しだけ調整する。
それから、笑った。
「古いけど、いい音がするよ。吹いてみる?」




