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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
SS 先輩と、もう一度となりで

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SS 第1話 先輩が医者になる春

 香苗先輩から届いたメッセージは、たった一行だった。


『受かった』


 由実は、その二文字を三度読み返した。


 意味は分かる。


 けれど、頭が理解するより先に、指が動いていた。


 通話ボタンを押す。


 呼び出し音は一度で途切れた。


「もしもし」


「先輩」


「何だよ」


「受かったって」


「ああ」


「医学部に?」


「それ以外に何があるんだよ」


「本当に?」


「嘘をついてどうする」


「番号、間違えてませんか?」


「五回確認した」


「合格通知は?」


「画面に出てる」


「違う人の画面じゃないですか?」


「私の端末だよ」


 香苗の声は、いつもと変わらないように聞こえた。


 けれど、言葉が少しだけ早い。


 息も落ち着いていない。


「先輩、今どこですか?」


「家」


「行きます」


「は?」


「今から行きます」


「待て。電話でいいだろ」


「よくないです」


「何でだよ」


「分かりません。でも、行きます」


「お前な……」


「切りますね」


「勝手に――」


 由実は通話を切った。


 机の横へ立てかけていたWO2のケースを見て、今日は必要ないと気付く。


 それでも一瞬、持っていこうか迷った。


 香苗に聞いてほしい音は、いくらでもあった。


 けれど今日は、サックスより先に伝えたいことがある。


 由実は上着をつかみ、家を飛び出した。


 ◇


 香苗の家の前へ着いた頃には、息が切れていた。


 インターホンを押す。


 少しして、玄関の扉が開いた。


「本当に来たのか」


 香苗は呆れた顔をしていた。


 けれど、その手にはスマートフォンが握られている。


 画面には、合格者番号の一覧が表示されたままだった。


「見せてください」


「外で?」


「早く」


「分かったから入れ」


 玄関へ上がるなり、由実はスマートフォンを受け取った。


 画面上の番号を見る。


 香苗の受験票に書かれていた番号は、以前見せてもらって覚えていた。


 同じ数字がある。


 何度見てもある。


「本当に、受かったんですよね?」


「何回見ても、私の番号だ」


 香苗がそう答えた瞬間。


 由実の視界が、急ににじんだ。


「おい」


「よかった……」


「何でお前が先に泣くんだよ」


「だって」


 声がうまく出ない。


 退部すると聞いた日のこと。


 医師になりたいと話してくれた放課後。


 週二日の練習へ来るたび、参考書の入った重い鞄を持っていたこと。


 定期演奏会が終わってからも、図書室へ向かう香苗を何度も見た。


 模試の結果が悪かった日には、少しだけ機嫌が悪かった。


 良かった日には、何も言わないくせに、いつもより歩くのが速かった。


 すべてが一気によみがえった。


「先輩が、ずっと頑張ってたの、知ってますから」


「お前が泣くことじゃないだろ」


「先輩は泣かないんですか」


「泣くわけ――」


 香苗の声が止まった。


 目元を隠すように顔をそらす。


 それでも、一滴だけ頬を伝った。


「泣いてます」


「うるさい」


「先輩も泣いてます」


「見るな」


「無理です」


「橋本」


「由実です」


「今それを言うか?」


 由実は泣きながら笑った。


 次の瞬間、どちらからともなく距離が縮まった。


 由実は香苗の肩へ腕を回す。


 香苗も、一瞬だけ戸惑ったあと、由実の背中へ手を置いた。


 抱き合ったのは、定期演奏会のあとにもなかったことだった。


 胸が触れるほど近い。


 香苗の体温も、乱れた呼吸も分かる。


 けれど今は、恋だとか、好きだとかを考える余裕はなかった。


 ただ、報われた。


 香苗が、大切なものから離れてまで進もうとした道が、ようやく次へつながった。


「おめでとうございます」


「……ありがとう」


「本当に、おめでとうございます」


「一回で分かる」


「何回でも言います」


「うるさい」


 香苗の声も、少し震えていた。


 二人はしばらく離れなかった。


 ◇


 泣き止んだあと、由実は香苗の部屋で温かい紅茶を出してもらった。


 香苗は先ほどまで開いていた合格発表の画面を閉じたものの、数分おきにまた確認している。


「まだ見るんですか?」


「念のため」


「さっき五回見たって言ってましたよね」


「あれから増えた」


「何回ですか?」


「数えてない」


「先輩、落ち着いてないですね」


「お前に言われたくない」


 由実は紅茶へ口を付けた。


 少し熱い。


 それでも、胸の中に残っていた緊張が、ようやく溶けていく。


「春から大学生ですね」


「ああ」


「医学部」


「まだ実感ないけどな」


「白衣、似合いそうです」


「入学してすぐ着るわけじゃないだろ」


「聴診器も」


「だから早い」


「先輩なら、怖がってる患者さんにも厳しそうです」


「何だそれ」


「でも、ちゃんと最後まで話を聞いてくれそうです」


 香苗が黙る。


 少し照れたように、紅茶のカップへ目を落とした。


「……そうなれたらいいけどな」


「なれますよ」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないのは知ってます。でも、先輩ならなれます」


 香苗は何も答えず、カップを持ち上げた。


 耳が少し赤い。


 由実は、それを指摘しないことにした。


「お前はどうなんだ?」


「私ですか?」


「部活。もうすぐ三年だろ」


「ちゃんとやってますよ」


「ちゃんとの基準が信用できない」


「失礼です」


「後輩は?」


「教えてます。真琴と莉央先輩と分担してますけど」


「低音、まだひっくり返るか?」


「ほとんどありません」


「音程は?」


「前より安定してます」


「WO2は?」


「使いこなせてます」


 由実は少し胸を張った。


 以前なら、香苗に褒めてもらえるか気にしていた。


 今も褒められたい気持ちはある。


 けれど、自分で言えるだけの自信もあった。


「そうか」


 香苗が小さく頷く。


「なら、今度聞かせろ」


「はい」


「録音じゃなくてな」


「分かってます」


 由実は笑った。


 そして、少し迷ってから続ける。


「ただ、最近ちょっと困ってることがあって」


「何だ?」


「マウスピースです」


「……またか」


「またって何ですか」


「お前、前にも散々悩んでただろ」


「今回は買い替えです。今のT20、かなり擦れてきてて」


「どこが?」


「ビークのところと、表面も少し」


「歯当て貼ってないのか?」


「貼ってます。でも、長く使ってるので」


「なら同じものを買えばいいだろ」


「そう思ったんですけど」


 由実は一度言葉を切った。


 香苗の目が細くなる。


「何本吹いた?」


「そんなに多くないです」


「具体的に」


「セルマーと、バンドレンと、ダダリオと、オットーリンク」


「多いだろ」


「四社だけです」


「モデルは?」


「いくつか」


「何個だ」


「数えてません」


「お前な」


「でも、音色を良くしたいんです」


「リードは?」


「いろいろ試してます」


「何を?」


「トラディショナル、V16、V21、リコ、リコ・ロイヤル、ラ・ヴォーズ」


 香苗は額へ手を当てた。


「お前、試しすぎだろ」


「箱で買うと高いから、ばら売りで少しずつ買ってるんです」


「節約の話じゃない」


「ちゃんと比べてますよ」


「マウスピースを変えて、リードも変えてるのか?」


「はい」


「それで何が良かった?」


「日によって違います」


「だろうな」


「何で分かるんですか」


「変えるたびに基準まで変わったら、何を比べてるのか分からなくなる」


 由実は言葉に詰まった。


 確かに。


 明るい音が出たと思えば、別の日には薄く聞こえた。


 吹きやすいと思った組み合わせが、次に吹くと息を取られた。


 マウスピースが悪いのか。


 リードが悪いのか。


 自分の調子が悪いのか。


 途中から、何を探しているのかさえ分からなくなっていた。


「でも、今よりいい音にしたくて」


「それは分かる」


「先輩なら、何を選びますか?」


 昔なら、香苗の答えをそのまま選んでいた。


 けれど今は違う。


「私は、もう少し芯があって、遠くまで届く音にしたいです。でも、硬すぎる音は嫌です。今のT20の吹きやすさは好きです」


 由実は、自分の感覚を言葉にする。


 香苗は少し驚いたように見えた。


 それから、口元を緩める。


「ちゃんと考えてるじゃん」


「当然です」


「なら、なおさら一度整理した方がいいな」


「整理?」


「まずリードを固定する。今まで使ってたのは?」


「トラディショナルの二半です」


「なら、それを基準にしろ」


「でも、V16も良かった気がして」


「だから増やすな」


「はい……」


 香苗は少し考え、机の上へ指を置いた。


「受験も終わったし、今度付き合う」


「本当ですか?」


「私もマウスピースを見たい」


「先輩も?」


「ああ。大学では、吹奏楽じゃなくてジャズもやってみたい」


 由実は目を瞬いた。


「ジャズ?」


「悪いか」


「意外です」


「父さんに少し教わるつもりだ。メイヤーの5MMを試してみたい」


「サックス、続けるんですね」


「辞めるなんて言ってないだろ」


「でも、医学部って忙しいから」


「忙しくても、全部捨てる必要はない」


 香苗はそう言って、少しだけ笑った。


 由実の胸が温かくなる。


 定期演奏会の日。


『部活は辞めるけど、サックスを辞めるわけじゃない』


 あの言葉は、約束ではなかったのかもしれない。


 それでも香苗は、今も楽器を手放していない。


「じゃあ、一緒に行きましょう」


「ああ」


「前の楽器店ですよね」


「他にどこがある」


「店主さん、覚えてますかね」


「お前は目立ってたから覚えてるだろ」


「何でですか」


「何本吹いても決められなかった」


「先輩もずっと説明してたじゃないですか」


「必要な説明だ」


「今回も止まらなくなりそうですね」


「お前が変な選び方をしなければな」


 香苗が紅茶を飲む。


 由実もカップを持ち上げた。


 窓の外には、春を待つ薄い光が差していた。


 香苗は医師になるための道へ進む。


 由実はWO2と一緒に、次の一年を吹く。


 同じ部にはいない。


 同じ進路でもない。


 それでも、また一緒に楽器を選びに行ける。


「先輩」


「何だ?」


「今日は、本当におめでとうございます」


「また言うのか」


「何回でも言います」


「分かったよ」


 香苗は呆れたように答えた。


 けれど、その顔は嬉しそうだった。


「それと」


「まだあるのか?」


「楽器店、いつ行きます?」


「合格した日に予定を詰めるな」


「早く行きたいです」


「お前のマウスピースは逃げない」


「いいリードは逃げます」


「どういう意味だよ」


「同じ箱でも当たり外れがありますから」


「余計なことだけ詳しくなったな」


「先輩に育てられました」


「私のせいにするな」


 由実は笑う。


 香苗も、少し遅れて笑った。


 先輩が医者になる春は、まだ始まったばかりだった。

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