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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
SS 先輩と、もう一度となりで

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41/41

SS 第2話 同じ傘の下

 楽器店の扉を開けた瞬間、由実は懐かしい匂いを感じた。


 金属とコルク。


 新しいケースの布。


 棚に並んだリードの箱と、長く使われてきた楽器に染み込んだ油。


 初めてマウスピースを選んだ日も。


 何本ものテナーサックスを吹き比べ、WO2を選んだ日も。


 由実は、この店で自分の音を探した。


「いらっしゃいませ」


 以前も対応してくれた店員が、カウンターの向こうから顔を上げた。


 由実の肩に掛けられたケースを見て、すぐに笑う。


「ああ、あのときのWO2ですね」


「覚えてるんですか?」


「何本も試奏しましたからね。それに、あの赤いテナーの話も印象に残っています」


 由実は少し照れながら、ケースを試奏室の台へ置いた。


 今日は香苗も一緒だった。


 香苗は黒いアルトサックスのケースを運びながら、店内の棚を忙しなく見回している。


 マウスピース。


 リガチャー。


 リード。


 教則本。


 新しく入荷したサックス。


 受験勉強から解放されたばかりとは思えないほど、目が生き生きとしていた。


「店長」


 店員が、奥の作業場へ声をかける。


「以前お話しした、赤いビュッフェを使っていたお客さんです」


 作業場のカーテンが開いた。


 白髪の老人が、眼鏡を額へ上げながら出てくる。


 小柄だが、背筋はまっすぐ伸びている。


 エプロンの胸元には、小さな工具が何本も差されていた。


「ほう」


 店主は由実より先に、ケースへ目を向けた。


「これが、選んだというWO2かね」


「はい」


「少し見せてもらっても?」


 由実がケースを開けると、店主は楽器へ直接触れる前に、手袋ではなく丁寧に手を拭いた。


 ベル。


 キー。


 ネックの接合部。


 タンポの状態。


 一つずつ眺め、軽くキーを押す。


「大事に使っているね」


「毎日吹いてます」


「それが一番だ」


 店主は楽器を由実へ返した。


「いい音になってきただろう。WO2も、いい楽器だ」


「分かるんですか?」


「楽器を見れば、ある程度はね。飾ってある楽器と、吹かれている楽器では顔が違う」


 由実は自分のWO2を見下ろした。


 新品だった頃より、管体の光沢は少し落ち着いている。


 よく触れるキーには細かな跡が残り、親指を置く場所にも、自分だけが分かる変化があった。


「一度、音を聞かせてもらおうか」


 由実はストラップを掛けた。


 使い慣れたVandoren V5 T20へ、いつものリードを取り付ける。


 軽くロングトーンを吹き、低音から高音までゆっくり上がった。


 以前なら、店員や香苗に聞かれているだけで息が固くなった。


 今は、緊張していても音を支えられる。


 低い音を無理に押し出さず、息の流れを切らさない。


 店主は最後まで黙って聞いていた。


「うん。楽器に吹かされてはいない」


「どういう意味ですか?」


「昔より、自分で音を決めているということだよ」


 その言葉が、由実には嬉しかった。


 隣を見ると、香苗も小さく頷いている。


「ちゃんと上手くなってるだろ」


「先輩には、まだあまり褒めてもらってません」


「前より上手くなったとは言った」


「もっと具体的にお願いします」


「面倒くさい後輩になったな」


「先輩が育てたんです」


 店主が穏やかに笑った。


「なるほど。いい先生だったんだね」


「先生ではありません」


 香苗がすぐに否定する。


「先輩です」


 由実も言った。


 店主は二人を交互に見たが、それ以上は何も言わなかった。


「そういえば」


 店主は、由実のWO2から視線を外した。


「赤いテナーは、今日は持ってきていないのかね」


「あれは学校の備品なので」


「もう一度見てみたかったな」


 店主は残念そうに顎へ手を添えた。


「父に話したら、ずいぶん興味を持っていてね。Buffet CramponのS1 Prestigeだったか」


「父?」


「私より、さらに古い時代の楽器に詳しいんだ」


「店主さんのお父さんって……」


「まだ元気だよ。口も耳も達者だ」


 由実は少し驚いた。


 店主は楽しそうに続ける。


「ビュッフェのサックスは、今の学生にはあまり馴染みがないかもしれないが、昔は名のある奏者が使っていた。フランスのサックスには、セルマーだけではない系譜があってね」


「そうなんです」


 香苗が即座に反応した。


「ビュッフェはクラリネットの印象が強いですけど、サックスも独自の設計があって――」


「そうそう。特に当時は、奏者がどの楽器を選ぶかで周囲の見る目まで変わるような時代があった」


「デファイエの影響も大きかったって父が言ってました」


「お父さん、そこまで話すのかね」


「止まりません」


「いいお父さんじゃないか」


「始まった……」


 由実は小さく呟いた。


 香苗と店主は、すでに由実が入れない場所まで進んでいる。


 フランスの奏者。


 昔のメーカー。


 設計思想。


 楽器の選択が変化した時代。


 知っている単語もある。


 けれど、つながらない。


 由実が黙って二人を見比べていると、香苗がようやく気付いた。


「あ」


「ついていけません」


「ごめんごめん」


「先輩、受験が終わった途端に戻りましたね」


「何が?」


「サックスの話になると止まらないところです」


「我慢してたんだよ」


「我慢できてたんですね」


「失礼だな」


 店主がまた笑った。


「では今日は、その後輩のマウスピース選びだったね」


「はい」


 香苗の表情が、少しだけ真剣になる。


「ただ、この子、試しすぎなんです」


「先輩、言い方」


「本当だろ。セルマー、バンドレン、ダダリオ、オットーリンク。リードもトラディショナル、V16、V21、リコ、リコ・ロイヤル、ラ・ヴォーズ」


 店主が目を丸くした。


「それは、ずいぶん旅をしたね」


「箱で買うと高いので、ばら売りを利用してます」


「節約の方向は正しいが、試す量が正しくない」


「店主さんまで……」


「若い奏者は一度くらい、道具の迷路へ入るものだよ」


 由実は少しだけ安心した。


「みんな通るんですか?」


「全員ではない。入ったまま何年も出てこない人もいる」


「怖いことを言わないでください」


「だから、先に出口を作る」


 香苗が、由実のリードケースを開いた。


「まず、比較する基準を一つにする」


「基準」


「今まで長く使ってきたのは?」


「バンドレンのトラディショナル、二半です」


「なら、それを使う」


「V16とかV21は?」


「今日は使わない」


「でも、音が違うかもしれません」


「違うから使わないんだよ」


 由実は首を傾げた。


 香苗は、テーブルへ並んだマウスピースを一本取り上げる。


「マウスピースは、チャンバーの広さや形、ビークの高さ、フェイシングで吹いた感じや音の傾向が変わる」


「はい」


「リードも、厚みや削り方、振動の仕方が違う」


「はい」


「両方を同時に変えたら、どっちの違いを聞いてるのか分からなくなるだろ」


「……なるほど」


「やっと分かったか」


「最初から、それだけ言ってください」


「理由を説明してるんだよ」


「先輩は理由から入るから長いんです」


「理由が大事なんだ」


 香苗は納得していない顔のまま、Traditionalの箱へ手を伸ばした。


「トラディショナルって、伝統的って意味だろ。昔から基準にしやすい設計なんだと思う」


「思う?」


「商品名の由来までメーカーに聞いたわけじゃない」


「急に慎重ですね」


「分からないことを断定するなって、お父さんに言われるから」


 店主が頷く。


「いい教えだ」


 香苗は新しいリードを数枚出した。


「同じ箱の同じ硬さでも、一本ずつ違う。だから何枚か状態を見て、なるべく条件をそろえる」


「今まで使ってたリードじゃ駄目なんですか?」


「駄目とは言わない。でも、前のマウスピースや由実の吹き方へ馴染んでいる可能性がある。正しく比べたいなら、新しい方がいい」


「リードって、そんなに影響するんですか?」


「する。馬鹿にできない。マウスピース以上に音色へ関わることだってあるって、お父さんが言ってた」


「またお父さん」


「詳しいんだから仕方ないだろ」


 香苗はさらに続ける。


「マウスピースとリードには相性がある。硬さだけじゃなくて、フェイシングカーブや、リードがマウスピースから離れ始める位置――ブレークポイントによって、振動する長さが」


「先輩」


「何だ?」


「もう少し簡単にお願いします」


 香苗は不満そうに口を閉じた。


「同じ二半でも、全部のマウスピースへ同じように合うわけじゃない」


「最初からそれだけ言ってください」


「今、説明しただろ」


「説明の途中で迷子になりました」


 店主が肩を揺らして笑っている。


 由実は少し恥ずかしくなったが、以前のマウスピース選びを思い出して、同時に懐かしくなった。


 あの頃も、香苗は説明を始めると止まらなかった。


 由実は何も分からず、ただ頷いていた。


 今は違う。


 分からなければ、分からないと言える。


 自分が何を試したいのかも、少しずつ言葉にできる。


 ◇


 由実は、状態をそろえたTraditional 2½を使い、候補を順番に吹いた。


 セルマー。


 音がまとまりやすい。


 息を入れた分だけ、輪郭が整って返ってくる。


 ダダリオ。


 反応が少し違う。


 音の始まりが速く感じる一方で、由実が慣れている抵抗とは異なった。


 オットーリンク。


 響きの方向が明らかに違う。


 悪くはない。


 むしろ、吹いていて面白い。


 けれど、今までWO2で作ってきた音から、大きく離れる気がした。


 一本吹くたびに、由実は短い言葉で感覚を伝えた。


「これは、少し前へ出すぎる気がします」


「高音は?」


「出しやすいです。でも、弱く吹いたときが少し怖いです」


「さっきより説明できるようになったな」


 香苗が言った。


「毎日吹いてますから」


「昔は全部『分かりません』だった」


「先輩の説明が難しかったんです」


「人のせいにするな」


 最後に、新品のVandoren V5 T20が出された。


 見慣れた形。


 見慣れた文字。


 由実は新しいTraditional 2½を取り付け、WO2へ差し込む。


 息を入れた瞬間、身体が先に分かった。


 慣れた抵抗。


 弱い息でも、音の始まりが崩れない。


 低音へ下りても、無理に押し込む必要がない。


 息を深く支えれば、音の中心が自然に太くなる。


 変わったという驚きはない。


 けれど、迷いが消えた。


 由実は短い曲を吹き終え、楽器を下ろした。


「これです」


「即答だな」


「はい」


 香苗が少し笑う。


「結局、戻ってきたな」


「戻ったんじゃありません」


「じゃあ何だよ」


「選び直したんです」


 香苗は一瞬黙り、やがて頷いた。


「そうだな」


 昔から使っていたから選ぶのではない。


 香苗が勧めたからでもない。


 いくつもの候補を吹き、自分が作りたい音と比べた。


 その結果、もう一度T20を選んだ。


 WO2を選んだときと同じだった。


 違うものを試したからこそ、自分に必要なものが分かった。


「前のT20も、見せてもらえるかな」


 店主が言った。


 由実は、長く使ってきたマウスピースを手渡す。


 店主は強い照明の下へ持っていき、テーブルとレールを確認した。


 小さな定規のような器具や、薄い板を何枚か取り出す。


 香苗が興味深そうに近づいた。


「測るんですか?」


「フェイシングとテーブルの状態を見る。ずいぶん吹き込んでいるからね」


「壊れてますか?」


 由実が不安になって尋ねる。


「壊れてはいない。ただ、擦れとわずかな歪みがある。新品と吹き比べれば、反応の差が出ても不思議ではないよ」


「直せるんですか?」


「完全に新品へ戻すわけではない。形を大きく変えれば、別のマウスピースになってしまう」


 店主は由実を見る。


「少しだけ整えてみようか。失敗すれば元へ戻せない作業だから、本来は簡単に勧めるものではないが、この程度なら最小限で済む」


 由実は迷ってから、香苗を見た。


「私を見るな」


「詳しい人に確認しようと思って」


「店主さんの方が詳しい」


「それもそうですね」


「ひどくないか?」


 店主は笑いながら、作業台へ戻った。


 マウスピースの寸法を何度も確認する。


 細かな印をつけ、平面を崩さないよう、極めて薄い研磨材で表面を整える。


 由実が想像していた、紙やすりで適当に削る作業とはまるで違った。


 削っているというより、狂った部分だけを慎重に戻している。


 途中で何度も手を止め、測り直す。


「楽器より小さいのに、大変なんですね」


「小さいからこそだよ。ほんの少しで変わる」


 最後に店主は表面を確認し、丁寧に洗浄した。


「応急処置に近い。主役へ戻す必要はないが、捨てるには惜しい」


 古いT20を由実へ返す。


「予備として持っておきなさい。合宿や本番で何かあったとき、使い慣れたものが一本あると助かる」


 由実は新しいリードを付け、古いT20をもう一度吹いた。


 息を入れる。


 さっきまで少し鈍かった音の立ち上がりが、明らかに戻っている。


「鳴ります」


「新品と同じではないよ」


「でも、前より吹きやすいです」


「長く使ってきた道具には、代わりのない価値もある。新しい方を普段使いにして、これは予備にするといい」


 由実は二本のT20を並べた。


 同じ型番。


 けれど、一方には一年以上の時間が積み重なっている。


 新しいものを選ぶことと、古いものを捨てないことは、両立する。


「ありがとうございます」


「まだ使えるものを生かしただけだよ」


 ◇


 次は香苗の番だった。


 ケースから取り出されたカイルヴェルトのアルトへ、Meyer 5MMが取り付けられる。


 香苗は何度か息を入れ、位置を微調整した。


「吹奏楽のときとは、違う吹き方をするんですか?」


「まだ分からない。大学へ入ってから、ちゃんと習う」


「お父さんに?」


「うん。ジャズはほとんど吹いたことないから」


 香苗が最初の音を出した。


 由実は目を見開く。


 いつもの香苗の音より、明るい。


 輪郭がぱりっと立ち、音が前へ飛んでくる。


 強いだけではない。


 軽さがあり、少し弾むような響きがあった。


「すごい」


 香苗が短いフレーズを吹き終える。


「何が?」


「先輩の音なのに、いつもより明るいです」


「マウスピースだけじゃない」


「違うんですか?」


「吹き方も変えてる」


「そんなにすぐ変えられるんですか?」


「少しだけな」


 香苗はもう一度吹いた。


 今度は、由実が知っている吹奏楽の音へ近い。


 同じマウスピースでも、息の当て方や口の形で印象が変わる。


「相変わらず上手いです」


「由実も吹いてみる?」


「え?」


 香苗が、Meyerを付けたままアルトを差し出した。


「吹きたいんだろ」


「吹きたいですけど……」


 由実はマウスピースを見た。


 今、香苗が口を付けていた。


 当然、試奏なのだから拭けばいい。


 以前も、香苗は由実のマウスピースを使って赤いテナーや候補楽器を吹いた。


 何も特別なことではない。


 それなのに。


 定期演奏会の日、自分の気持ちへ気付いてしまってからは、同じことではなかった。


「どうした?」


「何でもありません」


「変なやつ」


 香苗はマウスピースを丁寧に拭き、由実へ渡した。


 拭かれている。


 分かっている。


 それでも、意識してしまう。


(顔、赤くなってないかな)


 由実はアルトを受け取った。


 テナーより小さい。


 手の位置も、息の入り方も違う。


 香苗に見られていることまで気になり、余計に緊張する。


「力むなよ」


「分かってます」


「分かってる顔じゃない」


「先輩が見てるからです」


「試奏なんだから見るだろ」


 由実はマウスピースをくわえた。


 息を入れる。


 スパーン、と予想以上に鋭い音が飛び出した。


「わっ」


 驚いて息を止め、音がひっくり返る。


 香苗が吹き出した。


「何ですか、その反応」


「いや。お前、すごい顔してたから」


「思ったより鳴ったんです」


「さっき私が吹いただろ」


「自分で吹くのとは違います」


 もう一度構える。


 今度は息を入れすぎないようにする。


 それでもT20とは反応がまるで違った。


 音がすぐ前へ出る。


 少し気を抜くと、由実の意思より先に鳴るような感覚がある。


「面白いです」


「テナーで使うなよ」


「使いません」


「由実なら試しかねない」


「もう迷走は終わりました」


「本当に?」


「たぶん」


「まだ危ないな」


 由実はアルトを返した。


 香苗は何気ない顔で受け取ったが、マウスピースへ口を付ける前、一瞬だけ手が止まった。


 それから、由実がしたように丁寧に拭く。


 耳が少し赤い。


 試奏室が暑いだけかもしれない。


 さっきまで何本も吹いていたからかもしれない。


 けれど。


(先輩も、少しは意識してるのかな)


 そう思っただけで、胸が騒がしくなった。


「今度は、私が吹く」


 香苗が由実のWO2を見た。


「え?」


「新しいT20。どんな感じか聞きたいだろ」


「聞きたいです」


 由実はWO2を香苗へ渡した。


 以前、香苗が赤いS1 Prestigeを吹いたとき。


 購入前の候補楽器を吹いたとき。


 由実はただ、上手いと思って聞いていた。


 今のWO2は、あの頃の候補楽器ではない。


 由実が一年以上吹き続けた楽器だった。


 息の入りやすい場所。


 指が自然に動くキー。


 何度も調整し、練習し、失敗しながら育ててきた音。


 香苗が新しいT20へリードを取り付ける。


 今度は、香苗も少しだけマウスピースを意識しているように見えた。


 由実が使ったあとだから。


 そんなふうに思うのは、自分に都合がよすぎるだろうか。


 香苗が息を入れた。


 WO2が鳴る。


 太く、迷いのない音。


 低音は深く、音の始まりがはっきりしている。


 相変わらず上手い。


 同じ楽器なのに、由実の音とは違った。


 香苗が吹けば、香苗の音になる。


 由実が吹けば、由実の音になる。


 以前なら、その違いに落ち込んでいたかもしれない。


 今は、自分の音が香苗とは違うことを、はっきり聞き分けられる。


 それが嬉しかった。


 香苗が楽器を下ろす。


「いいな」


「WO2ですか?」


「それもあるけど」


 香苗は少し考えた。


「由実の楽器になってる」


 その一言で、胸が温かくなった。


「先輩が吹いたら、先輩の音でした」


「当たり前だろ」


「でも、私が吹いたときの音も分かります」


「なら、もう十分自分の音を持ってる」


 香苗はマウスピースを拭いて、WO2を返した。


 やはり耳が少し赤い。


 由実は気付かないふりをした。


「そういえば」


「何だ?」


「退部してから、一緒に吹くの初めてですね」


 香苗の手が止まった。


「……そうだったな」


 定期演奏会以来。


 同じ学校には通っていた。


 廊下ですれ違うこともあった。


 図書室へ向かう香苗へ手を振ることもあった。


 けれど、二人で楽器を持ち、同じ音を鳴らすことはなかった。


「少しだけ、合わせませんか?」


「何を?」


「何でもいいです」


「一番困る注文だな」


「先輩ならできます」


「便利に使うな」


 店主から短い楽譜を借り、二人は並んだ。


 香苗のアルトにはMeyer 5MM。


 由実のWO2には、新しいV5 T20。


 定期演奏会で吹いた曲ではない。


 練習したこともない短いフレーズ。


 香苗が目で合図する。


 由実が頷く。


 二人は息を吸った。


 香苗の音は、以前より明るい。


 これから始めるジャズへ、少しだけ身体を向けている。


 由実の音は、あの日より安定している。


 香苗の後ろを追わず、同じ速さで隣を進む。


 短い演奏だった。


 それでも、定期演奏会の続きを吹いたようには感じなかった。


 あの日とは違う二人が、新しい音を始めた。


 最後の音を終える。


 由実と香苗は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。


「また吹けましたね」


「ああ」


「次はいつですか?」


「もう次の話かよ」


「だって、大学に行ったら忙しくなるでしょう」


「由実も三年生になるだろ」


「だから、今のうちに予定を」


「まず受験科目を決めろ」


「急に現実へ戻さないでください」


 ◇


 店を出ると、雨が降っていた。


 店へ入る前には曇っていただけだった空から、細かな雨粒が落ちている。


「傘、持ってるか?」


 香苗が尋ねる。


「持ってません」


「天気予報を見ろ」


「朝は降ってませんでした」


「午後から雨だった」


「先輩は持ってるんですか?」


 香苗は鞄から折り畳み傘を取り出した。


「受験生は天気予報も確認するんですか?」


「関係ないだろ」


 傘が開く。


 二人で入れないほど小さくはない。


 けれど、由実も香苗も片手に楽器ケースを持っている。


 普通に並ぶと、どちらかのケースが傘の外へ出る。


「先輩、肩が濡れてます」


「身体は乾く」


「楽器ケースは?」


「濡らしたくない」


「ケース越しでも?」


「ケース越しでもだよ」


 香苗は、自分の肩より由実のWO2が傘へ収まる位置を優先した。


「先輩のアルトも出てます」


「もう少し寄れ」


「これ以上ですか?」


「楽器が濡れるよりいいだろ」


 由実は香苗へ近づいた。


 肩が触れる。


 腕も触れる。


 楽器店で互いのマウスピースを使ったことを、また思い出してしまう。


 香苗の耳が赤かったことも。


 二人は歩き始めた。


 香苗は右手で傘を持ち、左手でアルトのケースを提げている。


 由実もWO2のケースを持っているため、傘を交代するのは難しい。


 風が吹くたび、折り畳み傘がわずかに揺れた。


「持つの、大変ですよね」


「大丈夫だ」


「でも、傾いてます」


「お前が外へ逃げるからだろ」


「近すぎる気がして」


「今さら何言ってるんだ」


 今さら。


 その言葉に、由実の心臓が跳ねた。


 香苗は楽器のことを言っただけだろう。


 二人で傘へ入るためには、近づくしかない。


 それだけだ。


 由実は空いている手を上げた。


「一緒に持ちます」


「ケースは?」


「左手で持てます」


 香苗の手の上から、傘の柄へ指を重ねた。


 触れた瞬間、二人の足がわずかに遅くなる。


 香苗の手は、思っていたより温かい。


 指先が触れている。


 傘を支えるだけなら、別の場所を握ればよかった。


 香苗の手へ重ねる必要はなかった。


 由実も分かっている。


 きっと、香苗も分かっている。


「あ……」


 由実は手を離そうとした。


 けれど、その前に香苗の指へ少し力が入った。


 傘の柄を安定させるためかもしれない。


 由実の手がずれないようにしただけかもしれない。


 香苗は何も言わなかった。


 離せとも言わなかった。


 由実も、そのまま歩いた。


 雨が傘を細かく叩く。


 肩が触れている。


 歩幅をそろえなければ、楽器ケースがぶつかる。


 香苗が少し速く歩けば、由実も速くなる。


 由実が水たまりを避ければ、香苗も傘を傾ける。


 手は重なったままだった。


「先輩」


「何だ?」


「今日、新しいマウスピースを選べてよかったです」


「迷走が終わってよかったな」


「まだ予備もあります」


「店主さんに感謝しろ」


「してます」


「古い方も、ちゃんと保管しろよ」


「はい」


 少し間が空く。


「先輩も、Meyerに決めるんですか?」


「たぶん。もう少しお父さんにも聞く」


「また長い説明になりそうですね」


「由実も一緒に聞くか?」


「途中で分からなくなります」


「勉強しろ」


「医学部に受かった人は言うことが違いますね」


「関係ない」


 香苗はそう言ったが、少しだけ笑っていた。


「大学でも、本当にサックスを続けるんですよね」


「続けるよ」


「忙しくても?」


「毎日は無理かもしれない。でも、辞めるつもりはない」


「よかった」


「何で由実が安心するんだ」


「先輩の音が好きだからです」


 言ってから、由実は自分の口を閉じた。


 定期演奏会の日と同じ言葉。


 けれど今は、手が触れている。


 あのときより、ずっと近い。


 香苗はすぐには返事をしなかった。


 傘を打つ雨音だけが続く。


「……由実」


「はい」


「そういうの、急に言うな」


「すみません」


「謝るな」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


「知らない」


「先輩、ずるいです」


「由実が勝手に言ったんだろ」


 香苗は前を向いている。


 横顔しか見えない。


 それでも、耳がまた少し赤い。


 由実は、それを雨のせいにはできない気がした。


 手を重ねたまま、二人は駅へ向かう。


 恋人ではない。


 定期演奏会の日に伝えた気持ちへ、明確な返事をもらったわけでもない。


 香苗はこれから大学へ進む。


 由実は高校三年生になる。


 別々の場所で、それぞれの音を続ける。


 けれど、ただの先輩と後輩だった頃より、距離は少しだけ近くなっていた。


「先輩」


「今度は何だ?」


「傘、もう少しこっちです」


「お前が寄れ」


「これ以上寄ったら、歩きにくいです」


「じゃあ我慢しろ」


「先輩も濡れてます」


「楽器は濡れてない」


「先輩も大事です」


 香苗が黙った。


 重ねた手に、もう一度わずかに力が入る。


「……そういうのも、急に言うな」


「本当のことです」


「知ってる」


 由実は顔を上げた。


 香苗は前を向いたままだった。


 聞き返すことはできなかった。


 けれど、手を離すこともしなかった。


 二人は楽器を雨から守りながら、同じ傘の下を歩いていく。


 違うマウスピース。


 違う楽器。


 これから進む、違う場所。


 それでも今は。


 二人の手は、一つの傘を支えていた。

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