第7話 赤いテナー
黒いケースの蓋が、ゆっくりと持ち上がった。
由実は、中に収められた楽器を見て言葉を失った。
サックスは金色だと思っていた。
香苗のアルトも、仮入部で触れた楽器も、照明を映して明るく輝いていた。
けれど、目の前のテナーサックスは違う。
深い赤色をしていた。
鮮やかな赤ではない。
暗い場所では茶色にも見える、落ち着いた赤だった。表面には細かな傷が走り、管へ手を添える辺りや、服と触れてきたらしい場所では塗装が薄くなっている。
ところどころ、下の金属が細い線のようにのぞいていた。
「……赤い」
由実の口から、ようやくそれだけが出た。
「驚くだろ」
香苗は予想していたように笑った。
「珍しい色ですね」
「今のサックスは金色が多いからな。これはビュッフェ・クランポンのS1プレスティージュ」
聞き慣れない名前だった。
香苗はケースの中へ手を入れ、楽器の胴体を両手で慎重に持ち上げる。
赤い管の側面には、銀色の鍵が細かく並んでいた。
「古いけど、もともとはちゃんとした楽器だよ。しばらく担当がいなかっただけで、放ってあったわけじゃない。新学期前に調整にも出してる」
「まだ吹けるんですか?」
「吹けない楽器を渡すわけないだろ」
少しだけ呆れた声で返され、由実は「そうですよね」と小さく答えた。
香苗は傷のついた部分を気にする様子もなく、楽器を机の上へ置いた。
硬い面へ直接触れないよう、畳んだクロスを下へ敷いている。
古い楽器だと説明しながら、その扱いは香苗自身のアルトと変わらなかった。
「見た目はこんなだけど、音は悪くない。むしろ、きちんと息を入れればよく鳴る方だと思う」
「そうなんですか」
「吹いたことはあるからな」
由実は、もう一度赤いテナーを見た。
香苗がよい楽器だと言うなら、本当なのだろう。
それでも気になったのは、音ではなく外見だった。
音楽室には金色のサックスが並んでいる。
真琴がこれから吹くアルトも金色だ。
その中で、この楽器だけが赤い。
合奏へ参加すれば、離れた場所からでも目立つだろう。
初心者でまともに吹けないのに、楽器だけが人目を引く。
想像しただけで、身体を小さくしたくなった。
「ネックは……こっちか」
香苗がケースの中を確かめる。
その拍子に、内側のポケットから折り畳まれた紙の束がのぞいた。
「何ですか、それ」
「これ?」
香苗は紙を取り出し、机の端へ置いた。
表紙には、手書きで『テナーサックス使用・整備記録』と書かれている。
何枚もの紙が紐でまとめられ、角が柔らかく丸まっていた。
「前に吹いてた人たちが残したもの」
香苗が表紙をめくる。
中には、日付と名前が細かな字で並んでいた。
修理へ出した日。
交換した部品。
調整した箇所。
使っていたリードの種類や硬さ。
短い感想らしいものまで書かれている。
『低音が鳴りにくいため調整』
『右手側のキーを修理』
『リード変更。前より息が入りやすい』
知らない名前の横に、何年も前の日付が記されていた。
「ずっと残してるんですね」
「楽器の状態が分かるから便利なんだよ。誰がいつ使って、どこを直したかも追えるし」
香苗は何ページかめくり、現在に近い記録を探した。
「ほら。先月、全体調整済み。タンポも何か所か交換してる」
由実は香苗が指した行を見た。
けれど、その内容はほとんど頭に入らなかった。
何人もの名前。
古い日付。
繰り返された修理。
自分が生まれる前から、この楽器を使っていた人もいるのかもしれない。
誰かが卒業すると、次の誰かへ渡される。
その人も卒業すれば、また別の誰かが使う。
長く受け継がれてきた楽器。
そう考えることもできた。
由実の目には、何人もの奏者が使い古した楽器にしか見えなかった。
真琴には、仮入部で何度も触れていた金色のアルトがある。
経験者だから、慣れた楽器を続けられる。
自分には、誰も担当していないテナーと、部屋の奥にしまわれていた古い楽器が回ってきた。
(やっぱり、余っていたからなのかな)
香苗は、由実の音の出し方や周囲を見るところを理由に挙げてくれた。
その言葉が嘘だったとは思わない。
けれど、テナー奏者がすでにいたなら、自分へ声をかけただろうか。
アルトの人数が足りなかったなら、香苗と同じ楽器を吹かせてもらえただろうか。
「由実?」
呼ばれて顔を上げる。
香苗が整備記録を持ったまま、こちらを見ていた。
「聞いてる?」
「すみません」
「別に今、全部覚えなくていいけどな」
香苗は記録を丁寧に折り直し、ケースのポケットへ戻した。
「壊れてるわけじゃないってことだけ分かればいい」
「はい」
香苗はケースからネックを取り出した。
本体と同じ深い赤色をした曲がった管だ。マウスピースとリードは別に用意されている。
ネックを差し込み、ねじを軽く締める。
それからストラップを由実へ差し出した。
「つけてみて」
「これ、アルトのときと同じですか?」
「使い方は同じ。でもテナーの方が重いから、少し幅のあるやつを使う」
由実はストラップを首へかけた。
香苗が長さを確かめ、先端の金具を楽器へつなぐ。
「両手で持って。まだ離すなよ」
「はい」
赤いテナーを受け取った瞬間、由実の腕が下へ引かれた。
「重っ……」
「だから言っただろ」
アルトも軽いとは思わなかった。
けれど、テナーは一回りどころか、由実の感覚では別の楽器だった。
太い管が身体の右側へ大きく回り込み、先端の朝顔は腰より低い位置にある。
ストラップが首へ食い込み、右手へ重さが集まった。
「右手だけで支えるな。首と身体に預ける」
香苗が由実の手から少しだけ楽器を持ち上げ、ストラップの長さを調整した。
「今のままだと低すぎる。口へ楽器を持ってくるんじゃなくて、マウスピースが口の位置へ来るようにする」
留め具が引き上げられると、マウスピースが少し近づいた。
由実は言われたとおりに背筋を伸ばす。
それでも身体は、楽器の重さに引かれて右へ傾きそうになった。
「足をもう少し開いて」
香苗が由実の正面へ回る。
「肩の力を抜く。肘は張りすぎない。そう」
由実は赤い楽器を抱えるように立った。
音楽室の窓ガラスへ、二人の姿が薄く映っている。
香苗の隣にいるのは、金色のアルトを迷いなく構える自分ではなかった。
身体に合わない大きな楽器へ振り回され、立っているだけで精いっぱいの一年生だった。
しかも、その楽器は一つだけ赤い。
(似合わない)
口に出すことはできなかった。
香苗はこの楽器を悪く言わなかった。
古いがよい楽器で、調整もしてあると説明してくれた。
丁寧に組み立て、自分の身体に合うようストラップまで直してくれている。
そんな香苗に向かって、色が嫌だとも、古い楽器は使いたくないとも言えなかった。
「どうだ?」
香苗が尋ねた。
何と答えればよいのか迷った末、由実は一番無難な感想を選んだ。
「重いです」
「最初はな。そのうち持ち方が分かれば、今より楽になる」
香苗は由実の返事を疑わなかった。
由実も、それ以上は何も言わなかった。
赤いテナーは、ストラップを通して由実の身体へ重さを預けている。
望んだアルトの代わりに渡された、古くて、目立って、重い楽器。
まだ一度も音を出していないのに、由実には自分のものではないように思えた。
「見た目と重さの感想は、そのくらいでいいか」
香苗がマウスピースの位置を確かめる。
「次は、ちゃんと音を聞いてみよう」
由実は赤い管を見下ろしたまま、小さく頷いた。




