↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 赤いテナー

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/41

第7話 赤いテナー

 黒いケースの蓋が、ゆっくりと持ち上がった。


 由実は、中に収められた楽器を見て言葉を失った。


 サックスは金色だと思っていた。


 香苗のアルトも、仮入部で触れた楽器も、照明を映して明るく輝いていた。


 けれど、目の前のテナーサックスは違う。


 深い赤色をしていた。


 鮮やかな赤ではない。


 暗い場所では茶色にも見える、落ち着いた赤だった。表面には細かな傷が走り、管へ手を添える辺りや、服と触れてきたらしい場所では塗装が薄くなっている。


 ところどころ、下の金属が細い線のようにのぞいていた。


「……赤い」


 由実の口から、ようやくそれだけが出た。


「驚くだろ」


 香苗は予想していたように笑った。


「珍しい色ですね」


「今のサックスは金色が多いからな。これはビュッフェ・クランポンのS1プレスティージュ」


 聞き慣れない名前だった。


 香苗はケースの中へ手を入れ、楽器の胴体を両手で慎重に持ち上げる。


 赤い管の側面には、銀色の鍵が細かく並んでいた。


「古いけど、もともとはちゃんとした楽器だよ。しばらく担当がいなかっただけで、放ってあったわけじゃない。新学期前に調整にも出してる」


「まだ吹けるんですか?」


「吹けない楽器を渡すわけないだろ」


 少しだけ呆れた声で返され、由実は「そうですよね」と小さく答えた。


 香苗は傷のついた部分を気にする様子もなく、楽器を机の上へ置いた。


 硬い面へ直接触れないよう、畳んだクロスを下へ敷いている。


 古い楽器だと説明しながら、その扱いは香苗自身のアルトと変わらなかった。


「見た目はこんなだけど、音は悪くない。むしろ、きちんと息を入れればよく鳴る方だと思う」


「そうなんですか」


「吹いたことはあるからな」


 由実は、もう一度赤いテナーを見た。


 香苗がよい楽器だと言うなら、本当なのだろう。


 それでも気になったのは、音ではなく外見だった。


 音楽室には金色のサックスが並んでいる。


 真琴がこれから吹くアルトも金色だ。


 その中で、この楽器だけが赤い。


 合奏へ参加すれば、離れた場所からでも目立つだろう。


 初心者でまともに吹けないのに、楽器だけが人目を引く。


 想像しただけで、身体を小さくしたくなった。


「ネックは……こっちか」


 香苗がケースの中を確かめる。


 その拍子に、内側のポケットから折り畳まれた紙の束がのぞいた。


「何ですか、それ」


「これ?」


 香苗は紙を取り出し、机の端へ置いた。


 表紙には、手書きで『テナーサックス使用・整備記録』と書かれている。


 何枚もの紙が紐でまとめられ、角が柔らかく丸まっていた。


「前に吹いてた人たちが残したもの」


 香苗が表紙をめくる。


 中には、日付と名前が細かな字で並んでいた。


 修理へ出した日。


 交換した部品。


 調整した箇所。


 使っていたリードの種類や硬さ。


 短い感想らしいものまで書かれている。


『低音が鳴りにくいため調整』


『右手側のキーを修理』


『リード変更。前より息が入りやすい』


 知らない名前の横に、何年も前の日付が記されていた。


「ずっと残してるんですね」


「楽器の状態が分かるから便利なんだよ。誰がいつ使って、どこを直したかも追えるし」


 香苗は何ページかめくり、現在に近い記録を探した。


「ほら。先月、全体調整済み。タンポも何か所か交換してる」


 由実は香苗が指した行を見た。


 けれど、その内容はほとんど頭に入らなかった。


 何人もの名前。


 古い日付。


 繰り返された修理。


 自分が生まれる前から、この楽器を使っていた人もいるのかもしれない。


 誰かが卒業すると、次の誰かへ渡される。


 その人も卒業すれば、また別の誰かが使う。


 長く受け継がれてきた楽器。


 そう考えることもできた。


 由実の目には、何人もの奏者が使い古した楽器にしか見えなかった。


 真琴には、仮入部で何度も触れていた金色のアルトがある。


 経験者だから、慣れた楽器を続けられる。


 自分には、誰も担当していないテナーと、部屋の奥にしまわれていた古い楽器が回ってきた。


(やっぱり、余っていたからなのかな)


 香苗は、由実の音の出し方や周囲を見るところを理由に挙げてくれた。


 その言葉が嘘だったとは思わない。


 けれど、テナー奏者がすでにいたなら、自分へ声をかけただろうか。


 アルトの人数が足りなかったなら、香苗と同じ楽器を吹かせてもらえただろうか。


「由実?」


 呼ばれて顔を上げる。


 香苗が整備記録を持ったまま、こちらを見ていた。


「聞いてる?」


「すみません」


「別に今、全部覚えなくていいけどな」


 香苗は記録を丁寧に折り直し、ケースのポケットへ戻した。


「壊れてるわけじゃないってことだけ分かればいい」


「はい」


 香苗はケースからネックを取り出した。


 本体と同じ深い赤色をした曲がった管だ。マウスピースとリードは別に用意されている。


 ネックを差し込み、ねじを軽く締める。


 それからストラップを由実へ差し出した。


「つけてみて」


「これ、アルトのときと同じですか?」


「使い方は同じ。でもテナーの方が重いから、少し幅のあるやつを使う」


 由実はストラップを首へかけた。


 香苗が長さを確かめ、先端の金具を楽器へつなぐ。


「両手で持って。まだ離すなよ」


「はい」


 赤いテナーを受け取った瞬間、由実の腕が下へ引かれた。


「重っ……」


「だから言っただろ」


 アルトも軽いとは思わなかった。


 けれど、テナーは一回りどころか、由実の感覚では別の楽器だった。


 太い管が身体の右側へ大きく回り込み、先端の朝顔は腰より低い位置にある。


 ストラップが首へ食い込み、右手へ重さが集まった。


「右手だけで支えるな。首と身体に預ける」


 香苗が由実の手から少しだけ楽器を持ち上げ、ストラップの長さを調整した。


「今のままだと低すぎる。口へ楽器を持ってくるんじゃなくて、マウスピースが口の位置へ来るようにする」


 留め具が引き上げられると、マウスピースが少し近づいた。


 由実は言われたとおりに背筋を伸ばす。


 それでも身体は、楽器の重さに引かれて右へ傾きそうになった。


「足をもう少し開いて」


 香苗が由実の正面へ回る。


「肩の力を抜く。肘は張りすぎない。そう」


 由実は赤い楽器を抱えるように立った。


 音楽室の窓ガラスへ、二人の姿が薄く映っている。


 香苗の隣にいるのは、金色のアルトを迷いなく構える自分ではなかった。


 身体に合わない大きな楽器へ振り回され、立っているだけで精いっぱいの一年生だった。


 しかも、その楽器は一つだけ赤い。


(似合わない)


 口に出すことはできなかった。


 香苗はこの楽器を悪く言わなかった。


 古いがよい楽器で、調整もしてあると説明してくれた。


 丁寧に組み立て、自分の身体に合うようストラップまで直してくれている。


 そんな香苗に向かって、色が嫌だとも、古い楽器は使いたくないとも言えなかった。


「どうだ?」


 香苗が尋ねた。


 何と答えればよいのか迷った末、由実は一番無難な感想を選んだ。


「重いです」


「最初はな。そのうち持ち方が分かれば、今より楽になる」


 香苗は由実の返事を疑わなかった。


 由実も、それ以上は何も言わなかった。


 赤いテナーは、ストラップを通して由実の身体へ重さを預けている。


 望んだアルトの代わりに渡された、古くて、目立って、重い楽器。


 まだ一度も音を出していないのに、由実には自分のものではないように思えた。


「見た目と重さの感想は、そのくらいでいいか」


 香苗がマウスピースの位置を確かめる。


「次は、ちゃんと音を聞いてみよう」


 由実は赤い管を見下ろしたまま、小さく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。