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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 赤いテナー

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第6話 希望する楽器

 希望楽器の欄を前にして、由実のペンは止まっていた。


 仮入部が始まってから数日。


 フルート、クラリネット、トランペットのほかにも、ホルンや打楽器を体験した。


 どの楽器にも、触れてみなければ分からない面白さがあった。


 フルートは、ほんの少し息の角度が変わるだけで音が消えた。


 クラリネットは、細い見た目からは想像できないほど息を押し返してきた。


 トランペットは、唇の使い方一つで音がまるで変わった。


 打楽器も、ただ叩けばよいわけではない。音を出す位置やばちの持ち方によって、響き方が違っていた。


 どれも難しかった。


 それでも、放課後に音楽室へ入るたび、由実の目は金色のサックスを探していた。


 アルトサックス。


 初めて自分の息を音へ変えてくれた楽器。


 そして、香苗が吹いている楽器。


 昨日は、一つの音を三秒ほど伸ばすことができた。


 最初の日より、ほんの少しだけ長かった。


 真琴のように音階を吹くことはできない。それでも、マウスピースをくわえる深さや、息を入れる強さが少しずつ分かってきた。


 だから、希望欄にはアルトサックスと書くつもりだった。


 そのはずなのに、由実は一文字目さえ書けずにいた。


「まだ決まらない?」


 隣から小川真琴が用紙をのぞき込んだ。


「うん。少し迷ってて」


「私はアルト」


 真琴の希望欄には、迷いのない字で「アルトサックス」と書かれている。


「やっぱり、中学から続けるんだね」


「うん。ほかの楽器も面白かったけど、アルトを吹いたら、やっぱりこれだなって思った」


 真琴は照れくさそうに笑った。


「三年間やったのに、まだ吹けない曲もいっぱいあるし。もっといい音を出せるようになりたいんだ」


 これまで続けてきたから。


 もっと上手くなりたいから。


 好きだから。


 真琴は、自分がアルトを希望する理由を自然に口にできる。


 由実には、まだそこまで確かな言葉がなかった。


 音が一度出たことがうれしかった。


 香苗と同じ楽器を吹いてみたかった。


 それだけで希望してもよいのだろうか。


「橋本さんも、アルトが気になってるんじゃない?」


「どうして分かったの?」


「サックスの体験が終わっても、いつも見てるから」


 由実は思わず用紙へ目を落とした。


 自分では隠しているつもりでも、視線は正直らしい。


「少し、吹いてみたいとは思ってる」


「じゃあ、書けばいいのに」


「でも、私は初心者だから」


「初心者でも、希望は希望でしょ」


 真琴は不思議そうに首を傾げた。


 そのとおりだった。


 希望欄は、上手に吹ける楽器を書く場所ではない。


 自分が吹きたい楽器を書く場所だ。


 由実はペン先を紙へ下ろした。


 アルトサックス。


 そう書こうとしたところで、音楽室の前から手を叩く音が響いた。


「サックスを希望している一年生、こっちへ来てもらえる?」


 呼びかけたのは、三年生の水野千秋だった。


 サックスパートをまとめている先輩で、普段は穏やかだが、演奏が始まると姿勢や音のずれをすぐに見つける。


 千秋の隣には、香苗も立っていた。


 由実は書きかけの用紙を机へ置き、真琴と一緒に二人のもとへ向かった。


 ◇


「希望を決める前に、今のパートの人数を説明しておくね」


 千秋は新入生へ椅子を勧め、自分も向かい側へ腰を下ろした。


 香苗はサックスパートの名簿を持ち、千秋の隣に立っている。


「まず、小川さんは中学でもアルトサックスだったんだよね」


「はい。三年間吹いていました」


「高校でも続けたい?」


「続けたいです」


 真琴は間を置かずに答えた。


「中学で吹けなかった曲にも挑戦したいですし、もっと上手くなりたいです」


「分かった。経験があるからというだけじゃなくて、小川さん自身が続けたいんだね」


「はい」


 千秋が名簿へ書き込む。


 真琴はアルトを吹いてきた。


 これからも吹きたいと思っている。


 部にとっても、経験者が同じ楽器を続けることには意味があるのだろう。


 由実にも、それは分かった。


「橋本さんは?」


 千秋に尋ねられ、由実は顔を上げた。


「仮入部で、一番気になった楽器はどれだった?」


「私は……」


 アルトサックスです。


 喉まで出かかった言葉が、そこで止まった。


 隣には真琴がいる。


 三年間吹いてきた経験があり、これからも続けたい理由をはっきり持っている真琴。


 それに比べて、由実がアルトを希望する理由は頼りなく思えた。


「サックスが、気になっています」


「サックスの中では?」


 千秋は答えを急かさず、静かに待っている。


 由実は香苗へ視線を向けた。


 香苗も何も言わず、由実の言葉を待っていた。


「アルトを……少し吹いてみたいです」


 やっと出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。


 吹きたい、とは言い切れなかった。


 少しだけ。


 まだ決めたわけではない。


 後から取り消しても困らないような言い方だった。


「そっか」


 千秋は由実の弱い返事を否定しなかった。


「希望が重なることは珍しくないよ。人数や楽器の状態を確認して、本人とも相談して決めるから」


 それから千秋は、香苗へ視線を向けた。


「今の人数を説明してもらえる?」


「はい」


 香苗が名簿を机へ置いた。


「今いる上級生は、アルトが三人。バリトンが一人。去年までテナーを吹いてた先輩が卒業して、今はテナーが空いてる」


「一人もいないんですか?」


 真琴が尋ねた。


「いない。曲によっては、ほかの楽器に音を補ってもらってる」


 香苗は名簿に残る空欄を指で示した。


「でも、ずっとそのままにはできない。テナーが必要な曲もあるし、夏までには担当を決めたいと思ってる」


 アルトには上級生が三人いる。


 そこへ経験者の真琴が加わる。


 一方、テナーには誰もいない。


 由実は机の上に残してきた希望用紙を思い浮かべた。


 書こうとしていた「アルトサックス」の文字が、急に身勝手なものに思えてくる。


「由実」


 香苗に呼ばれ、由実は顔を上げた。


「一度、テナーを試してみないか?」


 予想できたはずなのに、胸の中が沈んだ。


「私が、ですか?」


「うん」


「どうして……」


「サックスの体験では、音が出るまでが早かった」


 香苗は名簿から手を離し、由実をまっすぐ見た。


「それに、説明を聞いてるとき、自分の手元だけじゃなくて、周りがどうしてるかもよく見てた」


「見ていただけです」


「合奏では、それも大事だよ」


 香苗の声は、いつものように迷いがなかった。


「アルトより大きいし、もう少し息も必要になる。でも、サックスを吹いてみたいなら、テナーも候補に入れてほしい」


 初心者だから。


 余っているから。


 誰でもいいから。


 香苗は、そんな言い方をしなかった。


 由実が仮入部でしていたことを見たうえで頼んでいる。


 そのことが、少しだけうれしかった。


 自分にも、吹奏楽部で必要とされる場所があるのかもしれない。


 けれど、香苗と同じ場所ではなかった。


「あの、私は……」


 アルトを吹きたいです。


 今度こそ言おうとした。


 しかし、真琴の用紙に書かれていた文字が浮かんだ。


 真琴は三年間アルトを吹き、これからも続けたいと望んでいる。


 由実は、正式に入部するかどうかさえ決めていない。


 そんな自分がアルトを希望し、誰もいないテナーは嫌だと言えば、香苗たちを困らせるだけではないか。


「一度、楽器を見てから考えてもいいよ」


 由実が黙っていると、千秋が言った。


「テナーを試したからって、必ず担当しなきゃいけないわけじゃない。大きさが身体に合わないこともあるからね」


 香苗も頷いた。


「今日すぐに決めなくていい。持ってみて、音を出して、それから考えろ」


 断ることはできた。


 まだアルトを希望することもできた。


 二人とも、由実へ選ぶ時間を残してくれている。


 それなのに由実は、香苗から頼まれたという事実を手放したくなかった。


 アルトには、真琴がいる。


 テナーなら、自分が必要とされる。


「やってみます」


 由実は言った。


 口にしてから、それが「試してみます」という意味なのか、「担当します」という意味なのか、自分でも分からなくなった。


「本当に?」


 香苗が確かめる。


 今なら、まだ言い直せる。


 けれど由実は頷いた。


「はい。テナー、やってみます」


「分かった。ありがとう」


 香苗が笑った。


 その笑顔を見て、由実の胸は少しだけ温かくなった。


 同時に、香苗と同じ楽器を吹きたかった気持ちが、置き去りにされたようにも感じた。


「テナー、格好いいよ」


 真琴が明るく言った。


「アルトより低い音が出るんだよね。中学のテナーの先輩、すごくいい音だったんだ」


「そうなんだ」


「うん。私、低いサックスの音も好き」


 真琴に悪意はなかった。


 自分がアルトを希望したことを申し訳なく思っている様子もない。


 ただ、テナーのよいところを思いついたまま話しているだけだ。


 由実は笑ってみせた。


「じゃあ、楽しみかも」


 声は思ったより自然に出た。


 それでも心の中には、別の言葉が残っている。


 真琴は、自分が望んだ楽器を選んだ。


 由実は、必要だと言われた楽器を引き受けた。


 必要とされたことは、確かにうれしい。


 それが自分の望みと同じことなのかは、まだ分からなかった。


 ◇


 話し合いが終わると、真琴はアルトサックスの体験場所へ戻っていった。


 由実は香苗に呼ばれ、音楽室の奥へ進む。


「テナーは、こっちに置いてある」


 香苗は、普段使われている楽器ケースの前を通り過ぎた。


 譜面の入った棚や、大型楽器のケースが並ぶ、部屋の奥まった一角へ向かう。


「今は誰も吹いてないから、奥にしまってある。でも、調整には出してる。吹けない楽器を渡すわけじゃないから安心しろ」


「どんな楽器なんですか?」


「古いけど、いい楽器だよ」


 香苗は積み重ねられたケースの前でしゃがんだ。


 奥から引き出したのは、アルトのものよりひと回り大きな黒いケースだった。


 角には補修の跡があり、表面には細かな傷が残っている。


「重いから、反対側を持って」


「はい」


 由実は香苗と向かい合い、ケースの端へ手をかけた。


 二人で持ち上げると、予想以上の重さが腕へかかる。


「これを毎日運ぶんですか?」


「練習場所によるけど、基本はな」


「大変そうです」


「もう嫌になった?」


「まだ見てもいません」


「それもそうだな」


 香苗が少し笑った。


 二人で空いている机まで運び、ゆっくりと下ろす。


 香苗は黒いケースの表面を一度手で払い、留め金へ指をかけた。


「驚くかもしれないけど、ちゃんとした楽器だからな」


「驚く?」


「見れば分かる」


 一つ目の留め金が外れる。


 続いて、二つ目。


 金具の乾いた音が、由実の耳へ残った。


 自分が望んだものではない。


 それでも、香苗から必要だと言われて引き受けた楽器。


 由実が見つめる前で、黒いケースの蓋がゆっくりと持ち上がり始めた。

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