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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 赤いテナー

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第5話 楽器を選ぶ日

 仮入部の申込書を出したことを、由実は朝から何度も後悔していた。


 名前を書いたのは自分だ。


 香苗に無理やり書かされたわけではない。


 それでも六時間目が終わりに近づくにつれ、胸の奥が落ち着かなくなった。


(音が出なかったら、どうしよう)


 楽器へ触れるのが初めてなのだから、出なくても不思議ではない。


 香苗も、音が出るまで練習すると言っていた。


 頭では分かっている。


 けれど、音楽室にはほかの新入生も来る。


 一人だけ何も鳴らせず、上級生を困らせる自分の姿を想像すると、今からでも帰りたくなった。


「橋本さん、今日も部活見学?」


 帰り支度をしながら、麻衣が尋ねてきた。


「うん。吹奏楽部の仮入部」


「本当に行くことにしたんだ」


「まだ入るって決めたわけじゃないけど」


「でも、楽器を触れるんでしょ? 楽しそう」


 麻衣は素直に笑った。


 その言葉に頷きながら、由実は鞄の中を確かめた。


 筆箱。


 生徒手帳。


 香苗から受け取った仮入部の案内。


 忘れ物はない。


「麻衣さんはテニス部?」


「今日はラケット借りて打たせてもらうの。お互い頑張ろうね」


「うん」


 頑張る。


 そこまで大げさなことではないはずなのに、由実にはぴったりの言葉に思えた。


 ◇


 音楽室の前には、十人ほどの新入生が集まっていた。


 友人同士で来た生徒もいれば、由実のように一人で案内を読んでいる生徒もいる。


「仮入部の人は、ここに名前を書いてください」


 受付にいた部員が、机の上の名簿を示した。


 由実が自分の名前を探して印をつけると、音楽室の奥から聞き覚えのある声が飛んでくる。


「由実、来たな」


 顔を上げると、香苗が大きなケースを運んでいた。


「こんにちは、佐伯先輩」


「今日は好きなだけ失敗していいぞ」


「最初にそれを言うんですか?」


「成功するまで帰れないって言うよりいいだろ」


 香苗は笑い、そのままケースを別の机へ置いた。


 由実は少しだけ口元を緩める。


 昨日までなら、失敗していいと言われても慰めにしか聞こえなかったかもしれない。


 今日は、失敗するために来たのだと思うことにした。


 新入生がそろうと、顧問の高瀬美緒が前へ出た。


「吹奏楽部顧問の高瀬です。仮入部では、いくつかの楽器を順番に体験してもらいます」


 高瀬は三十代くらいの女性で、穏やかな声をしていた。


「最初から音が出る人もいれば、何日かかかる人もいます。今日鳴らなかったから向いていない、今日鳴ったからその楽器に決まり、ということではありません」


 由実は、膝の上で握っていた手を少し緩めた。


「楽器によって、息の入れ方も口の使い方も違います。上手に演奏する日ではなく、自分の身体で違いを確かめる日だと思ってください」


 新入生はいくつかの組に分かれ、部員の案内で体験場所へ移動した。


 由実の最初の楽器はフルートだった。


 銀色の管は、近くで見ると想像していたより細い。


「まずは頭部管だけで音を出してみようか」


 担当の部員が、消毒済みの頭部管を由実へ渡した。


「瓶の口へ息を当てるみたいに、穴の向こう側へ息を送ってみて」


 由実は教えられたとおり、唇へ当てる。


 大きく息を吸い、細く吐いた。


 ふう、と空気だけが抜けた。


「もう少し穴を内側へ向けてみよう」


 角度を変えて、もう一度吹く。


 やはり音は出ない。


 隣では、別の新入生が二度目の挑戦で高い音を鳴らしていた。


「あ、出た!」


「そうそう。今の角度、覚えておいてね」


 拍手が起こる。


 由実も手を叩いたが、胸の中が少しだけ沈んだ。


 三度目も、四度目も、由実の息は銀色の管の上を通り過ぎただけだった。


「今日は鳴らなくても大丈夫だよ。唇の形をつかむまで時間がかかる人もいるから」


「はい」


 部員は優しかった。


 だからこそ、余計に申し訳なく感じた。


 次はクラリネットだった。


 黒い管へマウスピースを取り付け、薄いリードを固定する。


「強く噛みすぎないで、息をまっすぐ入れてみて」


 由実が恐る恐る息を吹き込むと、最初は空気の音しか聞こえなかった。


 二度目は頬が膨らみ、部員から息が逃げていると指摘される。


 三度目。


 細く、頼りない音が一瞬だけ鳴った。


「今、出たよ」


「これが音ですか?」


「うん。短かったけど、ちゃんとリードが振動した」


 由実はもう一度試した。


 今度は、息が楽器の中で止められたように感じた。


 思っていたより抵抗が強い。吹けばそのまま空気が通るものだと思っていたが、楽器の方から押し返されてくる。


 音を出すだけでも、息を入れればよいわけではなかった。


 トランペットの場所では、楽器を持つ前にマウスピースだけを渡された。


「まず、唇を震わせてみて」


 部員が見本を見せる。


 小さなマウスピースから、明るくはっきりした音が鳴った。


 由実も唇を閉じ、同じように息を入れる。


 空気だけが漏れた。


「唇を少しだけ合わせて。力を入れすぎないように」


 言われたとおりにすると、今度は頬まで震えた。


 妙な音が鳴り、近くにいた新入生が吹き出しそうに口を押さえる。


 悪意がないことは分かった。


 それでも由実は、顔が熱くなるのを止められなかった。


「最初はみんなそんな音になるよ」


 部員が見本をもう一度聞かせてくれる。


 同じ道具を使っているのに、由実の音とはまるで違う。


 やはり自分には、こういうことが向いていないのかもしれない。


 体験表には、まだサックスの欄が残っていた。


 由実はそこへ視線を落とす。


 香苗の音を聞いて、自分も吹いてみたいと思った。


 けれど、ほかの楽器でこれほど苦戦したのだ。


 サックスでも音が出なければ、昨日抱いた期待まで消えてしまうような気がした。


 ◇


「次、サックスの人はこっち」


 香苗の声がした。


 由実が顔を上げると、音楽室の一角に金色の楽器が並べられていた。


 昨日、香苗が見せてくれたものと似た形をしている。


 その前には、先に一人の新入生が立っていた。


 肩の辺りで切りそろえた髪を揺らしながら、香苗と一緒にアルトサックスを組み立てている。


「それ、先にリードつけた方がやりやすいですよね?」


「慣れてるな。経験者?」


「中学でアルトを吹いてました。小川真琴です」


「じゃあ、組み立ては任せてもよさそうだな」


 真琴はリードの位置を確かめ、迷うことなくマウスピースへ固定した。


 手つきが香苗に似ている。


 何をどこへつければよいのか、最初から知っている人の動きだった。


 香苗が由実に気付き、手を上げる。


「由実、こっち空いてるぞ」


「はい」


 由実は真琴の隣へ移動した。


 真琴が顔を向け、明るく笑う。


「同じ一年生だよね。小川真琴」


「橋本由実です」


「よろしく。橋本さんは初心者?」


「うん。昨日、初めて近くで見たくらい」


「じゃあ今日が初サックスだ」


 真琴は楽しそうに言った。


 経験者であることを自慢している様子はない。


 それでも由実には、「初めて」という言葉が、自分と真琴の間へ線を引いたように聞こえた。


「真琴、一度吹いてみて」


「はい」


 香苗が譜面台へ楽譜を置く。


 真琴はストラップへ楽器をつなぎ、姿勢を整えた。


 短く息を吸う。


 金色の楽器から、迷いのない音が鳴った。


 真琴の指が動き、いくつかの音が滑らかにつながっていく。


 難しい曲ではないのだろう。


 それでも由実には、もう十分に演奏へ聞こえた。


「少しブランクある?」


 香苗が尋ねる。


「春休みはあまり吹けなかったので」


「その割には鳴ってる。口の力を戻せば問題なさそうだな」


「よかった」


 真琴はほっとしたように笑い、楽器を下ろした。


 自分と同じ一年生。


 けれど真琴は、すでに香苗と楽器の話ができる場所にいる。


 由実は、まだ楽器の持ち方すら知らない。


「次、由実」


「はい」


 香苗が別のアルトサックスのケースを開いた。


「いきなり本体を持つ前に、これで音を出す」


 手渡されたのは、マウスピースのついた曲がった管だった。


 昨日、香苗がネックと呼んでいた部品だ。


 リードは新入生の体験用に交換されている。


「上の歯を軽く乗せて、下唇を少し巻く。深くくわえすぎるなよ」


 由実は言われたとおりに口へ当てた。


「肩の力を抜いて、息をまっすぐ入れる」


 息を吹き込む。


 空気が漏れただけだった。


「噛みすぎ。もう少し下顎の力を抜いて」


 二度目は、細い風の音がした。


 三度目。


 リードが一瞬だけ震えた気がしたが、音にはならなかった。


 真琴がすぐ隣にいる。


 香苗も由実の口元を見ている。


 フルートやトランペットで音が出なかったときより、胸が苦しくなった。


「やっぱり、無理かもしれません」


「まだ三回だぞ」


 香苗はあっさり返した。


「少しだけ、くわえる位置を深くする。そう。今度は息を細くしすぎるな」


「でも、強く吹いたら変な音が出ませんか?」


「変な音を出すために仮入部があるんだろ」


 昨日と同じようなことを言われ、由実は少しだけ息を吐いた。


 もう一度マウスピースをくわえる。


 肩を下ろす。


 大きく息を吸った。


 今までより、少しだけ速く空気を送る。


 ぶうっ、と不格好な音が鳴った。


 由実は驚いて、すぐに口を離した。


 音楽室のざわめきの中でも、自分の出した音だけがはっきり聞こえた。


「出たな」


 香苗が言った。


「今の、私ですか?」


「ほかに誰が吹いたんだよ」


 香苗の口元が笑っている。


 由実は手の中のネックを見た。


 金属の管は、さっきまでと何も変わっていない。


 けれど確かに、由実の息を受けて音を出した。


「初めてで出るの、早いね」


 真琴が横から声をかけた。


「私、中学の最初、変な音ばっかりだったよ」


「でも、今は普通に吹けるから」


「三年やってたからね。橋本さんも、もう一回やったらさっきより長く出るかも」


 真琴の声に嫌味はなかった。


 由実の音が出たことを、自分のことのように喜んでいる。


 それなのに由実は、素直に「ありがとう」と言えなかった。


 真琴にとっては、三年前に通った場所なのだ。


 由実がようやく一音出したところから、真琴はずっと先にいる。


「今度は本体につけてみるか?」


 香苗がアルトサックスを持ち上げた。


 由実は一瞬迷い、頷いた。


「やってみたいです」


 ストラップへ楽器をつなぐと、首と肩へ重さがかかった。


 昨日、香苗が構えていた姿を思い出す。


 同じ形の楽器が、今は自分の身体の前にある。


 指を置く場所も、正しい姿勢も分からない。


 それでも、先ほどより怖くなかった。


 香苗に教えられた位置へ指を置き、マウスピースへ口をつける。


 息を入れると、今度は低く震える音が一瞬だけ鳴った。


 美しい音ではなかった。


 真琴のように音をつなげることもできない。


 それでも由実は、音が消えた後もしばらく楽器を下ろせなかった。


「どうだった?」


 香苗が尋ねる。


 由実は金色の管へ視線を落とした。


「もう一回、吹いてみたいです」


「今日は時間だから、続きは次だな」


 香苗は楽器を受け取りながら言った。


「希望楽器は仮入部の最後に聞く。それまで、ほかの楽器もちゃんと試せよ」


「はい」


 由実は答えた。


 けれど、音楽室を出る頃には、もう一度吹きたい楽器が心の中で決まっていた。


 金色のアルトサックス。


 香苗と同じ楽器。


 まだ一音しか出せていない。


 それでも次は、もう少し長く鳴らしてみたかった。

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