第4話 先輩の音
小さな音を立てて、ケースの留め金が外れた。
香苗が蓋を開くと、黒い内張りの中に金色の楽器が収まっていた。
体育館では照明を反射して明るく輝いて見えたが、近くで見ると新品のような均一な色ではない。手が触れる場所には細かな擦れがあり、朝顔のように広がった先端にも、使い込まれた跡が残っている。
それでも、古びているとは思わなかった。
長い間、大切に扱われてきたものだけが持つ落ち着きがあった。
「これがアルトサックス」
香苗は楽器の胴体を両手で持ち上げた。
細かな鍵が並んだ金色の管から、先端だけが緩く曲がっている。
「このままじゃ吹けないんですか?」
「まだ首がないからな」
「首?」
由実が聞き返すと、香苗はケースの中から曲がった金属の管を取り出した。
「ネック。ここにつける」
楽器の上部へネックを差し込み、ねじを軽く締める。
次に香苗が取り出したのは、黒く細長い部品だった。
「これはマウスピース。口をつけるところ」
「そのまま吹くんですか?」
「これだけじゃ音は出ない」
香苗は小さな容器から、薄い木の板のようなものを一枚取り出した。
片方は丸く、もう片方へ向かうほど薄く削られている。
「リード。これをマウスピースにつけて、息で震わせる」
「木なんですね」
「葦から作る。欠けたり割れたりするし、同じ箱に入ってても一枚ずつ吹き心地が違う」
そう話しながら、香苗はリードを口元へ運び、先端を軽く湿らせた。
由実は思わずじっと見つめた。
「そんなに見られるとやりにくいんだけど」
「あ、ごめんなさい」
「見たいって言ったのは私だから、別にいいけど」
香苗は笑い、リードをマウスピースへ重ねた。
位置を指先で細かく調整し、その上から金具をかぶせて固定する。
体育館では、香苗が楽器を持って舞台へ出てきたところしか見ていなかった。
音が鳴る前に、これほどいくつもの準備があるとは思わなかった。
「毎回、こうするんですか?」
「吹くたびに組み立てて、終わったら外して拭く。水分が残ると傷むから」
香苗の手は速かった。
けれど、乱暴ではない。
ねじを締めるときも、部品を差し込むときも、力任せに扱うことはなかった。
音楽室へ来る途中の歩き方や、由実を連れてきた強引さとは違う。
楽器へ触れる指先だけが、妙に慎重だった。
「大切なんですね」
由実が言うと、香苗は手を止めた。
「そりゃ、大切だよ」
短い返事だった。
それ以上は説明せず、香苗は黒いストラップを首へかける。
先端の金具を楽器へつなぎ、長さを調整すると、サックスは香苗の身体の前へ収まった。
体育館で見た姿と同じだった。
いや、近くで見ると少し違う。
香苗は楽器を持ち上げる前に、肩の力を抜いた。
足をわずかに開き、背筋を伸ばす。
マウスピースへ口をつける直前、大きく息を吸った。
その一つひとつの動きに迷いがない。
「さっきの曲、覚えてる?」
「少しだけ」
「じゃあ、少しだけな」
香苗の指が鍵へ触れた。
最初の音が鳴る。
由実は思わず瞬きをした。
体育館で聞いた音より、ずっと近い。
大勢の楽器へ混じっていたときには分からなかった、息の輪郭まで聞こえる。
柔らかいのに、はっきりしている。
音は香苗の口元から金色の管を通り、目の前の空気を震わせた。
歓迎演奏で耳にした旋律が、短くつながっていく。
たった一人しか吹いていないのに、音楽室が狭くなったように感じた。
香苗の指が素早く動く。
けれど、ただ鍵を押しているようには見えない。
息を入れ、指を替え、音を次の音へ渡していく。
由実は、いつの間にか香苗の手元ではなく、横顔を見ていた。
音を出すことに集中した表情。
息を継ぐ一瞬。
再びマウスピースへ口をつける動き。
体育館の舞台で見たときと同じ、何をすればよいのかを知っている人の姿だった。
旋律の最後の音が、ゆっくりと細くなる。
やがて完全に消えると、音楽室に部員たちの話し声が戻ってきた。
由実は息を止めていたことに気付き、小さく吐き出した。
「どうだった?」
楽器を下ろした香苗が尋ねる。
「すごかったです」
「それ、体育館でも聞いた」
「でも、さっきとは違って……」
何が違ったのか、うまく言葉にできない。
大きさではない。
体育館の方が、音そのものは大きかった。
「息が、そのまま音になったみたいでした」
ようやく出てきた言葉に、香苗は少し目を丸くした。
「そのままじゃないけどな。口の形とか、舌の使い方とか、いろいろある」
「やっぱり難しいんですね」
「簡単だとは言ってない」
香苗は否定しなかった。
「でも、音を出すだけならできるかもしれない」
「私でも?」
「吹いてみたい?」
その問いを向けられた瞬間、由実の口から言葉が飛び出した。
「私には無理です」
香苗の眉がわずかに上がる。
「まだ吹いてもいないのに、無理かどうか分かるのか?」
「だって、楽譜も読めませんし、楽器も触ったことがないです」
「最初はそれで普通だろ」
「でも、音が出なかったら……」
「出るまで練習する」
「続かなかったら?」
香苗はすぐには答えなかった。
由実は自分の言葉に驚いた。
聞きたいことは、そんなことではなかったはずだ。
楽器の話をしていた。
音が出るかどうかを尋ねられただけだった。
それなのに、胸の奥にしまっていた言葉が出てきてしまった。
「続かなかったら、向いてなかったってことになります」
「そうとは限らないだろ」
「でも、私は前も……」
由実は口を閉じた。
中学の美術室が頭に浮かんだ。
白い画用紙。
途中まで塗った空。
下書きの線を消せないまま、棚の奥へ置いた絵。
描き始めたときは、完成させるつもりだった。
上手に描けると思っていた。
けれど、思いどおりにならない部分が増えると、少しずつ手をつけなくなった。
期限が近づいても、別の絵を描き始めた。
本気で完成させなければ、出来が悪くても「ちゃんと描かなかったから」と言い訳できた。
絵が下手だったのではない。
最後までやらなかっただけだ。
そう思うことができた。
もし最後まで描いて、それでも誰にも褒められなかったら。
自分でも好きになれない絵ができたら。
逃げ道がなくなる。
「何か、前にやってたのか?」
香苗の声で、由実は音楽室へ戻った。
「中学で、美術部に入っていました」
「絵、嫌いになった?」
「嫌いではないです」
「じゃあ、どうして続かなかった?」
問い詰めるような言い方ではなかった。
だからこそ、由実は答えをごまかせなかった。
「完成できなかったからです」
「時間が足りなかった?」
「たぶん、違います」
由実は膝の上で指を握った。
「完成させて、駄目だったら嫌だったんだと思います」
口に出すと、ひどく情けない理由に聞こえた。
「ちゃんとやっても下手だったら、私には本当に何もないって分かるから」
香苗は何も言わなかった。
慰められるよりも、その沈黙の方が苦しかった。
由実は俯く。
「だから、楽器も同じになると思います」
「同じになるかもしれないな」
思いがけない返事に、由実は顔を上げた。
「向いてないかもしれないし、途中で嫌になるかもしれない。音がなかなか出なくて、もうやりたくないって思うかもしれない」
「だったら……」
「でも、吹かなかったら、音が出るかどうかも分からない」
香苗はサックスを支え直した。
「由実が楽器をやりたいのか、まだ分からないのは普通だよ。今日初めて近くで見たんだから」
いつの間にか、また名前で呼ばれていた。
今度は訂正する気にならなかった。
「だから仮入部がある。入るって決める前に試せばいい」
「サックスをですか?」
「サックスだけじゃない。フルートもクラリネットもトランペットも、触れるものは一通り試せる」
「全部、吹いてもいいんですか?」
「順番はあるけどな。息の入れ方も違うし、やってみたら意外な楽器が合うこともある」
香苗はそこで少し笑った。
「見た目だけで決めると、後悔するかもしれないぞ」
「見た目だけじゃありません」
反射的に返すと、香苗が楽しそうに目を細めた。
「じゃあ、音も気に入った?」
由実は答えられなかった。
音も好きだった。
けれど、それだけではない。
香苗が楽器を構える姿。
息を吸い、迷わず音を出す姿。
自分も同じようになれたらと思った。
そんなことまで本人へ言えるはずがない。
「これ」
香苗が譜面台の下へ手を伸ばし、一枚の紙を取り出した。
上部には「吹奏楽部 仮入部申込書」と印刷されている。
「参加するなら、名前とクラスを書いて提出。今日決めなくてもいいし、持って帰ってもいい」
香苗は近くの机へ紙を置き、その上にボールペンを添えた。
先ほどまでの強引さが嘘のように、それ以上は勧めてこなかった。
「私が書かなくても、怒りませんか?」
「なんで私が怒るんだよ」
「ここまで連れてきてもらったのに」
「私が勝手に連れてきただけだろ」
香苗は肩をすくめる。
「見たいって言ったから、楽器を見せた。それで終わりでもいい」
由実は机の上の紙を見た。
名前を書く欄。
クラスを書く欄。
参加希望日。
それだけだった。
吹奏楽部へ必ず入るという約束ではない。
楽器を上手に吹けるという証明でもない。
ただ、一度試してみるための紙だった。
それでもペンを持つ指が動かなかった。
名前を書けば、期待してしまう。
もしかしたら音が出るかもしれない。
自分にも続けられるものが見つかるかもしれない。
そう思ってしまう。
由実はもう一度、香苗のアルトサックスを見た。
細かな傷の残る金色の楽器。
何度も触れてきたはずなのに、香苗は置くときにも片手を添え、ぶつけないように扱っている。
最初から香苗の思いどおりの音が出たわけではないのかもしれない。
何度も吹いて、手入れをして、少しずつ今の音になったのだろう。
由実はボールペンを取った。
申込書の上へ、ゆっくりと名前を書く。
橋本由実。
その下へ、一年二組と記入した。
書き終えても、すぐには紙を渡せなかった。
「あの」
「うん?」
「仮入部では、サックスも吹けますか?」
香苗は当然だという顔で頷いた。
「吹ける。アルトも、ほかの種類もな」
「そうですか」
由実は申込書を両手で持ち、香苗へ差し出した。
「私、吹いてみたいです」
声は小さかった。
けれど、今度は誰かに聞かれたから答えたのではない。
無難な返事を選んだわけでもない。
由実が自分で言った。
香苗は申込書を受け取ると、名前の欄を一度見た。
それから、由実へ向かって笑った。
「分かった。じゃあ、明日な」
音楽室の窓から、春の夕方の光が差し込んでいた。
金色の楽器の表面で、その光が静かに揺れている。
由実には、まだ何もない。
楽譜も読めない。
音が出るかどうかも分からない。
吹奏楽部へ入ると決めたわけでもなかった。
それでも明日は、今日とは違うことをする。
初めて、自分の息を楽器へ入れてみる。
そのことを思うと、怖さのすぐ隣で、小さな期待が鳴り始めていた。




