第3話 見ていただけです
「さっきから、サックス見てただろ?」
声をかけられた由実は、足を止めた。
聞こえなかったふりをして、そのまま教室へ戻ることも考えた。
けれど、背後から近づいてきた足音は、由実のすぐ隣で止まった。
「一年生だよな?」
振り向くと、先ほど舞台でサックスを吹いていた上級生が立っていた。
近くで見ると、由実とそれほど身長は変わらない。短く整えた髪が耳にかかり、シャツの袖を肘の少し下までまくっている。
首には、楽器を支えるためらしい黒いストラップが残っていた。
「えっと……」
「違った?」
「一年生です」
「やっぱり」
上級生は、何かを確かめられたように頷いた。
「演奏中も見てたし、終わってからも見てたよな」
見られていた。
そう分かった途端、由実の頬が熱くなった。
「見ていただけです」
「うん。だから、何を見てたのかなって」
「何をって……」
楽器を見ていた。
舞台で演奏する上級生も見ていた。
けれど、それを本人へ伝えるのは妙に恥ずかしい。
「きれいだったので」
「楽器が?」
「はい」
「音じゃなくて?」
由実は返事に詰まった。
体育館を満たした音は、今も胸の奥に残っている。
けれど、音楽へ興味があると言えば、入部したいのだと思われそうだった。
「音も、すごかったです。でも、私は楽器とかできないので」
「やったことない?」
「ありません」
「そっか」
上級生は、それだけ言った。
笑われることも、残念そうな顔をされることもなかった。
由実は少し安心し、そのまま会話を終わらせようと頭を下げた。
「じゃあ、失礼します」
「待った」
一歩踏み出したところで、すぐに呼び止められた。
「見学、来ない?」
「え?」
「吹奏楽部。今日から見学できるから」
「でも、楽器の経験がないので」
「それ、さっき聞いた」
上級生はあっさりと言った。
「経験がないから見学しちゃ駄目って決まりはないぞ」
「そういう意味じゃなくて……」
「仮入部なら楽器も触れる。音が出るか試してから、入るかどうか決めればいい」
音を出す。
舞台で見た、細かな部品のついた金色の楽器へ、自分が触れる。
想像しただけで、胸がわずかに動いた。
けれど、すぐに不安の方が大きくなる。
「たぶん、私には向いてないと思います」
「まだ吹いてないのに?」
「運動も苦手ですし、音楽も得意じゃないので」
「サックスは走りながら吹かないから、運動はそんなに関係ないな」
真面目な顔で返され、由実は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
上級生の口元が少しだけ緩む。
「見学だけなら、音楽が得意かどうかも関係ない。入るって決めなくてもいいし」
「でも……」
「見るだけなら、何も減らないだろ?」
返す言葉が見つからなかった。
たしかに、見るだけなら何も減らない。
時間は少し使うかもしれないが、今日はほかに予定もない。
それでも由実は、「行きます」と言えなかった。
自分から見学を選べば、何かを期待していることになる。
期待して、結局できなかったときのことを考えると、最初から近づかない方が安心だった。
「家に帰らないと……」
「急ぎ?」
「急ぎでは、ないですけど」
「じゃあ、十分だけ」
上級生は由実の返事を待たず、廊下の先へ歩き始めた。
「音楽室、こっちだから」
「あの、私、行くとはまだ……」
「嫌なら途中で帰っていいぞ」
こちらを振り返りもせず、片手だけを軽く上げる。
そのまま歩いていく背中を、由実は呆然と見送った。
ここで反対方向へ進めば、帰ることができる。
上級生も、しばらくすれば由実が来ていないことに気付くだろう。
それなのに、由実の足は動かなかった。
角を曲がる直前、上級生がようやく振り返った。
「来ないの?」
「……行きます」
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでも上級生には届いたらしく、満足そうに頷いた。
「よし」
由実は、少し遅れてその背中を追いかけた。
◇
「名前、聞いてなかったな」
階段を上りながら、上級生が尋ねた。
「橋本由実です。一年二組の」
「由実か」
あまりにも自然に名前を呼ばれ、由実は一段踏み外しかけた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「まだ何もないところで転ぶなよ」
上級生は笑いながら、歩く速さを少し緩めた。
初対面の上級生から、いきなり名前で呼ばれた。
内部進学生たちが昔からの友人を呼ぶような、遠慮のない呼び方だった。
由実はどう返せばよいか分からず、半歩後ろを歩く。
「あの、先輩は……」
「佐伯香苗。二年三組」
「佐伯先輩」
「香苗でいいぞ」
「それは無理です」
思わず即答すると、香苗が肩越しに振り返った。
由実は失礼なことを言ったかと身構えたが、香苗はおかしそうに笑った。
「じゃあ、好きに呼べばいい」
「はい、佐伯先輩」
「堅いなあ」
香苗はそう言いながらも、それ以上は訂正しなかった。
「さっき吹いていたのは、何という楽器ですか?」
「アルトサックス」
「アルト……」
「サックスにもいくつか種類がある。今日、私が吹いてたのはアルト」
「全部同じものだと思っていました」
「形は似てるからな。大きさも音の高さも違うけど」
香苗の話し方は簡潔だった。
知識のない由実へ呆れる様子もなく、聞かれたことへ当たり前のように答えてくれる。
それが少し意外だった。
舞台の上で迷いなく楽器を構えていた姿から、もっと近寄りがたい人を想像していたのかもしれない。
「佐伯先輩は、ずっと吹いているんですか?」
「サックスは中学から」
「じゃあ、やっぱり経験者なんですね」
「今はな。始める前は誰でも初心者だろ」
簡単に言われてしまった。
由実にとっては、始める前と、始めた後の間に大きな壁がある。
香苗は、その壁など最初から見えていないように歩いていた。
階段を上り切ると、廊下の奥から話し声が聞こえてきた。
笑い声の合間に、金属が小さく触れ合う音がする。
「ここ」
香苗が、両開きの扉を開けた。
扉の上には「音楽室」と書かれた札が掛かっていた。
◇
音楽室へ入った瞬間、由実は思わず足を止めた。
歓迎演奏を終えた部員たちが、それぞれの楽器を片付けている。
銀色の細い楽器を柔らかい布で拭いている生徒。
黒い棒のような楽器から、部品を一つずつ外している生徒。
大きな金色の楽器へ長い棒を通し、中の水分を拭き取っている生徒。
譜面台を畳む音や、ケースの留め金を閉じる音が、あちこちから聞こえてくる。
体育館での整った演奏とは違い、音楽室には放課後らしい雑然とした空気があった。
「今日、危なかったよね。二曲目の最後」
「誰か走った?」
「誰かじゃなくて、あんた」
「え、私?」
「指揮見てなかったでしょ」
注意されている生徒も笑っている。
別の場所では、譜面を集めながら明日の授業について話していた。
「小テストって英単語どこまでだっけ」
「朝言ったじゃん」
「演奏のことで頭いっぱいだった」
「便利な言い訳だね」
由実は少し拍子抜けした。
吹奏楽部と聞いて想像していたのは、全員が無言で練習し、間違えると厳しく叱られるような場所だった。
けれど、ここにいる部員たちは、楽器を丁寧に扱いながら、ごく普通に笑っている。
「香苗、その子は?」
近くで譜面をそろえていた上級生が尋ねた。
「見学の一年生」
香苗はそれだけ答えた。
吹奏楽部へ入りたそうに楽器を眺めていた、と大げさに紹介されるのではないかと思っていた由実は、そっと息を吐いた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「ゆっくり見ていってね」
上級生は柔らかく笑い、すぐに譜面の整理へ戻った。
周囲の部員たちも、由実を珍しそうに見続けることはなかった。
見学の新入生が来ることに慣れているのだろう。
「鞄、そこへ置いていいぞ」
香苗が壁際の椅子を示した。
由実は言われるまま鞄を下ろす。
壁際には、大小さまざまな楽器ケースが並んでいた。
表面に細かな傷のついた黒いケース。
持ち手へ古い布が巻かれているもの。
角を金具で補強された大きなケース。
新しいものばかりではない。
何度も開け閉めされ、長い間使われてきたことが、由実にも分かった。
ケースの脇には修理店らしい名前が書かれた小さな札が下がり、交換した部品や日付を記した紙が挟まれているものもあった。
学校の楽器だから、古くなれば捨てられるのだと思っていた。
けれど、ここでは壊れたところを直し、誰かが使い続けているらしい。
奥には、ほかよりひと回り大きなケースがいくつも重ねられていた。
由実はその中の一つへ目を留めたが、中身までは分からない。
「どうした?」
香苗に呼ばれ、由実は視線を戻した。
「いえ。楽器って、こんなに種類があるんだと思って」
「まだ別の部屋にもあるぞ。大きいやつは置き場所取るから」
「これ、全部使うんですか?」
「曲によるけどな。古いのも、直せるものは直して使ってる」
香苗はそう言いながら、舞台で使っていたサックスのケースを椅子の上へ置いた。
黒いケースの留め金へ指をかける。
「さっき、これ見てただろ?」
由実は返事に迷った。
楽器を見ていたことは、もう知られている。
今さら否定しても意味はない。
「……はい」
「近くで見たい?」
香苗の手が、留め金の上で止まっている。
由実はケースと香苗の顔を交互に見た。
ここまで連れてこられたことには、まだ戸惑っている。
少し強引で、初対面なのに名前で呼んでくる変わった先輩だとも思う。
それでも、帰りたいとは思わなかった。
「見たいです」
由実が答えると、香苗は口元を上げた。
「じゃあ、特等席で見せてやるよ」
小さな音を立てて、ケースの留め金が外れた。




