第2話 音のする方へ
「橋本さん、今日の部活動紹介、一緒に行かない?」
昼休みが終わる少し前、藤田麻衣が由実の机へ身を乗り出してきた。
入学式から数日が経ち、教室には少しずつ小さな集まりができ始めていた。
内部進学生同士の輪だけではない。席が近い者、通学路が同じ者、昼食を一緒に食べるようになった者。
由実も、麻衣をはじめ何人かとは話せるようになっていた。
とはいえ、放課後に誘い合ったり、休み時間になると自然に集まったりするほど親しくはない。
「部活動紹介って、全員参加じゃなかった?」
「そうだけど、体育館まで一緒に行こうってこと」
「あ、うん。行く」
由実が答えると、麻衣は満足そうに頷いた。
「今日見て、よさそうだったらそのままテニス部の見学に行くんだ」
「もう決めてるんだね」
「一応ね。実際に見たら変わるかもしれないけど」
麻衣は気軽に言って、机の上のパンの袋を畳んだ。
見てから決める。
たったそれだけのことが、由実には少しまぶしかった。
由実の鞄の中にも、先日配られた部活動一覧が入っている。
一度折った紙は、そのまま教科書の下に挟まれていた。
家へ帰ってから開き直すこともなかった。
今日の部活動紹介も、入りたい部を探すために見るわけではない。全新入生が参加する学校行事だから、体育館へ行くだけだった。
どこかに入らなければならないわけではない。
見学だけなら、いつでもできる。
そう考えると、何も決めていないことへの焦りが少し薄くなった。
◇
体育館には、折り畳み椅子がクラスごとに並べられていた。
新入生が席へ着くと、舞台袖から司会役の上級生が現れる。
「これより、部活動紹介を始めます。気になる部があった人は、今日から始まる見学期間へぜひ参加してください」
明るい声に拍手が起こった。
最初に登場したのは運動部だった。
バスケットボール部は舞台上で素早くボールを回し、剣道部は防具姿で打ち込みを披露する。ダンス部が音楽に合わせて踊ると、体育館の空気が一気に華やいだ。
「すごいね」
隣に座る麻衣が、小声で言った。
「うん」
由実も手を叩きながら答えた。
どの部も楽しそうだった。
それ以上に、紹介する上級生たちが堂々としていた。
大勢の視線を受けても声が震えず、自分たちの活動を誇らしそうに話している。
舞台上の人たちには、ここが自分の居場所だという確信があるように見えた。
(私が入ったら、足を引っ張りそう)
バスケットボールは、中学の体育でもボールをうまく扱えなかった。
剣道は防具が重そうだった。
ダンス部にいたっては、皆の前で踊る自分を想像するだけで頬が熱くなる。
文化部の紹介へ移っても、由実の考えは変わらなかった。
美術部の上級生は、舞台へ大きな油絵を運んできた。細かく描き込まれた街並みに、客席から感嘆の声が上がる。
由実も思わず見入った。
けれど、自分が中学で描きかけたままにした絵を思い出すと、見学へ行ってみたいとは思えなかった。
演劇部は短い寸劇を披露し、文芸部は部誌を掲げる。茶道部の紹介では、舞台の上で静かに茶を点てる所作が実演された。
どれも、自分とは遠いところにあるものに見えた。
部活動紹介が半分ほど終わった頃、舞台の幕が一度閉じられた。
その向こうから、椅子を動かす音が聞こえてくる。
金属同士が軽く触れ合う音。
何かを組み立てる音。
「次は、吹奏楽部です」
司会の声とともに幕が開いた。
舞台には、半円を描くように椅子と譜面台が並べられていた。
部員は三十人ほどだろうか。
黒い服でそろえた上級生たちが、さまざまな形の楽器を手に座っている。
横に長い銀色の楽器。
細く黒い楽器。
朝顔のように先が開いた金色の楽器。
身体を隠してしまいそうな大きな楽器。
由実にも、フルートやトランペットくらいは分かった。
けれど、似た形の楽器がいくつも並ぶと、名前までは見分けられない。
前に立った生徒が指揮棒を上げた。
それまで聞こえていた新入生たちの話し声が、少しずつ静まっていく。
一瞬だけ、体育館から音がなくなった。
指揮棒が下りる。
次の瞬間、最初の一音が体育館いっぱいに広がった。
由実の肩が小さく跳ねた。
音は舞台からこちらへ飛んできたのではなかった。
壁や天井まで一度に鳴り始め、自分の座っている椅子の脚まで震えたように感じた。
高く澄んだ音が旋律を運び、その下で金色の楽器が明るく響く。
さらに低い音が床を伝うように支え、いくつもの音が重なって一つの流れになっていった。
どれが誰の音なのか、由実には分からない。
それでも、一つでも欠ければ違う曲になるのだろうと思った。
演奏されているのは、由実も聞いたことのある明るい曲だった。
難しそうな音楽を聴かせるというより、新入生を歓迎するために選ばれた曲なのだろう。
前列の部員が身体を揺らすと、後ろの部員も呼吸を合わせるように楽器を持ち上げる。
楽しそうだった。
けれど、ばらばらに好きなように吹いているわけではない。
全員が指揮棒を見て、隣の音を聞き、一つの場所へ向かっている。
由実の視線が、列の中央付近で止まった。
金色の楽器を斜めに構えた、ショートヘアの上級生がいた。
楽器の先は、少し曲がりながら上を向いている。
由実が知っている名前では、たしかサックスだった。
その上級生は、指を迷いなく動かしていた。
曲に合わせて身体をわずかに揺らし、音を出す直前には大きく息を吸う。
構える動作にも、楽器を下ろす動作にもためらいがない。
強い音を吹くときには少しだけ眉を上げ、旋律が柔らかくなると、表情まで緩む。
大勢の中にいるのに、不思議と目に入った。
サックスの音だけを聞き分けられているわけではない。
むしろ、どの音がその人のものなのか、由実には分からなかった。
それでも目を離せなかった。
(あんなふうに、迷わないで何かができたら)
由実は舞台上の楽器ではなく、それを持つ姿を見ていた。
自分のすることを知っている人の姿。
周囲の音に埋もれず、かといって一人だけ目立とうともせず、そこにいるのが当たり前のように演奏する姿。
曲が終盤へ向かい、音が少しずつ大きくなる。
指揮棒が勢いよく振り下ろされた。
全員の音が一つに重なり、最後の一音が体育館を満たす。
指揮棒が止まった。
響きが消えるまで、部員たちは楽器を構えたままだった。
一拍遅れて、大きな拍手が起こる。
由実も夢中で手を叩いていた。
「すごかったね!」
麻衣の声に、由実はようやく隣を向いた。
「うん。びっくりした」
「私、中学の文化祭で聞いたことはあるけど、こんな近くで聞くと全然違う」
周囲からも興奮した声が上がっている。
「私、クラリネットだったよ」
「じゃあ吹奏楽部入るの?」
「迷ってる。高校では別のこともやってみたいし」
「サックスって希望者多いんだよね」
「中学のとき、アルトが四人いたよ」
由実の前に座る生徒たちが、慣れた様子で話していた。
楽器の名前。
希望するパート。
中学時代の経験。
由実には、どれも分からない話だった。
楽譜も読めない。
音符の長さも、学校の音楽の授業で習った程度しか覚えていない。
楽器へ触れた経験といえば、小学校の鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいだった。
吹奏楽部は、舞台で演奏していた人たちのような、経験のある生徒が入る場所なのだろう。
(私には無理だ)
そう考えると、さっきまで胸の中に広がっていた音が、急に遠くなった。
拍手が収まると、吹奏楽部の代表らしい生徒が前へ出た。
「吹奏楽部では、経験者はもちろん、初心者も歓迎しています。楽器を触ったことがなくても大丈夫です。仮入部期間には、いろいろな楽器を体験できます」
初心者も歓迎。
その言葉に、由実の耳が少しだけ反応した。
しかし、すぐに思い直す。
誰にでもそう言うものなのだろう。
本当に何もできない人が入れば、教える側も困るに違いない。
紹介を終えた部員たちは立ち上がり、椅子や譜面台を片付け始めた。
ショートヘアの上級生も、首から下げていた楽器を支えながら舞台袖へ向かう。
その背中が幕の向こうへ消えるまで、由実は見ていた。
◇
最後の部活動紹介が終わると、新入生たちはクラスごとに体育館を出ることになった。
「私、このままテニス部へ行ってくるね」
出入口へ向かいながら、麻衣が言った。
「橋本さんは?」
「今日は帰る」
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
麻衣は同じくテニス部へ興味を持った生徒たちと一緒に歩いていった。
由実も人の流れに乗って出口へ向かう。
体育館の横には、先ほどまで使われていた椅子や譜面台が集められていた。
吹奏楽部員たちは、楽器を抱えて廊下の先へ運んでいる。
由実は歩く速度を少しだけ落とした。
金色のサックスが、蛍光灯の光を反射した。
舞台の上では遠くて分からなかったが、近くで見ると細かな棒や蓋のようなものがいくつも付いている。
あれだけ複雑なものを、指だけで操っていた。
「橋本さん?」
前を歩いていた同じクラスの生徒に呼ばれ、由実は慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん」
「教室、戻るんだよね?」
「うん」
由実は足を速めた。
けれど、廊下の角を曲がる直前で、もう一度だけ振り返った。
先ほどのショートヘアの上級生が、サックスを持って体育館から出てくるところだった。
近くで見ると、舞台上にいたときより小柄に見える。
誰かに呼ばれ、笑いながら短く返事をした。
その姿を見ているうちに、由実は再び列から遅れた。
(見てるだけ)
入部するつもりはない。
楽器を吹けるとも思っていない。
ただ、もう少し近くで見てみたかっただけだ。
由実が視線を戻そうとしたとき、ショートヘアの上級生がこちらを向いた。
一瞬、目が合ったような気がした。
由実は慌てて前を向き、何事もなかったように歩き出す。
その背後から、足音が近づいてきた。
「ねえ、そこの一年生」
自分のことではないふりをして進もうとした由実へ、もう一度、今度ははっきりと声が飛んできた。
「さっきから、サックス見てただろ?」




