第1話 何もない春
はじめまして。Atelier Lotusです。
本作『赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌』は、吹奏楽部を舞台にした青春小説です。
大会で全国を目指す物語でも、天才が才能を開花させる物語でもありません。
何も成し遂げたことがないと思っていた一人の少女が、偶然任された一本のテナーサックスと、一人の先輩との出会いを通して、自分だけの音と居場所を見つけていく、一年間の物語です。
吹奏楽を経験された方には、部室の匂いや譜面台の並ぶ景色、放課後の何気ない時間を懐かしく感じていただけるように。
吹奏楽が初めての方にも、「誰かと一緒に何かを好きになること」の楽しさが伝わるように。
専門的な内容も、由実と一緒に少しずつ知っていける構成を心掛けました。
また、本作には先輩と後輩だからこその距離感や、少しだけ女の子同士の淡い憧れを描いた微百合要素があります。ただし恋愛が物語の中心ではなく、「音を重ねること」と「誰かを大切に思う気持ち」がゆっくり育っていく青春として読んでいただければ嬉しいです。
大きな事件は起きません。
上手く吹けずに落ち込む日もあれば、たった一音を褒められて嬉しくなる日もあります。
誰かと帰り道を歩き、楽器店へ寄り道をして、喫茶店で話をして、また明日も部室へ向かう。
そんな穏やかな放課後の積み重ねが、少しずつ一人の少女を変えていきます。
読み終えたとき、皆さまの心にも一本の音が残る作品になれたら幸いです。
※吹奏楽経験者の方も、未経験の方も楽しめるよう執筆しています。
少しでも「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、ご感想をいただけると今後の励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。
新品の制服は、まだ橋本由実の身体になじんでいなかった。
紺色のブレザーは肩のあたりが少し硬く、歩くたびにスカートのひだが揺れる。鏡の前で見たときには、それなりに高校生らしく見えたはずなのに、玄関に立つと急に借り物のように思えた。
「忘れ物ない?」
母が由実の鞄を見ながら尋ねた。
「たぶん」
「たぶんって。入学初日から忘れ物したら大変よ」
「昨日、三回確認しただろ」
父が靴を履きながら笑う。
今日は二人とも、聖フェリス学園の入学式へ来ることになっていた。
由実は高校生にもなって両親と一緒に登校するのが少し恥ずかしかったが、初めて行く学校へ一人で向かうのも心細かった。
「じゃあ、行こうか」
母が玄関の扉を開ける。
春の光が差し込み、磨いたばかりの革靴の先を照らした。
由実は鞄の持ち手を握り直し、家を出た。
今日からなら、何かが変わるかもしれない。
中学校の自分を知っている人は、ここにはほとんどいない。
何か新しいことを始めて、新しい友達を作って、今までとは違う自分になれるかもしれない。
けれど、その「何か」が何なのかは、自分でも分からなかった。
聖フェリス学園の正門には、同じ制服を着た生徒たちが次々と吸い込まれていた。
校門の奥には、淡い色の石造りの校舎と、尖った屋根を持つ礼拝堂が見える。庭の木々には若い葉が芽吹き、花壇では白や黄色の花が風に揺れていた。
「きれいな学校ね」
母が感心したように辺りを見回す。
由実も頷いた。
けれど、見ていたのは校舎ではなかった。
「あ、千夏。クラスどこだった?」
「一組。美優は?」
「三組。離れちゃったね」
「でも中等部のときより近いじゃん」
前を歩く二人の生徒が、慣れた様子で話している。
別の生徒は、校門に立つ先生へ笑顔で挨拶していた。
「先生、おはようございます」
「おはよう。高等部でもよろしくね」
そのやり取りだけで、由実には分かった。
この学校には、ずっと前からここにいた生徒がいる。
初等部や中等部から進学してきた生徒たちにとって、今日は新しい学校へ入る日ではない。通い慣れた場所で、制服と校舎が少し変わる日なのだ。
由実は高等部から入学した外部生だった。
校門の位置も、礼拝堂へ入るときの作法も、職員室がどこにあるのかも知らない。
自分だけが、見知らぬ家の庭へ紛れ込んだような気がした。
「由実、クラス分け、あそこに出てるみたい」
母に声をかけられ、由実は慌てて顔を上げた。
掲示板の前には人だかりができている。
由実は名前を探し、一年二組の欄に「橋本由実」の文字を見つけた。
同じ欄には、知らない名前ばかりが並んでいた。
当然のことなのに、胸の奥が少し重くなった。
◇
入学式が始まるまで、新入生は教室で待機することになった。
由実の席は、窓から二列目の後ろの方だった。
机の上へ鞄を置き、椅子へ腰を下ろす。
窓の外には、礼拝堂へ続く煉瓦敷きの道が見えた。
「久しぶり」
「春休み会ったじゃん」
「毎日会ってたときと比べたら久しぶりでしょ」
教室のあちこちで、そんな会話が聞こえてくる。
名字ではなく名前で呼び合い、以前の担任や委員会の話をしている。どの会話にも、由実の知らない時間が含まれていた。
もちろん、全員が内部進学生というわけではない。
由実と同じように静かに座り、周囲をうかがっている生徒も何人かいた。
それでも由実には、声をかけることができなかった。
何と話しかければいいのか分からない。
同じ外部生かどうかも、見ただけでは分からない。
迷っているうちに、前の席の生徒が振り返った。
「その髪留め、かわいいね」
「え?」
由実は自分の髪へ手を伸ばした。
母が入学祝いに買ってくれた、紺色の小さな髪留めだった。
「ありがとう」
「私、藤田麻衣。よろしく」
「橋本由実です。よろしくお願いします」
「同い年なんだから、そんなに丁寧じゃなくていいよ」
麻衣はそう言って笑った。
明るく、話しやすそうな笑顔だった。
由実も少しだけ肩の力を抜く。
「橋本さんって、外部?」
「うん。高等部から」
「やっぱり。私も」
その言葉に、由実はほっとした。
「よかった。私、知ってる人が一人もいなくて」
「私もだよ。さっきからみんな普通に昔の話してるから、どうしようかと思ってた」
二人で顔を見合わせて笑う。
それだけで、教室の中に自分の座れる場所が少しできた気がした。
やがて担任が入ってきて、新入生は礼拝堂へ移動した。
式の間、由実は何度も背筋を伸ばした。
校長の話を聞き、聖歌を歌い、これから始まる高校生活について考えた。
勉強も頑張ろう。
友達も作ろう。
何か、今までやったことのないこともしてみたい。
そう思うたびに、胸の中が少しだけ明るくなった。
けれど、教室へ戻って最初のホームルームが始まると、その光は早くも小さくなっていった。
◇
「それでは、簡単に自己紹介をしてもらいます」
担任の言葉に、教室がざわついた。
「名前と、出身中学。それから、中学時代にしていたことや、高校でやってみたいことがあれば話してください」
由実は膝の上で手を握った。
自己紹介は前の列から始まった。
「中等部ではバスケットボール部でした。高等部でも続けるつもりです」
「小さい頃からピアノを習っています。合唱部に興味があります」
「茶道部でした。高校では生徒会にも挑戦したいです」
次々と立ち上がる生徒たちは、自分の持っているものを自然に口にした。
何年も続けた習い事。
試合へ出た経験。
得意な科目。
これから入りたい部活動。
由実は自分の番が近づくにつれ、頭の中で言葉を探した。
中学では美術部だった。
けれど、美術が得意なわけではない。
校内の作品展へ出したこともあったが、部員全員が一つずつ提出する決まりだったからだ。
描き始めたまま完成しなかった絵が何枚もある。
提出期限へ間に合わず、背景を塗らないまま終わらせたこともあった。
絵を描くことが嫌いだったわけではない。
好きな漫画の登場人物をノートの隅へ描くのは楽しかった。
それでも、「美術が得意です」とは言えなかった。
「次、橋本さん」
担任に呼ばれ、由実は立ち上がった。
「橋本由実です。市立南中学校から来ました」
教室中の視線が集まる。
喉が乾いた。
「中学では、美術部に入っていました」
そこで言葉が止まった。
高校でやってみたいこと。
何も思いつかないわけではない。
新しいことをしたい。
中学ではできなかったことをしてみたい。
けれど、具体的な名前がなかった。
「高校では、いろいろ見てから決めたいと思っています。よろしくお願いします」
無難な言葉で締めると、由実はすぐに座った。
ぱらぱらと拍手が起こる。
失敗はしなかった。
変なことも言わなかった。
それなのに、胸の奥には小さな空洞が残った。
ホームルームが終わると、麻衣が振り返った。
「橋本さん、美術部だったんだ」
「うん。一応」
「一応って?」
「そんなに上手じゃないから」
「何描いてたの? 油絵とか?」
「普通の絵。水彩とか、ポスターとか」
「作品展にも出した?」
由実は一瞬だけ迷った。
「少しだけ」
本当は、胸を張って見せられるような作品はほとんどなかった。
けれど、何もしていなかったと思われるのも嫌だった。
「すごいね。私、絵は全然描けない」
「そんな、全然すごくないよ」
由実は笑ってごまかした。
麻衣に悪気はない。
むしろ、会話を続けようとしてくれている。
それでも質問されるたびに、自分の中身が少しずつ確かめられているようだった。
どれくらい続けたのか。
何が得意なのか。
何を完成させたのか。
そのどれにも、由実ははっきり答えられなかった。
◇
放課後、担任から部活動一覧が配られた。
運動部、文化部、同好会。
紙の両面に、たくさんの名前が並んでいる。
「私はテニス部を見に行くつもり」
麻衣が一覧の一か所を指差した。
「中学でもやってたの?」
「ううん。でも姉がやってて、楽しそうだったから。橋本さんは美術部?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、一緒にテニス見に行く?」
誘われた瞬間、由実の胸がわずかに動いた。
新しいことを始めたいと思っていた。
知っている人と一緒なら、見学くらいできるかもしれない。
けれど、運動が得意なわけではない。
ついていけなかったら。
途中で辞めたくなったら。
麻衣に迷惑をかけたら。
「今日は、家で待ってるから」
考えるより先に、断る言葉が出た。
「そっか。また明日ね」
「うん。また明日」
麻衣が友人になったばかりの生徒と教室を出ていく。
由実は一人で、部活動一覧へ視線を落とした。
美術部。
写真部。
文芸部。
演劇部。
吹奏楽部。
名前を一つずつ追ってみる。
けれど、どこにも自分がいる姿を思い浮かべられなかった。
見学へ行って、自分に向いていないと分かるのが怖い。
始めたのに続かなければ、中学の美術部と同じになる。
最初から何もしなければ、失敗したことにはならない。
由実は一覧を二つに折り、鞄の奥へしまった。
窓の外では、校庭へ向かう生徒たちの声が聞こえている。
明るい笑い声。
廊下を走る足音。
どこか遠くで、楽器のような音が一つだけ鳴り、すぐに途切れた。
由実は少しだけ顔を上げたが、立ち上がることはしなかった。
今日からなら、何かが変わるかもしれない。
朝はそう思っていた。
けれど、何もしなければ、少なくとも失敗することはない。
由実はそう自分へ言い聞かせ、新品の鞄を抱えて、静かになった教室を後にした。




