71 「生きた人形と呼ばれる皇女」⑱
「さーて、衣装替えの魔法ね!」
魔導書を片手に笑顔を浮かべているのは、ゾルダ王国から来たサーヤで、ジェレミーの所にはリーチェデルヒが待機しているはずだ。
部屋の隅には立太子の儀に合わせて仕立てられたドレス。王太子となるジェレミーの隣に立つにふさわしく、金糸で刺繍が施されたマントを羽織ることになる。
魔導書に手を乗せてにこりと微笑んだサーヤが「はい、終わり」と行った時にはドレスが変えられていた。
侍女達が手掛けたのと変わらない仕上がりに感嘆していると、サーヤは眉を下げて苦く笑った。
「この魔法はね、私が仲良くしていた王女の為に考えたの。ドレスの着替えの回数は多いし時間がかかるでしょう? あの当時は、本当に世界のどこでも争いが起きて、王女でも政務に駆り出されて疲れ果てていたの。少しでも休む時間が欲しいと言うから……」
「そうだったのですね。その方は、きっとあなたの優しさに救われたはずです」
「そうかなぁ。それならいいんだけど」
姉から聞いた彼女は、異なる世界から直接肉体を持って移動してきたそうで、顔立ちがルピナス達とは異なっていた。
幼そうに見えるが、ルピナスよりも遥か昔に生きていた人で、千年の時を超えて動けるようになった大魔法使い。
今、この世界では魔法が浸透し始めてきているが、リーチェデルヒとサーヤ以上に魔法を知る者はいないという。
「それにしても、ルピナスちゃん……じゃないね。ルピナス様は疲れてないの?」
「ふふ。ちゃん、でも構いません。サーヤ様、あなたを前にすると私などこどもですよね?」
「子供、とは思ってないけど……ニルヴァーグの子孫かぁって気持ちはあるかな。遠慮なくルピナスちゃんって呼ぶね。で、疲れてないの?」
「そうですね……本音を言えば、少しだけ。ですが、疲れを見せないのは大事なことですから」
「まあ、そうだけど。んー、じゃあ、疲労回復だけしておこうか」
魔導書で新たな魔法を発動させたサーヤ。その直後、体の内側がぽかぽかと温かくなり、すっとした清涼感が全身を満たしていく。
疲労が抜け落ちる感覚に、ルピナスは小さく息を吐いた。
室内にはサーヤとルピナスしかいない。ルピナスがそう望んだからだ。サーヤもそれを分かっているのだろう。侍女の所在を問うことはしない。
言葉を交わさなくとも、今だけはそれで十分だった。
結婚式という一つの儀式を終えたばかりの空気は、まだ完全には抜けきっていない。
華やかさと静けさの狭間に、ほんの一時の休息が落ちていた。
椅子に座ったルピナスの髪の毛もサーヤの魔法で綺麗に変更され、妃となったことで既婚者らしく全ての髪の毛を纏めあげたルピナスは、それまでの幼さから少し大人びたように見えるだろう。
「トレニアの時も思ったけど、未来の王妃になるのって怖くない?」
サーヤの問い掛けにルピナスは一瞬返事が遅れた。多くの属国を抱える宗主国たる帝国の皇女として産まれた時から、その未来があることも当たり前のように組み込まれていた。
怖い怖くない、ではなく、そうなるならばやるしかない。そうやって教えられて生きてきた。
だから、このような質問を向けられるのは初めてだった。
「……怖いですよ。民の命を背負うのです。王は民なくして王とはなれません。そしてそんな王を支えるのが王妃です。王が動けない時には代わりをすることを私は求められるでしょう……皇女だったから。道を間違えれば、どれだけの命が失われるか……」
「でも、嫌だって言わないんだね」
「はい。それに耐えられるように教えを受けてきました。怖くても、やらなければならないのです」
「そっか。あなたにもニルヴァーグの血が流れているんだね。彼も、やるしかないって言って王になったんだよね」
懐かしむように目を細めたサーヤ。千年の月日、名前を対価に神と契約をした祖先。今も尚、帝国があり続けるのはそのおかげだった。
「さて、あちらも準備は出来たかな。まあ、会場の準備が出来ていないと意味ないけどね」
「そうですね。サーヤ様、ありがとうございます。すっきりしました」
「良かったー。立太子の儀の後はパレードでお披露目で、お城で披露宴だよね? 披露宴の前にまた疲労回復かけてあげたいけど、時間的に難しそうだから、お城の控え室にこれを置いておくよ」
そう言ってサーヤが見せてくれたのは、手のひらに収まる大きさの小さな可愛らしい小箱だった。その中には飴が五粒入っていた。
「疲労回復の飴だよ。ちゃんと甘くしてるからね」
「いいのですか?」
「うん。結婚式だけでも疲れるのに儀式もう一つだもんねぇ。無理は良くないからさ」
そう言うとサーヤは、じゃあこっそり覗いておくね、と言って控え室から出ていった。王侯貴族ではない彼女とリーチェデルヒは別室で式を見ていたらしい。
去っていく背を見送りルピナスは気合いを入れ直した。
立太子の儀はすぐそこまで来ていた。
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席順の入れ替えが行われた。これは参列者も承知の上である。
最前列には皇帝トラディアスと皇后フィオレンティーナ。
その横にドラスニト王国の現王であるヴォルグとゲルディオが並んで座っていた。
祭壇には冠、剣、印章が儀礼布の上に並べ置かれ、銀の杯が二つ、両脇に備えられていた。杯の中は、通常であれば何も注がないのだが、本日はヴェシ自らが水を満たした。
ルピナスは一人用の椅子を用意されそこに座っていた。ウェディングドレスとは異なる、装飾が極めて少ないドレスだが、その代わりに緻密な刺繍が施されていた。
本来ならば、国王が王太子となるものを宣言するのだが、ドラスニト王国では異例の事態が起きていた。そこで、宗主国の皇帝がジェレミーが王太子であると認める、という意味で宣言を行うことになっていた。
時間となり、トラディアスが席から立ち上がると、祭壇の前へと向かう。
長年皇帝の座に君臨しているトラディアスは、王としてはまだ若い方になるだろうが、威厳は誰よりもあった。
神殿内には静寂が満ちていた。神官長が一歩前へ進み、低く声を発する。
「これより、立太子の儀を執り行います」
その言葉と同時に、神殿の奥扉が再び開かれた。赤い絨毯の先に現れたのは、王太子の正装に身を包んだジェレミーだった。
先ほどの婚姻の祝福とは異なる、ドラスニトの伝統的な刺繍が施された威厳ある装い。肩に掛かるマントには王家の紋章が金糸で縫い込まれ、光を受けて静かに揺れている。
ジェレミーの歩みはしっかりとしていた。ただ前へ、祭壇へと続く道だけを見据えている。
視線の先には、皇帝トラディアス。
その周囲には皇后、他国の王族、そして神殿の高位神官たちが並び、沈黙のまま彼を迎えていた。
ジェレミーは祭壇の前で足を止めると、片膝をつくこともなく、ただ深く頭を垂れた。
王族としてではなく、これから国を背負う者としての礼だった。
神官長が儀式用の文書を確認し、一歩下がる。
「これより、アンザス帝国皇帝トラディアスの名において宣する。
ジェレミー・ドラスニトを、ドラスニト王国の正統なる王太子に定める」
言葉は神殿の奥まで響き、空気そのものを引き締めた。ほんの僅かな沈黙。その後、ジェレミーは顔を上げる。
視線はまっすぐトラディアスへ向けられていた。
「謹んで拝命いたします。王太子として、この国と民に尽くすことを誓います」
いつもの優しく穏やかな声とは異なり、覚悟を決めた者が持つ、芯のある声がトラディアスの作り出した威厳の上に重なる。まだ若々しい声だが、国の為に生きる者としての決意を滲ませた声に、参列者たちは安堵した。
トラディアスの手からその頭に冠を戴いたジェレミーは、王太子の印章も引き継いだ。
ここに王太子ジェレミー・ドラスニトが誕生した。
国内貴族達は立ち上がると左右に別れて通路に並び、跪拝する。それはジェレミーを正統なる王族、未来の王となることを承認したという証である。
神官長の声が再び神殿に響く。
「次に、ルピナス・レミーリア・ドラスニト殿下、前へ」
静かに、しかし確かな緊張が場に走る。つい先程、婚姻がなされ、ルピナスは帝国の皇女から王国の王子妃となった。名の呼ばれ方が変わる。それだけだが、大きな変化でもあった。
ルピナスは一度だけジェレミーへ視線を向ける。
彼はルピナスを静かに、しかし柔らかい目で見つめていた。彼はいつだって言葉は少なくとも目で語り掛けてくれていた。
その姿を確認してから、ルピナスはゆっくりと歩み出る。赤い絨毯の上を進む足取りは静かで、しかし迷いはない。
先ほどまでの婚姻の儀式とは違い、今は王太子妃としての承認の場だ。ただの王子妃ではなく、五年後に国王となることが定められた王太子の妃という特別な地位を承認されるのだ。
祭壇の前で足を止めると、ルピナスは深く礼をした。
皇帝トラディアスが視線を落とす。背の高いトラディアスと姉妹の中で最も小柄なルピナスは、父がいつでも腰を落としてくれていた。見上げるほどに大きな父は、ルピナスを絶対に守ってくれる人だった。
父としての感情をわずかに押し殺しながら、それでも帝国皇帝として声を発した。
「これより、アンザス帝国皇帝トラディアスの名において宣する。
ルピナス・レミーリア・ドラスニトを、ドラスニト王国王太子妃として認める」
ルピナスは静かに顔を上げる。
帝国では生きた人形と言われるほど、感情的にもならず、淡々として生きてきたルピナスだったが、ドラスニトへ来て、触れ合う人との距離が近く、心が揺さぶられた。
本を読む事だけが楽しみだったのに、人と話す喜びを知った。
何を映しているのか分からないぼんやりとしていた目には輝きが宿り、今のルピナスを人形だと言うものはいないだろう。
「謹んで拝命いたします。王太子妃として、王太子と共にこの国を支えることを誓います」
声は澄んでいて、震えはない。愛する人と共に並び立つ。支え、支えられ、この国を『知の国』として大陸中に知らしめよう。神の御使いからもそうなるようにと言われたから。
祭壇の上に置かれていたマントをジェレミーがルピナスにかける。
王太子と対になるマントを羽織ると、トラディアスから王太子妃の冠を授けられる。
通路に出ていた国内貴族達は立ち上がって見守っていたが、冠を載せたルピナスが振り返ると、再び跪拝した。
彼女もまた認められたということだ。
これをもって、ドラスニト王国における立太子の儀は滞りなく完遂された。
跪拝を終え、立ち上がり席に戻った者達も含め、皆が拍手をする中、ジェレミーが差し出した手に手を重ね、二人は神殿の外へと向かう。
婚礼衣装を見せた時よりも遥かに人が増えている。
用意されたパレード用の馬車に乗りこんだ。多くの騎士が駆り出され、民達が突撃しないように推し留めている。
そこに突如として水の道が出来た。馬車と馬だけしか通れない水の道のお陰で、騎士たちも少しは安心した。
新たなる王太子夫妻の誕生に民達は歓迎の声をあげる。手を振り応えながら、ゆっくりと王城へと馬車は進んでいった。
次こそ……次こそ終わらせたい。
キリよく⑳で終わるようにした方がいいかな。




