月下の胎動(1)
一:平穏の裏のざわめき
ウェルズの丘での激戦から数日。
アークはいつものように森の隠れ家に戻り、何事もなかったかのように淡々と日々の生活を送っていた。
薪を割り、罠を仕掛け、傷ついた魔物を狩る。
表向きはいつもの孤独なサバイバル生活に戻ったように見えるが、アークの内面には確かな変化があった。あのウェルズの丘で「神の使者」を一人屠ったという事実が、彼の胸の内に冷徹な覚悟を定着させていた。
(奴らは、俺たち下位層の覚醒を恐れている。……つまり、あの使者を倒したことで、俺たちの存在は向こう側にも確実に認知されたはずだ)
これからは、ただ森で身を潜めているだけでは済まない。いつか必ず、さらに大きな敵が自分を狙ってやって来る。
だが、恐怖はなかった。むしろ、あの理不尽な「光」の正体に近づいているという手応えが、アークの少年の心を熱くさせていた。
「グルル……」
足元で、群青色の毛並みを持つトラが低く喉を鳴らした。
アークが視線を下ろすと、トラは金色の瞳でじっとアークを見上げている。まるで「何に悩んでいるんだ」とでも言いたげな、人間のように感情豊かな眼差しだった。
アークはわずかに口元を緩め、トラの頭に手を伸ばしてその柔らかい毛並みを軽く撫でた。
「……心配するな。お前を危険な目には遭わせないさ」
トラは満足したように目を細め、アークの足元に体をぴったりと預けて丸くなった。
人間不信だったはずの自分が、これほどまでに一つの命に執着し、信頼を置いている。その変化を自覚しながらも、アークはどこか心地よさを感じていた。
二:再びのオルドの町
「――おや、アーク。また顔色がよくなったじゃないか」
数日ぶりのオルドの町。
いつものように雑貨屋のカウンターに顔を出したアークに、白髪の老店主・ガルドは目を細めて笑いかけた。
「……そうか?」
「ああ。以前はどこか尖った刃物みたいな雰囲気があったが……最近は、なんだか少し丸くなったというか、人間らしい顔つきになったな」
ガルドの言葉に、アークはわずかに眉をひそめ、視線を逸らした。
人間らしくなった、か。
森で一人で生き抜いていた頃は、感情など必要なかった。ただ生きるために獲物を狩り、殺気を纏うだけでよかった。だが、この町の人々の温かさに触れ、何よりこのトラと出会ってから、アークの凍っていた時間が少しずつ動き始めているのは事実だった。
「で、今日は何の用だ? またアイアンボアの素材か?」
「いや。今日は保存食の塩と、乾パンの補充だ。それと……このトラにやれそうな干し肉を少し多めに」
アークがそう言うと、店の隅に座っていたトラが「フシュッ」と鼻を鳴らした。まるで自分の分の話だと理解しているかのような賢さに、ガルドは思わず苦笑した。
「ははっ、本当に頭のいい獣だな。まるで人間の言葉が分かっているみたいだ。おい、アーク、たまにはこの町の広場で開かれている小さな市場でも覗いていけよ。今日はいろんな地方の珍しい品が入ってきているからな」
「……気が向いたらな」
アークは買い取ってもらった素材の代金を受け取り、雑貨屋を後にした。




