月下の胎動(2)
三:市場の喧騒と、消えない記憶
オルドの町の中心にある小さな広場は、行商人や買い出しの人々でいつもより賑わっていた。
アークが足を踏み入れると、その端正な顔立ちと、背後に従える巨大な群青色のトラの姿に、通りすがりの人々が驚いて道を空ける。しかし、もう以前のような過度な恐怖の視線はなく、どこか好奇心の混じった眼差しが向けられていた。
(……町の奴らも、こいつがいる風景に慣れてきたのか)
アークがふとそんなことを考えていた時だった。
広場の隅、古い魔導具を並べている怪しげな骨董商の屋台の前で、アークの足がピタリと止まった。
そこにあったのは、無造作に放り出された一枚の古い金属片だった。
錆びつき、角が削れているその板には、見覚えのある幾何学模様が刻まれていた。
――ウェルズの丘で戦った「神の使者」の衣に浮かんでいた紋様と、完全に一致していた。
「……おい、店主」
アークは低く声をかけながら、屋台に歩み寄った。
髭を生やした痩せた行商人が、ギョッとした顔でアークと、その背後のトラを見上げてから、愛想笑いを浮かべた。
「お、おや、お若い旦那。何か目に留まりましたかい?」
「この金属片……どこで手に入れた?」
「へっ? ああ、これかい? これはね、数ヶ月前、北方の山脈を越えた先にある古い遺跡の瓦礫の中から拾ってきた代物でさ。古い時代の神殿の遺物だとか何とか言われてるんだが、さっぱり使い道が分からなくてね。ガラクタさ」
北方の山脈。古い神殿の遺跡。
アークの脳裏で、これまでの点と点が微かに繋がり始めた。
神の使者たちが執拗に隠そうとしている過去の秘密。下位層の人間から魔法を奪い、抹殺しようとする理由。そのすべてが、かつての「事故」と、この古代の神殿に眠っているのではないか。
「……これをもらおう。いくらだ?」
「お、毎度あり! じゃあ、銀貨一枚でどうだい?」
アークは迷わずポーチから銀貨を取り出し、その金属片を掴み取った。
手にした瞬間、金属片から微かな冷気が伝わってきたが、それ以上の異常はなかった。しかし、アークの胸のうちは激しく波立っていた。
四:月夜の誓いと、微かな光
その日の夜。
隠れ家の外は、しんと静まり返っていた。
アークは焚き火の明かりを頼りに、昼間手に入れた金属片をじっと見つめていた。
やはり、ただのガラクタではない。表面の錆を削り落とすと、その下から淡く発光する青白い紋様が浮かび上がってきた。
「……お前は、知っているのか?」
アークが独り言のように呟くと、隣で丸くなっていたトラがゆっくりと頭を持ち上げた。
トラは金色の瞳で金属片を見つめ、どこか切なそうな、それでいて確かな意思を宿した低い唸り声を漏らした。
――その時だった。
トラが、ふと立ち上がり、アークの左腕にそっと鼻先を寄せた。
かつて消えない火傷の跡があった場所。今はただ滑らかな皮膚に戻っているその場所に、トラの温かい鼻先が触れた瞬間、奇妙なことが起きた。
アークの左腕の奥から、ほんのりと温かい光の粒子がフワリと浮かび上がったのだ。
それは痛みなど一切伴わない、心地よい光だった。
同時に、トラの身体の奥から、かすかに人間の気配のような、懐かしい温もりが漏れ出した気がした。
「……!」
アークは息を呑んだ。
このトラは、やはりただの動物ではない。かつて神に、あるいはあの「光」に何かを奪われ、姿を変えられてしまった誰かなのか。そして、自分の左腕の傷と、このトラの正体には、どんな秘密が隠されているのか。
すべてはまだ闇の中だ。
だが、アークの心に迷いはなかった。
「どんなに遠くても、どんなに強い敵が相手でも……俺は、すべての真実を暴いてみせる」
アークが静かにそう誓うと、トラはまるでそれに応えるように、低く、力強い声を響かせた。
月明かりの下、少年とトラの影が一つに重なり合う。
物語は、いよいよ大きなうねりの中へと進み出そうとしていた。




