静寂の共犯者(1)
一:隠れ家の住人
「……そこは、お前のベッドじゃない」
アークは低くため息をつきながら、木製の粗末なベッドの上で丸くなっている巨大なメスのトラを見下ろした。
昨日の夕方、森の奥で出会って以来、このトラは一歩もアークの側から離れようとしない。森の出口まで送ろうとしても、トコトコと足元についてくるだけで、最終的にはアークの隠れ家の敷地内に勝手に居座ってしまった。
群青色の毛並みは月明かりを浴びて淡く光り、体躯はアークの身長を優に超えるほど大きい。そんな猛獣が自分の寝床を占領しているのだから普通なら一大事だが、肝心のトラはどこか優雅に前足を折り曲げ、金色の瞳をパチパチと瞬かせながらアークを見つめている。
(まあ、害はないし……むしろ昨日の今日で、妙に懐かれてるな)
アークは頭を軽く掻いた。
人見知りで他人との関わりを避けてきた自分だが、不思議とこのトラに対しては嫌悪感も警戒心も湧かなかった。何より、十年もの間、自分の左腕に呪いのようにこびりついていた「光の火傷の跡」が、このトラに触れたことで綺麗さっぱり消え去っているという事実が、アークの心を奇妙に落ち着かせていた。
「……勝手にしろ。ただし、床を汚したら許さないからな」
ぶっきらぼうに言い放つと、アークは部屋の隅に積んであった干し草を寄せ集め、そこに簡易的な寝床を作って横になった。
外では、夜の森特有の不気味な獣の遠吠えが響いている。だが、普段なら一人で聞き流すその鳴き声が、今夜はなぜか少しだけ遠く感じられた。
――翌朝。
目を覚ましたアークは、少し驚くことになった。
ベッドの端で丸くなっていたはずのトラが、いつの間にかアークの枕元に前足を揃えて座り、じっと彼の顔を覗き込んでいたのだ。その距離の近さに、アークは思わず体を引いた。
「……お前、朝から何をする気だ」
『グル……』
喉の奥を鳴らすような低い声が、トラの口から漏れる。それは威嚇ではなく、どこか甘えるような、奇妙に人間じみた響きを含んでいた。
アークは小さく息をつき、昨日のうちに狩っておいた獲物の肉を切り分けて皿に盛ると、トラの前に差し出した。
「ほら、朝飯だ。これを食ったら、今日は一緒に町へ行くぞ」
「グルァ……!」
トラは嬉しそうに低い声を漏らすと、ものすごい勢いで肉を平らげ始めた。その野生的な食べ方に苦笑しながら、アークは自分の身支度を整えた。
二:異例の連れ立ちは町を行く
数日後。
アークは、数週間に一度の買い出しのため、再び『オルド』の町へと足を運んでいた。
いつもなら一人でひっそりと町に入り、用事を済ませたらすぐに森へ引き返すのだが、今日の道行きはいつもと大きく異なっていた。
アークのすぐ後ろを、あの群青色の毛並みを持つ巨大なトラが、まるで飼い犬のように従儀正しく歩いていたからだ。
「おい、あれを見ろよ……!」
「あんなでかい魔獣を連れてるぞ、おい……」
町の入り口に差し掛かった瞬間、通行人たちが一斉に足を止め、青ざめた顔で道を空けた。
無理もない。どれほど人里離れた辺境の町であっても、人間を遥かに超える巨体の猛獣が、リードもつけられずに少年の後ろを歩いている光景など、一生に一度見るかどうかの異常事態だ。
アークは周囲の怯えた視線に気づき、わずかに眉をひそめた。
(やっぱり、連れてくるべきじゃなかったか……?)
暴れ出したり、町の人を脅かしたりする心配はないと分かってはいるが、他人に恐怖を与えるのは本意ではない。アークが立ち止まり、後ろを振り返ってトラを制そうとしたその時だった。
「――おや、アークじゃないか!」
石畳の小道の先から、あの白髪の老店主・ガルドがひょっこり顔を出した。
ガルドはアークの姿を見つけると、いつも通りの豪快な笑い声を上げながら近づいてきた……が、そのすぐ後ろに控える巨大なトラの姿を視認した瞬間、ぴたりと動きを止めた。
ガルドの足が、ガクガクと小さく震える。
「あ、あーク……お前、それ……どこから連れてきた化け物だ……?」
「……森で拾った。名前はまだない」
「拾ったってレベルじゃねぇぞ! それ、一歩間違えたら町が壊滅する大物じゃないか!」
ガルドが冷や汗を流しながら叫ぶと、後ろに隠れていた雑貨屋の常連客たちも一斉にざわついた。
だが、その緊迫した空気を破ったのは、いつものあの子供たちの声だった。
「あ! アークのお兄ちゃんだ!」
「うわあ、大きなネコちゃんだー!」
あの時、木の実をあげた小さな女の子が、恐怖心など微塵もない様子でトコトコと駆け寄ってきた。周囲の大人たちが慌てて「おい、危ない!」と止めようとするが、それよりも早かった。
トラは、女の子の姿を認めると、まるで危害を加えないことを証明するかのように、巨体をスッと低く伏せ、ふさふさとした大きな頭を少女の前に差し出した。
女の子はまったく怯えることなく、その群青色の柔らかい毛並みを両手でギュッと抱きしめた。
「ふかふかだぁ……! お兄ちゃん、この子のお友達なの?」
アークは少し気まずそうに目を泳がせたが、やがて小さく息を吐き、頭をかいた。
「……ああ。そんなところだ」
そのアークのどこか優しげな横顔を見たガルドは、呆れたようにため息をつき、やがて声を上げて笑った。
「まったく……お前という奴は、魔物まで懐かせてしまうのか。まあいい、この町で暴れねぇなら、歓迎してやろうじゃねぇか。ほら、お前たちも道を開けな!」
ガルドの言葉に、町の住人たちもようやく警戒を解き、苦笑しながら道を開けてくれた。
アークは周囲の人々に軽く会釈を返し、トラを従えて雑貨屋へと歩き出した。




