光の影と森の底(2)
四:帰路の違和感
オルドの町を後他在、アークは再び鬱蒼とした木々の茂る森へと足を踏み入れた。
先ほどガルドから受け取った銀貨の重みが、腰のポーチから微かに伝わってくる。今日の稼ぎがあれば、しばらくは塩や乾パンといった保存食を買うのに困らない。
(……温かいスープ、か)
ガルドの言葉を、アークはなんとなく思い返していた。
町の酒場から漂ってきた、肉と根菜を煮込んだスープの匂い。あの匂いを思い出すだけで、乾いた喉がわずかに鳴る気がする。森での生活では、常に冷えた干し肉や自分で炙った獲物の肉が中心だ。美味しくないわけではないが、誰かと囲む温かい食事というものを、アークは十年間知らずに生きてきた。
「……いや」
アークは頭を振って、雑念を追い払う。
自分には、町に長居する理由はない。いつの日か、あの「光」の正体を突き止め、両親を奪った連中に報いを受けさせる。その目的のために生きているのだ。町の人々と深く関わりすぎれば、いつか彼らを自分の戦いに巻き込んでしまうかもしれない。
その時、ふと、森の空気がピタリと静まり返った。
(……? 鳥の鳴き声が消えた?)
これまでのサバイバル生活で培われた野生の勘が、全身の産毛を逆立てる。
ついさっきまで木々の間を飛び交っていた小鳥たちの声が、嘘のように途絶えていた。風の音すらない。不気味なほどの静寂が、アークを取り囲む。
アークは右手を腰の剣の柄にそっと添え、足音を殺して立ち止まった。
視線を前方へ走らせる。うす暗い木立の隙間、苔むした大岩の陰に、何か「異物」がある。
――あれは、魔物ではない。
人工的な気配。だが、獣のそれとも違う。
まるで、冷たくて鋭利な刃物が、背筋にピタリと当てられているかのような悪寒が走った。
「……誰だ?」
アークの低い声が、静まり返った森に溶けていく。
返事はなかった。しかし、大岩の陰から、わずかに草木が擦れる音が聞こえた。
五:傷だらけの気配
アークは警戒を緩めず、ゆっくりと数歩前に出た。
剣の柄から指を離さない。いつでも無詠唱の魔力圧縮を放てるよう、右掌に意識を集中させる。
大岩の陰を回り込んだアークの視界に飛び込んできたのは――息を呑むような光景だった。
そこに倒れていたのは、一頭の巨大なメスのトラだった。
いや、ただのトラではない。全身が深い群青色の毛並みに覆われ、その体表には幾筋もの生々しい裂傷が刻まれていた。傷口からは、どす黒い血ではなく、まるで微かに発光するような奇妙な液体が滲み出している。
(なんだ、この魔獣は……? いや、普通の魔物じゃない)
アークは眉をひそめた。
この辺りの森には様々な魔物が生息しているが、これほど奇妙な特徴を持つ生き物を見たことがない。しかも、そのトラは瀕死の状態だった。荒い息をするたびに、巨体が微かに震えている。
トラは、アークの気配に気づくと、ぼんやりとした黄色の瞳をゆっくりと開いた。
恐怖の色はない。ただ、すべてを諦めたような、途方もなく深い絶望と疲労の色がそこにはあった。
トラはアークを見上げると、うめき声を上げながらも、威嚇するように低い唸り声を漏らした。
『近寄るな』――そう言っているかのようだった。
普通なら、危険を避けてその場を立ち去るか、あるいはトドメを刺して素材として回収するかだ。
だが、アークはなぜか、その場から一歩も動けなかった。
(……この眼……どこかで……)
心の奥底で、何かが引っかかった。
四歳のあの夜、すべてが光に飲み込まれる直前、母親が抱えていた何かに似ている気がした。いや、それは単なる錯覚かもしれない。だが、この傷だらけで、孤独に死を待っているような姿が、かつて焼け野原に取り残された自分自身の姿と重なって見えたのだ。
「……馬鹿なことを」
アークは小さく吐き捨てると、警戒を解かないまま、トラにじっと歩み寄った。
トラは最後の力を振り絞るように牙を剥き、威嚇の姿勢をとる。しかし、体力の限界か、その巨体はガクリと崩れ落ち、再び地面に伏してしまった。
アークは屈み込み、その傷だらけの体にそっと手を伸ばした。
素手で触れようとしたその瞬間、アークの左腕――あの消えない火傷の跡が、まるで熱を持ったかのようにピクリと疼いた。
「っ……!」
微かな痛みに顔を歪めながらも、アークはためらわずに手を伸ばし、トラの温かい毛並みに触れた。
その瞬間、奇妙な現象が起きた。
アークの左腕の火傷の痕跡から、淡い光の粒子がスッと漏れ出し、トラの傷口へと吸い込まれていったのだ。
六:森の底の誓い
「なっ……なんだ、これ……?」
アークは驚愕して手を引っ込もうとしたが、それより早かった。
トラの体を包んでいたどす黒い瘴気のようなものがみるみるうちに浄化され、深い裂傷が驚異的なスピードで塞がっていく。
そして、それだけではなかった。
アークが常に重く感じていた左腕の古傷――その皮膚の奥で脈打っていたような熱や痛みが、嘘のように消え去っていく。十年もの間、自分の肉体に刻まれ続けていた「光の火傷の痕跡」が、まるで最初からなかったかのように、綺麗さっぱりと消え失せていたのだ。
「……私の傷が、消えた……?」
呆然とするアークの前で、巨大なメスのトラは、ふっと大きく息を吐き出した。
先ほどまでの瀕死の状態が嘘のように、その呼吸は力強く、安定したものに変わっていた。
トラはゆっくりと立ち上がり、二歩、三歩とアークに近づいてきた。
敵意は完全に消えていた。代わりにそこにあったのは、深い信頼と、どこか懐かしむような穏やかな眼差しだった。トラは大きな頭を、アークの膝にそっと擦り寄せた。
「……お前……」
アークは言葉を失った。
人見知りで、誰とも群れず、他者と関わることを拒絶してきた自分が、今、一頭のトラと奇妙な縁で結ばれてしまった。
自分の左腕の傷が消えたこと。そして、このトラがただの獣ではないという予感。
頭の中で、いくつもの疑問符が渦巻く。しかし、不思議と恐怖や嫌悪感はなかった。むしろ、十年ぶりに一人ぼっちでなくなったような、奇妙な安心感が胸の底に広がっていた。
ガサリ、と再び遠くの茂みが揺れた。
それは森の風の音か、あるいは遠くから迫る別の気配か。
アークは立ち上がり、その美しい顔立ちを引き締めた。
もう自分は一人ではない。背後には、あの奇妙なトラがいる。
「……行くぞ」
アークは呟くと、振り返ることなく、しかし確かな足取りで自分の隠れ家へと歩き出した。
メスのトラは、まるで影のようにその足元に寄り添い、静かに後を従う。
これは、世界を揺るがす「神」との戦いへ向けての、ほんの小さな、しかし決定的な始まりだった。




