光の影と森の底(1)
一:忘却できない炎
冷たい夜風が、傷口にしみ入るように痛んだ。
いや、それは実際の傷ではない。記憶が焼き付いた、魂の古傷だ。
少年――アークは、目の前で揺らめく焚き火の光を見つめながら、無意識のうちに左手で自身の左腕をきつく掴んだ。長袖の布越しであっても、その皮膚の下には、まるで幾筋もの稲妻が焼き付いたような、醜くも神々しいまでに白い火傷の跡が刻まれている。
十年前。
アークがまだ四歳だった頃の記憶は、ひどく断片化している。しかし、あの夜の光景だけは、昨日起きたことのように鮮明だった。
平穏だった小さな家。突然、夜空を割り裂くように降り注いだ、目が眩むほどの『光』。
父親は何かを察知したように血相を変え、母親と泣き叫ぶアークを無理やり裏口から逃がした。逃げる途中で振り返ったアークの目に映ったのは、家ごと、そして故郷の集落ごと、すべてが白熱した光に飲み込まれ、一瞬で蒸発していく光景だった。
『生きろ』
それが、両親の最後の言葉だったかどうかすら定かではない。ただ、逃げ惑う最中に左腕に受けた一撃が、この消えない火傷の跡を残した。
気がついたとき、周囲には一面の焼け野原が広がっていただけで、人間の気配はどこにもなかった。
そこから、アークの孤独なサバイバルが始まった。
四歳の幼児が生き延びられるはずのない深い森で、彼は生きるために魔力を解放し、剣を握った。誰も頼る者はいない。泣いている暇すらなかった。飢えと寒さ、そしていつ襲い来るか分からない魔物の牙をかいくぐるうちに、アークの心から「子供らしさ」はすっかり削ぎ落とされていった。
そして今、彼は十四歳になっていた。
「……ふっ」
アークは低く息を吐き、思考を現実へと引き戻した。
無駄な感傷に浸っている暇があれば、明日のための罠の仕掛けでも確認した方がいい。焚き火の残り火を足で崩し、木漏れ日の差し込む粗末な木製のベッドに体を横たえた。
明日も、生きるために森へ入る。それだけの話だ。
二:血に染まらない刃
翌朝、アークはまだ霧が晴れないうちに目を覚ました。
身にまとっているのは、動きやすさを重視した黒ずんだ革の軽装鎧だ。腰には、手入れの行き届いた一振りの実戦用の剣が下がっている。
「……気配が二つ」
森の湿った空気を吸い込みながら、アークは微かに眉をひそめた。
百歩ほど離れた茂みの奥。人間ではなく、魔物の足音だ。それも、この辺りでは厄介な部類に入る『アイアンボア』の群れだった。鋼鉄のように硬い外皮を持ち、突進力だけで大木をへし折る巨獣だ。
ガサリ、と草木が揺れる。
次の瞬間、木々の間から巨大な猪の魔物が姿を現した。赤く濁った目をギラつかせ、涎を垂らしながらアークに向かって一直線に突進してくる。
アークは慌てない。恐怖で足がすくむことなど、この十年間で一度もなかった。
彼は足元を微動だにせず、ただ右手をすっと突き出した。
詠唱はしない。呪文の構築などというまどろっこしい手順は、アークの体に染みついていない。彼にとって魔法とは、呼吸をすることや、腕を動かすことと同義だった。
――無詠唱・魔力圧縮『無形の一閃』。
声なき呪文が発動した瞬間、アークの右掌から目に見えないほどの超高圧の魔力の刃が放たれた。
音すらない。ただ、風が鋭く裂ける音だけが響いた。
ズシャッ!
突進してきたアイアンボアの巨体が、ピタリと動きを止めた。
一拍遅れて、その頑丈な頭部から胴体にかけて、綺麗に、あまりにも滑らかな切断面が生まれ、巨獣の身体は左右に崩れ落ちた。鮮血が湿った土を濡らすが、アークの衣服や肌には一滴も血はついていない。
「……素材として使えそうなのは、牙と上質な皮か」
アークは淡々と呟くと、慣れた手つきで解体用のナイフを取り出した。
冷酷なまでの手際よさだった。生きるために必要だから狩る。そこに感情の揺らぎはない。森の掟に従い、淡々と命を刈り取り、生きる糧を得る。それがアークの日常だった。
しかし、その冷徹な戦いぶりとは裏腹に、アークの内面は決して荒んでいなかった。むしろ、血塗られた世界を生き抜いてきたからこそ、彼は生きとし生けるものの命の重みを誰よりも知っていた。
「……終わったか」
手早く荷物をまとめ、アークは森の出口へと歩き出した。
今日は、数週間に一度の「町へ行く日」だった。
三:不器用な誠実さ
深い森を抜けた先には、『オルド』と呼ばれる小さな辺境の町があった。
石造りの低い家々が並び、常にうっすらとした活気と、どこか煤けたような寂れが同居している町だ。アークが森から出てくるとき、いつも最初に出迎えるのは、石畳の小道で遊ぶ子どもたちの笑い声だった。
「あ、アークのお兄ちゃんだ!」
小さな女の子が、泥だらけのボールを追いかけながら跳ねてきた。
アークは思わず足を止め、ぎこちなく身構えた。人と話すのは得意ではない。むしろ、どう表情を作ればいいのか分からないため、いつも無愛想な顔になってしまう。
今日も今日とて、アークの整った端正な顔立ちは、冷ややかな仮面のように固まっていた。切れ長の涼しげな目元に、少し伸びた黒髪が影を落としている。顔立ちそのものは目を見張るほど整っているのだが、無表情で近寄りがたいため、初見の旅人からは恐れられることもしばしばだった。
しかし、オルドの住民たちは知っている。この少年が、どれほど誠実で信頼できるかを。
「……危ないから、そんなところでボール遊びをするな」
アークが発した声は、低く、少しぶっきらぼうだった。
だが、その手には、昨日の夜に森で採ってきたばかりの、甘い香りのする木の実が握られており、少女の小さな手にそっと押し付けられた。
「わぁ! 木の実だ! ありがとう、アーク兄ちゃん!」
「……まっすぐ家に帰れよ」
少女が嬉しそうに駆け出すのを見送ると、アークは小さく息を吐き、頭を軽くかいた。
「……何やってんだ、俺は」
柄にもないことをしたという自覚はある。だが、町の子どもたちが笑顔でいるのを見ると、あの焼け野原の記憶の冷たさが少しだけ和らぐような気がするのだ。
そのままアークは、町の中心部にある小さな雑貨兼ギルドの窓口へと足を向けた。
重い木の扉を開けると、カウンターの奥から白髪の老店主――オルドの顔役でもあるガルドが顔を出した。
「おお、アークか。待っていたぞ。また一段と鋭い目をしやがって」
「……ガルドの爺さん、いつものだ。アイアンボアの牙と、上質の薬草を持ってきた」
アークは背負っていた大きな布袋をカウンターの上にドサリと下ろした。
ガルドは袋の中身を確認すると、目を丸くした。
「おいおい……これ、一級品の牙じゃないか。お前、一人でこれを狩ったのか?」
「ああ。森の奥でな」
「相変わらず怪物めいた野郎だ。……だが、お前、少し痩せたか? ちゃんと飯は食ってるのか?」
「……食ってるよ」
嘘をつくのが下手なアークは、少しだけ視線を逸らした。
ガルドは苦笑しながら、相場以上の銀貨をアークの手に握らせた。
「たまには町の酒場で、温かいスープでも食っていけ。お前のその顔に免じて、店のおっさんも嫌な顔はしねぇよ。お前はうちの町の自慢の若者なんだからな」
「……いらない。すぐに森に戻る」
そう言って背を向けようとしたアークだったが、店を出る間際、店主や周囲の商人たちからかけられる「いつも助かるよ」「気を付けてな」という声に、わずかに足を止めた。
森の中では、自分は常に一人ぼっちだった。
しかし、この町にいるときだけは、奇妙な温もりに包まれる。
自分が何者で、両親を奪った「光」の正体が何なのかを追い求めなければならないという焦燥感が、この瞬間だけは少しだけ薄れるのを感じていた。




