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「……何が、起ころうとしているのです?いや、一体何をしようというのですか?」
「そうだなぁ。例えば、これまでの聖女に対する概念を覆すような大それたことさ」
曖昧な言葉で濁しているように聞こえるが、実際は、その言葉通りとんでもないことをしようとしているのだろう。
この方は元来、そういう人物なのだ。
「それはリディアにどのような影響を与えるのですか?」
聖女に対する概念を覆すというのであれば、聖女候補である彼女にとっても無関係ではあるまい。
「さぁ、どうだろうね」
「……殿下」
「ふふ、お前は本当にリディアのことが大切なんだねぇ」
「当たり前でしょう。彼女は私の婚約者なのですから」
「婚約者、ね」
意味深に笑みを深める殿下に視線を向けていると、
「僕はそもそも別の奴を彼女の婚約者に据えるつもりだったのに、何がどうなったのやら、いつの間にか君の名前があの子の筆頭婚約者に挙がっているんだからね。びっくりだよ。しかも、僕の知らない間にアルファドに確定してるじゃない?」ふふふと鼻の奥で笑ようなその顔は、決して不満そうではない。
そもそも、俺がリディアの婚約者になることに異議があるのなら即効、却下できる立場にある。それを考えると、殿下は全て何もかも承知だったということだ。
「もっと、僕にとってもあの子にとっても都合の良い人間はいたんだけどねぇ」
君は本当に扱いづらいから。と、やはりどこか愉しげに殿下は言った。
「殿下にとって都合の良い人間がリディアの婚約者となることに、一体、何の意味があるというのです」
「……」
殿下は途端に口を噤んで双眸を細めた。
「…政治的な思惑でもあるのですか」
そういったものにリディアが巻き込まれるかもしれない可能性を考えると、自然と声に不穏なものが混じる。第一皇子殿下に対してあまりにも不遜な態度ではあるが、殿下はなぜか昔から俺にはそういった態度を許していた。
「政治的な思惑はあったりなかったりするよ」
「……殿下」
「仕方ないじゃない。だって、聖女というのはそういう存在なのだから」
「殿下」
「君がどれほどに抵抗しようとも、君がどれほどに優秀な騎士であろうとも、君が例えば皇族だったとしても、これはきっと避けられないことなんだ。あの子が聖女である限り」
「殿下、」
「ふふ……憤懣やるかたない」
「……」
「って感じだねぇ」
首を傾いだ殿下がこちらを見据える。
口元に浮いた笑みは抜けることのない癖なのか、真面目な顔をしていてさえ失われることがない。
「とにかく。誰が婚約者になるかは未確定ではあったけれど、僕の腹心の部下をその役に据えるということは初めから決めていたんだ」
殿下にとって、結婚というのは政略以外の何の意味も持たないようだ。
そこに、本来据えられるはずだった「腹心の部下」とやらの意志は伴わない。
「だからつまり、君があの子の婚約者になったからと言って何かが大きく変わるわけはないんだけどねぇ」
すっと動いた殿下の視線を追えば、祈りを終えて立ち上がるリディアの姿が映る。
その立ち姿は息をするのも忘れるほどに美しい。
人によれば、そうと見えない人間もいるに違いないが、俺にとってはこの世界の何よりも誰よりも美しい女性だ。
「殿下が御自ら、聖女候補の婚約者を決める理由とは何なのですか? その役目は殿下でなくても良かったはずです」
「いいや、僕でないと駄目なんだよ」
「本来、その役目は神殿が負うべきものなのでは?」
「違うね。そもそも、あの子については全ての裁量権が僕にある」
「…それは、何と」
横暴な、と口にしようとして口を噤む。
先に続く言葉を予想していたのだろう。殿下はやはり薄く笑みを浮かべるだけだ。
そうだ、彼はこの国の第一皇子であるからそういった横暴なことも許されるのだ。だからこそ、己を律している…はずだったのだが。
「そんな……今から人殺してきます、みたいな顔しないでよアルファド。僕があの子の全てを決められる立場にあるからこそ、あの子を君に任せることができるんだから」
「他の男を婚約者にしようとしていたくせによく言いますね」
「ふふ、まあまあ落ち着いて。僕だって色々考えているわけ」
礼拝堂から辞すリディアの視線が一瞬だけこちらを向く。
その瞬間が、一番好きだ。
触れられるほどの距離ではない。会話もない。ただ、その一瞬だけかち合う目線が、紛れも無く俺に向けられた視線が、好ましくてしょうがないのだ。
他の誰にも分からないだろうその刹那。俺とリディアの二人だけにだけは分かる。
お互いがお互いを見ていると。それがこの心に、満ち足りた気分を運んでくる。
婚約が成立する前はなかったことだ。
「……それで、アルファド。最初の問いに戻りたいんだけど」
「……ええ」
「君は、あの子の為に、あの子を捨てることができるね?」
その真剣な目に射抜かれて、今度こそ誤魔化すことはできないと知る。
捨てるとは、冗談でも言いたくなかった。
言葉にするのさえおぞましい。
……しかし、
「それが、彼女の為になるのなら―――――」
悪人と蔑まれようと、人でなしと罵られようと、きっとできるだろう。
「……そう。まぁ君ならそう言うと思ったけれどね」
幾人かの護衛に囲まれて礼拝堂から立ち去るリディアの背中に視線を送っていると「あの子は泣くかもしれないねぇ」と、何の感慨もなさそうにぽつりと呟く。
その声が妙に、耳についた。
*
*
騎士になろうと決めたとき、この命は国と陛下の為に捧げると決めた。
それはつまり、信念であり願望であり理想でもあった。
陛下というのは一個人を差しているのではなく、あくまでもこの国の皇帝陛下というわけであるから、いずれそうなるであろう第一皇子殿下の護衛というのはまさしく理想を形にしたようなものだった。
この役目を誇りに思っているし、信念を曲げるつもりもない。
ただ、彼女に出会ってから、その想いは少し形を変えたように思う。
単に命を捧げるというのとは違う。
彼女が、――――――リディアという存在があるからこの国を護ることに意味があるのだと思えるようになった。
今代最後の聖女候補であれば、彼女が聖女になるのはほぼ確定しているようなものだ。彼女はいずれこの国の礎となる。
この国を支える柱となるのだ。
諸外国にとっては、もしかすると皇族よりも重要な立場かもしれない。
だからこそ、彼女を護るための盾は一つでも多いほうが良い。
婚約者たる自分は言うまでもないが、只人の自分ができることには限界がある。皇族やひいては国が彼女を護るのであればそれに越したことはない。
ならば、その国を護ることこそが自分の役目なのかもしれないと、そう思うようになった。
それなのに。
今、目の前で起ころうとしているコレは何なのだ。
「……殿下」
第一皇子殿下の執務室に赴けば、その重厚な作りの机に並んだ様々な蔵書が目に飛び込む。
保護術の組まれた特殊なインクを使用して装丁されたその蔵書には見覚えがあった。
幼い頃、それを手にした父親を見たことがある。
幼心に興味を抱き、その本に触れようとして叱責された。
―――――禁書だ。
「君のご父君が存命であればもっと詳しい話を聞けたんだろうけどね」
「……それは、どのような話ですか?」
「ふふ、可笑しなことを言うねぇ。君のご父君は世界にも名を馳せる召喚術の権威じゃないか」
「召喚、術、」
確認も含めて殿下の言葉を鸚鵡返ししたにも関わらず、振り払うことのできなかった嫌な予感にその声は掠れた。
禁書と並んで置かれているのは聖女に関する記述がされている書物だ。
この本は殿下の執務室の本棚に常に並んでいたものだった。入れ替わりの激しいその本棚で、唯一、一度も動かされたことのなかったものだ。
国立図書館にも並んでいるごくごく普通の書物で、むしろ、その本がなぜ殿下の執務室に置かれているのか不思議に思っていたほどだ。
「ねぇアルファド。面白い話を聞かせてあげようか」
その十数冊にも登る蔵書を見るともなしに眺めていると、座っていた殿下が背もたれにゆったりと体重を預けて言った。
面白い話というわりにその顔は真剣そのものだ。
「まず、君に聞きたいのだけれど」
「…はい」
「リディア以外の聖女候補が何人居たのか知っている?」
「ええ、確かリディアを含めて五人だったはずですので、リディア以外ということであれば四人かと」
「だよね。それで間違いないよ。対外的にはね」
「……対外的……?」
おもむろに体を起こした殿下が執務机の引き出しを開ける。
普段は鍵が掛かっている引き出しだ。
そこから数枚の書類を取り出した。
「これ、見てみて」
机越しに渡された紙に目を通すと、まず一番初めに十数名の名前が書かれているのが分かった。その中にリディアの名前もある。
「……これは?」
手に持った書類はそのままにして顔を上げれば、殿下は薄い笑みで返してきた。
「最後らへんに記載されている五人が、君の知っている聖女候補だよ」
「……それはどういう意味ですか?」
「分からないかな?」
何度見ても、最後の五人以外の名前は覚えがない。
そもそも、その五人についてさえ記憶が曖昧で、知っていると断言できるほどではない。リディア以外は。
「ソレ、全員、今代の聖女候補の名前だよ」
何でもないような、軽い口調だった。
「―――――は?」
思わず漏れた自分の間抜けな声が執務室に響く。
改めて書面に目を落としたが、ざっと見ただけでも十五人の名前が記載されている。
しかし、
「……初めの方に記載されている家名は見覚えがあります」
「それはそうだろうね。そこらへんに記載されているのは名家のご息女だから」
「……名家の…それはつまり、貴族ということですね?」
「そうなるね」
「しかし、今代の聖女候補に貴族出身の女性はいなかったはず……」
「そうだね」
「……殿下、」
はぐらかすような物言いをしているわけではない。
しかし、何を伝えようとしているのかが全く分からない。自然と眉間が寄っていく。
「まぁまぁそんな怖い顔しないでよ。ちゃんと話すからさ」
おもむろに立ち上がった殿下がティーワゴンに準備されていたポットから紅茶を注ぐ。侍女がいないのは内密の話をする為だろう。
「僕が入れる紅茶を飲める人間はそう多くないよ」と笑いながらカップを手渡される。
暗に座るように促されているのだと気づき、応接台のほうへと移動した。
大理石のテーブルを挟んで向かい合わせで座れば、殿下は「あまり愉しい話ではないよ」と、いつもと変わらない笑みを湛えたままカップに口をつけた。
黙ったままその顔を見つめていると、
「……今代最後の聖女候補の名前はリディア。それ以外の四人がどうなったのか知ってる?」
殿下は静かに言った。
「一人か二人は病死したと聞いていますが。他の者は確か故郷に帰されたのだと……」
そこまで言って、この会話の不自然さに気づく。
分かっていることをわざわざ聞く人間はいないからだ。
つまり。
「……違うのですか?」
殿下は黙ったまま微笑みを深くした。それが答えなのだろう。
「本当の意味で故郷に帰ることができたのは、君が指摘した名家出身のお嬢さんだけだよ。神殿に上がってすぐに聖女候補から降りて家に帰ってる。そして早々に結婚したよ。二度と聖女候補として神殿に呼ばれないようにね」
「……ちょっと…ちょっと待って下さい。本当の意味で故郷に帰る……というのは、つまり、一体どういう意味ですか?」
話している内に背中が震えて体温が下がっていく。
言って欲しい。でも、言って欲しくない。
矛盾した想いが体の中を渦巻く。
それを知ってか知らずか、殿下は双眸を細めたまま言った。
「つまり、生きて故郷に戻ることができたのは貴族のお嬢様だけだったってことさ」
革張りのソファにゆったりと腰掛けた殿下の口元が一層柔らかく笑みを作る。
顔に絵の具を塗って書いたような、もしくは面でも被っているような、笑っているけれど笑っていない顔だった。
―――――生きて戻った?
指先がぴくりと震えて、持っていた書類が滑り落ちる。
運よく応接台に落ちたそれが、風もないのにカサリと音をたてた。
「アルファド、良いかい?君はこの話を墓場まで持っていくんだよ。いや、死んでさえも尚、口を噤んでいなきゃならない。―――――できるかい?」
これは神殿が犯した大罪だよ。
そしてそれと同時に、この国が歩んできた歴史でもある。秘め事を囁くみたいに、殿下が声音を落として言った。
返事をしようと口を開けば、
「口を噤むことができないなら、今ここで君の首を落としても良いけどぉ」どうする? と返答を迫りながらも、否やは許さないと圧力を掛けてくる。
素直に「はい」と言うのは違う気がして「……初めから、巻き込むつもりだったのですね?」と、問い返してみれば、殿下は「はは、」と満足気に笑った。
「君のそのはっきりとした物言いは大変好ましく思うよ。だけど、これからはそれを封印してもらわなくちゃならない。しばらくの間、だけどね」
想いを秘めるというのはなかなか大変だと思うけど、
「……あの子を失いたくないと思うなら、絶対に悟られてはいけないよ」できるね?と、重ねて問われる。
肯けば、きっと後悔するだろうと思った。
だけど、首を振ればもっと後悔するだろうことも分かっていたし、元より、そんな選択肢ははなから用意されていないことを知っていた。




