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「僕が彼女たち、つまり聖女候補生に出会ったのは本当に只の偶然なんだ」
第一皇子殿下ともなれば気軽に外出などはできない。
幼少期から皇宮に監禁されていたようなものだったと言う。それは俺もよく知っていた。学友として選ばれたものの自由に会うことはできず、事前に申請を出さなければ当然、皇宮内に入ることはできなかった。
しかし、殿下がそのことに不満を漏らしたことは一度もない。
きっと幼少期から、己が何たるかをよく理解していたのだろう。
守られてしかるべき存在であること、それと同時に自由を奪われた人間であるということをよく知っていた。
「唯一、許されていたのが神殿への礼拝だったんだよ」
今でもほぼそうだね。だから、毎月の礼拝にも深い理由はない。と殿下は紅茶を口に含む。
「君は、先代の聖女に会ったことがある?」
「……大聖堂で祝詞を捧げているお姿なら拝見したことが」
「そうなんだ。すごく綺麗な人だったよね」
「……ええ、はい」
「懐かしいなぁ……。まぁ、彼女はだいぶご高齢だったけれどね」
あの年まであんなに健康で大往生だったはずなのに、その目はいつも憂いを帯びていた。と殿下は遠くを見る。―――――その人が今わの際に望んだのは殿下との面会だった。
聡明な殿下であるが、初めから大人だったわけではなく、当時はもちろん幼かったはずだ。
そんな彼と、わざわざ死の間際に会おうと思うなんて、よっぽどの想いがあったのだろう。
「彼女が言ったんだ。次代の聖女候補たちの未来を貴方に託します。って」
「次代の聖女候補たちの……?」
「うん。つまり、リディアたちのことだね。だけど、僕はそのときほんの子供で。その言葉の意味もよく分からなかった」
殿下はふんと自嘲するように鼻を鳴らしてから、実に優雅な仕草でカップを置いた。
「彼女はねぇ、言ったんだよ。私は駄目だったって。うわ言みたいに何度もね」
結局、意味が分からず聞き流してしまったのだとぼんやりと宙を仰ぐ。
そして、今度は応接台の上に置かれた書類を手に取った。
「つまりねぇ。僕はその託されたはずの未来を知ろうともせずに……潰しちゃったんだよ」
殿下の細い指先が書類の上を滑った。
ほんの僅かに目元を細めながら、その指先は誰かの名前の上を往復している。
「予兆はあったんだ。もしかしたらとんでもないことが起こっているかもしれないという予感のようなものはね。だけど確信はなかった」
いつの間にか、一人二人と数を減らしていく聖女候補。
故郷に帰ったのだと聞かされて事実確認をしてみれば、書面上は確かにそうなっている。
しかし、実際にその行方を追ってみれば神殿を出た形跡さえなかった。
だからとりあえず、歴代の聖女候補の行方を確認しようと思い至ったのだと、殿下は立ち上がり、今度は一冊の本を差し出す。
真っ黒な表紙でタイトルも執筆者の名前もない。背表紙も裏表紙も真っ黒で、文字が消えてしまったというわけでもなさそうだ。
「……これは?」
魔術が掛けられている様子はないのに、不気味な感じがして開くのにためらいを覚える。
「それを探し出すのに何年もかかった。神殿の禁域に隠されてたんだ」
殿下からの思わぬ告白に本を取り零しそうになって慌てて両手で握り締めた。
禁域というのはつまり、誰の立ち入りも許されない場所ということだ。それは皇族といえど例外ではない。
そこに仕舞われていた本が今ここにあるということは。
当然、正規に持ち出されたものではない。
どうやって持ち出したのかを問おうとして殿下の微笑に制された。
こういうことは日常茶飯事なので受け流そうと思えばできるのだが、事が事なだけに素直に口を噤むことができない。
月に一度の礼拝に意味はなかったというが、あれほど熱心に通うのには何か目的があったのかもしれないと今更ながらに思う。
信心深いとされるこの方が、神にそこまでの信頼を置いているわけではないということを知っているから。
「色々長ったらしく書いてあるけどね、結局、こういうことなんだよ」
一向に本を開こうとしない俺に焦れたのか、殿下がさっとその本を取り上げる。
「聖女候補は淘汰されるんだ」
「……淘汰?」
「そう」
それはつまりどういうことか、と訊こうとしてできなかった。
もう既に答えは出ていたからだ。リディア以外の聖女候補は皆、死んだ。つまり、そういうことなのだ。
でも、そういうことであるなら。
「リディアは…選ばれたということでは……?」
淘汰された結果が、リディアなのでは―――――。
疑問を口にしたというよりは、そうであって欲しいという願いをこめていた。
しかし殿下は無情にも首を振る。
「聖女候補が必ず聖女になれるというわけではないんだよ。つまり、最後まで残ったとしても候補であるうちはその不文律からは外れない。まだ、淘汰されている最中だと言えるね」
一つだけ大きく鳴った心臓を諌めるように隊服の胸辺りを握り締めた。
騎士として魔獣と戦ったこともある。ある意味、戦場よりも過酷とされる国境警備隊に配備されたことさえあった。殿下の側近となるのであれば、一刻も早く実力を示す必要があったから、そのことはむしろ良い機会だと思えた。
どんな場においても緊張を強いられることこそあれ、恐怖を感じることはなかったのに。
こんな得体の知らないものに対峙したような、足の底から競り上がってくるような恐怖に捕らわれたのは初めてかもしれない。
「……リディアが、このままでは駄目かもしれないと仰ったのは……」
聡い殿下が、正面から見据えた「腹心の部下」の心情を察することができないはずはない。俺が何を知りたがっているのか分かっているはず。
初めにそれを聞いたときははっきりとした答えは得られなかった。
しかし、肝心なところで言葉を濁すような方でもない。
「このままじゃきっと、彼女は死ぬよ」
はっきりと言い放ってから、困ったように眉を歪めた殿下が静かに笑みを落とす。
「…ああ、でも何だろうね。自分で言っておきながら、これは結構、くるね……」
何か大きなものを吐き出すかのように両肩から力を抜いて、ぐったりと背もたれに上半身を預けた殿下が天井を仰ぎ見ている。
殿下とリディアの関係については詳しく知らない。が、この方が以前から彼女のことを気にしていたのは知っている。それは単に、第一皇子殿下としての職務だと思っていたのだが。
殿下が禁域から蔵書を持ち出したことを考えると、単なる役目の上だけでの関係ではないだろう。
「彼女が死ぬかもしれないとする根拠は何ですか?」
努めて冷静に問えば殿下は姿勢を正すこともなく、ぽつりと言った。
「あの青冷めた顔、痛みに耐えるような仕草、あの眼差し、全てに見覚えがある」
確かに顔色は悪かった気はする。
しかし、そこまで悪いのだろうか。疲労からくるものだと言われれば納得してしまう程度のものだ。
大神殿に勤めることができる人間は限られているから必然的に絶対数が少なくなる。その為、一人一人にかかる負荷は大きい。寝る間も惜しむほどの激務だということも聞いたことがある。
だから、そういうものだろうと信じ込んでいた。
何より、彼女が大丈夫だと言ったから。
「気づかなくて当然だよ。だって、皆知らないんだから」
「何を、ですか……?」
声が掠れる。自分の目がどれほどに節穴だったのか思い知らされるようだ。
「犠牲になった子たちのことを、誰も知らないんだから」
ふいにこちらを向いた殿下が暗い眼差しでどこかを見つめている。話しかけようとして躊躇われた。
「……でも、今は昔のことを懐かしんでいる場合じゃないね」
何かを振り切るように顔を振った殿下の藍玉の目に光が灯る。
*
*
異世界から聖女を召喚すると聞かされたときは、正直、いくら殿下でも無理だろうと思っていた。
父が、生涯に渡って成し遂げることができなかった「人間」の召喚だ。
例え召喚できたとしても世界を渡る間に何が起こるか分からない。五体満足でこの世界に来られるとは限らなかった。
だから父も、躊躇っていたのだと思う。
父は研究馬鹿だった。だが、人でなしではなかった。人並みに誰かを愛し家庭を築き、仕事に生きがいを感じていたただの男だった。
冷酷無比な魔王ではない。
だからこそ、異世界から人間を召喚するということにあたっては、ただの理論で留めておいたのだ。いや、むしろ、そうするしかなかったのだと言える。
ただ、論文の上においては、異世界から人間を召喚するというのは不可能ではない。
何せ召喚術の権威とまで呼ばれた父親が組み立てた理論だ。すでに出来上がった理論で、完璧な理論だった。だが、実行できないという点においては不完全な理論でもあったのだ。
机上の空論だと批判を受けた父親が、それでも実証することなく、毅然としてその術を使わなかったのは、ひとえに父が普通の人間だったからだろう。
誰かの肉体や精神を引き裂くかもしれないことを実行しようとする人間は多くない。
だから、殿下が異世界から聖女を召喚すると宣言されても、恐らくそれは実現しないだろうと高をくくっていた。
殿下はしばし苛烈と表現されることもあるが、残虐ではなかった。
かの方が為す全てのことには意味があり、筋が通っていた。
粛清の名の元に、不正を働いた貴族を逆賊として捕らえたときも、いくつもの証拠を並べ理路整然とそれら提示していった。
本来なら別の人間が果たすべき責任を、第一皇子殿下自らが果たしたのだ。その為に水面下で動き回っていたのを知っている。
断罪された貴族の中には一見、無関係と思われる人間もいた。けれど、間違っても冤罪など作り出さないように、無実であるかも知れない可能性を一つずつ全部潰していったのである。
そうすることで有罪を証明した。
全てはこの国のために。
だから、この聖女召喚は果たされないと思っていた。
聖女をわざわざ異世界から召喚するということにどれ程の重きを置いているのかは分からないが、殿下がリディアの為に動いているのは明白だ。
だとすれば、殿下は最後の最後でやはり思い直すのではないかと、そう踏んでいた。
誰かたった一人の為に危険を冒すような方ではない。少なくともそう信じていた。
皇宮の隅の、忘れ去られたようにひっそりと建つ礼拝堂に魔法陣が描かれるそのときまで。
「失敗する可能性は?」
そこに並んでいたはずの会衆席は全て撤去され、古びた床一面に巨大な魔方陣が描かれている。
床だけではない。壁にも天井にも、隙間なくびっちりと描かれたそれは幾何学模様に似ていて、じっと見つめているとその図形自体が歪んで見える。平面のはずなのに奥行きがあった。
壁の向こう側に違う世界が広がっているように見えるのだ。
陣の中心に立っている殿下が訝しげにこちらに視線を送ってくる。
「失敗?…それはどういう意味かな?」と傾いだ首にはらりと金色の髪が落ちた。
分かっているくせにわざわざ聞くあたりがこの方らしい。
「聖女を召喚できないとか、あるいは、」
肉体の一部が欠損しているとか、精神的な問題があるとか、と言葉を続けようとして口を噤む。
その可能性を殿下が考えていないわけがない。
それほど浅はかな人間ではないのだ。
全てを知っていて、これをやろうと決意なされたのだろうから。
『聖女候補が祈りを捧げるときには、肉体に激痛が走るようだと記載されている』
執務室で話しをしたときに、殿下は、題名さえない闇色の書物を汚物でも触るように指先で摘みながら鼻を鳴らした。
『だけど可笑しいと思わない?アルファド。だって、聖女候補の祈りを見たことがあるけれど彼女たちの誰もそんな顔してなかったよね?』
そうだ。確かにそうなのだ。リディアの祈りを何度も見たことがある。
だけど彼女は一度もそんな素振りを見せたことはない。その凜と研ぎ澄まされたかのような緊張感に満ちた横顔は少しも歪んだことがなかった。
痛みがあるようには見えない。
『この書物に偽りがないのなら、あの子はどうしてあんなに平気そうな顔をしているんだろうね』
それはつまり。
誰にも悟られないようにしているということだ。
そして、それを隠すということは隠さなければならない理由があるということだ。
痛みに耐えさせる理由。
周囲に悟らせない理由。
事実を隠す理由。
祈りを捧げるときに激痛が走るというのなら。
殿下の言う通り、彼女に死が迫っているのだとしたら。
ここに因果関係を見つけるのはそう難しいことではない。
祈ることによって、彼女に死が迫るのだ。
もしもそれが真実であるなら、彼女を祈りから遠ざける必要がある。
しかし、当代最後の聖女候補である彼女が解任されることは、まずない。他に代わりがいないから。
ならどうする?
代役をたてるしかない。
『だから、異世界の神に協力を乞うんだよ』
焦燥に歪む俺の顔をじっと見据えながら、殿下はそう言って口元に笑みを刷く。
とはいえ。いくら第一皇子殿下といえど、異世界から生物を召喚するほどの大魔術を展開させるには無理がある。そういう大規模な魔術を展開するときは、通常、複数人が協力し合って発動させるのだ。
なぜなら、一人分の魔力では足りないから。
ゆえに、この異世界召喚には関係各所の承認が必要だった。
事は秘密裏になされたが、聖女のことであれば、神殿側に話しを通さないわけにはいかない。神官長の助力を乞うために各方面への根回しは忘れなかった。
何より、不正と厭う殿下が正式な手順を踏まないはずはない。
リディアのことはもちろん伏せていたけれど、伝染病が流行の兆しを見せているということが、この異世界からの聖女召喚を後押しした。
そもそも、その事実がなければこれほど強引に異世界召喚がなされたわけはないのだ。
流行り病をどうにかするような大規模な浄化を行えば。
リディアにどんな影響があるか分からないというのが殿下の見解だった。
―――――そして、異世界からの聖女召喚は果たされたのである。




