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大公の愛人の娘  作者: 知香
第三部
32/40

32.初めてだったから

 休憩をしながら馬を走らせ、翌々日の午後に目的地に到着した。グラッツィ家からは一日で着く距離だと言う。そう聞くと辺境部に近い様に感じるが、防衛線である防御壁の内側にあり、そこを抜かれる事は殆ど無いのだとノアが言った。

 それになだらかな山を登り、その奥にある山々に向かって馬を走らせて来た。その山の向こうに隣領であるロッテベルク領がある。その山の森は深く、また渓谷がある為自然の要塞と呼ばれているらしい。


 おそらく防衛時に使われていると思われる所々に設置された防衛柵を躱しながら山道を登った。これを登りながら上から降ってくる様な攻撃を躱して攻めるのは大変だろうなと思った。


「おかしいな……」


 ノアがそう呟くのも分かる気がした。素性も分からない私達がこうして防衛柵を越えて来ているのに、警備する者にも農民にすらも誰にも止められないし、そもそも会わないのだ。


 防衛柵を越えると集落が見えて来た。田畑があり、家が点在している。田圃は秋に収穫して刈り取られた跡があり水も抜かれ、畑には冬野菜が植えられ大きく育っている。そこには確かに人が暮らしている形跡があるのに、人が見当たらない。何処の家からも煮炊きしているだろう煙も無いし、冬なのに煙突から暖炉を使用している様子も伺えない。


 私達は馬から降りた。馬達も疲れている様子だったので水場で休憩させて貰う事にした。そして集落の様子を探る事にした。

 いくつかの畑を見て、農具が放り投げられているのを見つけて、ノアが剣に手を回した。


「襲撃に遭った可能性があるな」


 ノアに離れないようにと言われて後ろからついて行った。家に近づくと、玄関扉が開け放たれているのが見え、農民達が逃げた跡なのではと思った。家の中を覗くと誰かに家財を漁られた様に散らかっていた。

 集落の中の道を登って途中の家も見たが、同じ様に漁られていた。盗賊に襲われでもしたかの様だった。

 さらに道を登って行くと、土や草の上に赤黒いものがあった。


「……血だな」


 一気に手足の感覚が無くなった様に頭が真っ白になった。

 自然の要塞と呼ばれる様なここが、安全では無いのを悟った瞬間だった。

 この血が誰のものかは分からない。この集落に住む者のものなのか、ここを襲撃した者のものなのか、それは分からないけれど、ここまで襲われたと分かる痕跡が多い状況に不安と恐怖を感じていた。


「大丈夫か?顔が真っ青だぞ」

「……ごめん」


 吐き気が酷かった。睡眠不足や疲労に加えてこの血は精神的にキツいものがあった。


「水だけでも貰おう。ここの農民達がどうなったかは気になるが、この集落に長居するのは危険だ。すぐに発とう」


 私を小川沿いに座らせノアは井戸に水を汲みに行ってくれた。


 深い溜め息が出た。いったい何処に発てば良いのだろう。ここ以外に何処かアテがあるのだろうか。

 それにこんな体調で馬に乗れる気がしなかった。


 小川の水がサラサラと流れている。この水が田畑へと流れ農作物が育ち、人が暮らしていける。大切な水だろうに、今の私には水では無く血が流れている様に見えてしまう。怖くて目を瞑れば思い出したくない光景ばかりが浮かんでくる。


「ラン!」


 ノアの叫ぶ声にハッとして目を開けた。


「逃げるぞ!」


 走って来たノアに腕を引っ張られ、その強い力に引き摺られる様に走った。足が上がらないけど引っ張られるままに足を動かした。


「居たぞ!」

「女もいる!」


 人の声がしてそちらを見ると、兵士らしき者が三人おり、剣を持っていた。

 ノアは馬の方へ走ったが、兵士に先回りされてしまい方向を変え雑木林の方へと入って行った。

 私の走りが遅いせいで追いつかれそうになり、ノアは振り返って速い兵士を切り倒してまた走った。雑木林の奥へ入ると鳥達のバサバサと羽ばたく音がした。

 ノアはわざと木の横を走り抜けて兵士が剣を振り回せない様にしている様だった。でも私が木の根に足を取られて躓いてしまい、追いつかれてしまった。呼吸が荒くなって足も重たく、直ぐに立ち上がって逃げなければならないのに、体が思う様に動いてくれなかった。それを見てノアは私を背にして兵士に対峙した。


 ノアは騎士団の中でも強い方だけれど、同時に二人を相手にするのは簡単な事では無い様だった。さっき逃げる時に一人を切り倒していて良かった。三人同時はきっとノアでも危なかっただろう。ノアは私を守りながらでも兵士二人を切り倒した。その後ろ姿は肩で大きく息をしていた。


 ノアは「行こう」と行って雑木林の中をさらに進んだ。そして洞穴を見つけてその中で休憩する事にした。


「飲め」


 ノアは私に水筒を差し出した。


「水、汲めたの?」

「ああ。汲んでいたらあいつらに見つかって逃げたんだ。でも殆ど汲み終わっていたから水の補給は出来た」


 水を飲むと、凄く冷たかった。追い掛けられて走って熱くなった体を一気に冷ましてくれた。


「ごめんね。足手まといになって」

「何言ってんだよ。俺はお前を護衛するのが使命なんだから。寧ろ具合悪いのに走らせて悪かったな」


 小さく頭を振った。お互いに謝り合って、何だか慰め合いをしている気分だった。

 ノアがフーッと長く息を吐いて頭を下げた。肩で息をしていたしさすがに疲れたのかと思ったが、ノアの手が微かに震えているのに気がついた。


「……大丈夫?」


 ノアの震えている手に触れた。


「……初めてだったからな。人を斬る感触が残っている」


 きっとこれまで訓練だけで、実戦は無かったのだろう。ノアはまだ十七歳。初めて人の命を奪った事に動揺があるのだろう。いくらノアが強いと言っても、これまでは訓練の中での事だ。生死がかかった場ではまた剣の重みが違うのではないだろうか。私達が生きようと逃亡している様に、ノアが斬った人にも家族や大切な人がいて生きて帰ろうとしていたに違いない。

 そんな中で私はただ守られているだけ。


「……私のせいだね。ごめん」

「いや……。どのみち隣国が侵攻して来ているんだ。その戦争に参加していれば人を斬っていたのだから、一緒だよ。俺は騎士だから」


 ノアの手に触れた私の手を、ノアは反対に握り返した。その力は思いの外強くて、ノアの決意を感じさせるものだった。



 その時、雑木林の鳥達が再びバサバサと大きな羽音を立てた。何者かが雑木林に侵入して来たのではと、身体が緊張し出した。



☆おまけ


 エミルとノアの姉は若くして亡くなってしまいましたが、嫁いだ先で愛され大切にされ幸せな時間を過ごしたことでしょう。


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