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88.素晴らしき世界

88.素晴らしき世界


 頭に手をやった淳だったが、気にせず先を急いだ。


 痛みは増していたし、足首にも痛みがあったがそれこそ生きている証拠だった。


 振り返ると、足跡が残っていた。


 雪が眼鏡にかかり見えにくい。


(生きている。生きている証拠だ)


「春までもう少しだから待っててね」


 道端の蒲公英タンポポに挨拶した。


「こんばんは!」


 道行く人に声をかけた。近所の婦人だ。


「こんばんは鮎川さん。元気そうで何よりね」


「ええありがとうございます。今日ほど嬉しい日はないんです」


「何かあったの?」


「僕は生きているんです……生きているんです」


 首を傾げた婦人を残して、淳は歩みを速めた。


 会場の前のフェンスには見慣れた凹みがあった。どこかで影響しているのだろうがその仕組みは淳には分からなかった。生きているだけで淳は幸せだった。


 坂を上った。


 赤沼タエの家だ。表札は前のままだ。


 のぞくと、炬燵こたつでタエが清四郎に蜜柑ミカンいてあげていた。清四郎がありがとうも言わずに口にしている。旨そうだ。あ〜んと口を開ける清四郎が可愛かった。


 淳と視線が合う。顔を横にする清四郎だった。


 坂を駆けあがった。


(青田薬局……)


 ドラッグ・ストアだった。


(美濃さんはいない)


 それが現実だった。淳がいてもいなくても美濃はもういない。全てが上手くゆくことなどありえない現実だった。


〔慈悲の家〕の礼拝堂が見えた。十字にも雪が積もっていた。


「こらー! 本当にもう……」


 シスターだ。相変わらずワンパクな子はいるらしい。


「あら、エンジェル」


「こんばんはシスター」


「こんばんは。今日は遅いわね」


「ええ色々あったものですから」


「人生ですもの。今を楽しまなくちゃあ」


「そうですね。今日とっても楽しいことがあったんです。……僕、生きているんです」


「あなたは生きているわエンジェル。楽しみなさい。人生を」


「はい。そうします」


 賛美歌を鼻歌にしながら坂を上った。


〔リラクシン〕からジャズが聞こえてきた。


 アフタービートの強烈な曲だった。


 それが妙に雪の降るリズムに合っていた。


(レイコ・リーさん……)


 療養から復活したらしい。歌声が路上まで聞こえてきた。


 スイングから足取りも軽くなる。


(おっと!)


 つまずきそうになる。まだ痛みは残っていた。


 ゆがんでいた角の教会の標語を丁寧に貼りなおした。


 家はふつうだった。何の変哲もないふつうの家。


 明かりが見える。


(帰ってこられたんだ。僕のいる世界に)


 天使が言った意味がやっと分かったらしい。


(僕が生きている世界。なんて素敵なんだ。最高だ!)



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