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85.部外者

85.部外者


 テーブルにはココアのカップが一つしかなかった。


 横に目をやると棚に十字の傷のカップがあった。下を見ると、床にココアの染みはなかった。


「確かに君がいない世界だ」


 天使が静かに言った。


 気づくと頭に痛みはなかった。足の痛みも消えている。


 二人して管理室の階段を降りて街に出た。


 降り積もった雪に淳の足跡はなかった。


「ほう……」


 三級天使は久しぶりの足跡を喜んでいた。


 嬉しく思う淳だった。


(この世界では僕が部外者なんだ……)


 やがて、見るものが色褪いろあせ、雑音ノイズが大きくなり音が聞こえにくくなった。何度も転送したデータのように世界が不完全に思えた。


 天使の足跡も消えていた。


 静謐せいひつというより何か異質な感じだった。耳の中に真綿まわためた感じだった。


 吐息は白くならず、心臓の鼓動は聞こえなかった。


 道端の草の声が聞こえた。


〝春までまだ長いよ。今は静かにお眠り〟


 声をかけられているのは蒲公英タンポポだった。


 雪が天使にかかるが積もらない。雪が二人の身体を通り過ぎていった。


 道行くと、さっき会った近所の婦人に声をかけ挨拶をするが淳に答えなかった。


 他の誰も彼も淳を無視した。


「誰も挨拶しないなんて……本当に?」


「ああ、この世界には君がいないよ。実に残念だ」


 天使が呟いた。頭に手をやるがバンダナがない。


 頭を傾けた。


 どこかに落としたのだろうが、探す気もないようだ。


 最後にピアノを奏でた会場が見えた。


「あれ?」


 フェンスに見慣れた凹みがなかった。


へこんでない……どうして?」


 手でれてみるが素通りする。


「君がいないことでへこまなかったんだろう。……気になるなら聞いてごらん」


「聞いてごらんって……挨拶もしてくれないのに? どうやって?」


「相手の心に聞いてごらん。答えてくれるから」


 ためしに、近くに停車していたタクシーの運転手の心にたずねた。


〈……ここにへこみがありませんでしたか?〉


〈……このフェンス……前に誰かが当たりそうになったっけ……誰だったかな……ん?〉


 運転手は自分の疑問でもない質問に答えて、怪訝な顔をした。


「あははは」


 淳にはそれがおかしかった。


 隣の運転手の声が聞こえた。ただし心のだが。


〈……稼ぎ時だってのになんで順が回ってこないんだ……〉


 タクシーの順番待ちだった。


〈……早く俺も家に帰りてえ……〉


 他の声も聞こえてきた。


〈……湯豆腐に熱燗あつかんをキュッとやりてえもんだ……〉


 止まらない。


〈……カミさんになんて言い訳すりゃあいいんだ。まさかあんな所で……〉


 誰彼だれかれ関係なく淳の耳に入ってくる。


〈……明日は晴れるってホントかな……〉〈……えらくべっぴんさんじゃあねえか。こんな時にオレの番じゃあないなんて……〉〈……君ならできるさ……〉〈……まだ雪だ……〉〈……メリークリスマス! ……〉〈……早く行けって……〉〈……定めじゃ……〉〈……信じてごらん……〉〈……給料どれくらいかなあ……支払全部できるかなあ……〉


 耳を塞いでも聞こえて来た。


 心の声の叫びが止まらない。


「止めろ! 止めてくれ!」


 倒れそうになる淳が叫んだ。


 静寂。


 淳の心が閉ざされると途端に静かになった。


 クリスマスソングとタクシーが暖気する音だけになった。


「心の底をのぞきすぎるとそうなる」


 天使が寂しそうに言った。


「これが天使?」


「人の心は不思議だ。永遠の謎だね」


 質問には答えなかった。


「善人も魔が差すし、そうでない人もたまには良いこともする。分からんよ」


「僕は……どっち? 僕はどっちなんだ?」


「人生を捨てちまった、動く影(ウォーキングシャドウ)さ」


 天使が「哀れな役者だよ」とも言った。『マクベス』の台詞せりふだ。


「僕は……どうしたら? えっ?」


 淳が振り返ると天使はいなかった。


 流れ星が強くまたたいた。


 雪の暗い空からでも見えた。


 淳だけに見えるようで、誰も気づいていない。


 坂を上った。赤沼タエの家だ。


 淳が覗くと、清四郎が炬燵こたつで寝ていた。


〈……婆さんサマサマだ……しばらく補償金で暮らせるぜ……〉


 表札の雪を払う。が取れない。


 力を入れて一気にくと、自然と雪が落ちた。


 綺麗な表札に変わっていた。


 タエの名はなかった。


「いない? ……亡くなった? まさか!」


 淳は駆けだした。雪が舞う。


「美濃さんの薬局は去年からドラッグストアになってる……)


 更地だった。


〈……そうそうココよココ……〉


 歩く人の心を読んだ。


〈……まだ更地なのね。そりゃあ買い手も付かないわよ。薬剤師が薬まちがえるなんてほんと……。でもタエさんもイイ時期に亡くなったのかも……自殺なんて後のこと考えてるのかしら……〉


「美濃さんが……タエさんを? 違う! 僕が助けた!」


 この世界では(淳が止めなかったので)青田美濃薬剤師が赤沼タエを調剤事故から業務上過失致死となっていた。


(……ああ……そんな……。僕がいない……いないんだ……)


 淳に気づかず、道を通る男性の声が聞こえた。


〈……ここだよ強盗が撃たれたのは。即死だったんだ……高そうな指輪してたんだ。それを売れば強盗なんてしなくてすんだのに。さとくないねえ……〉


「その人は!」


 その強盗は淳が助けている。昼食代三日分で。


「……なんて……なんてことを……」


 家に向かう。


 淳はさらに走った。


 緑が丘記念病院の別館が見えた。


 病棟の窓辺に若い女性がいた。


「しおり!」


 鮎川しおりは長い前髪で顔の半分を隠していた。


 別館は心療内科だった。


〈……しおり!〉


 しおりの心に問う淳だったが聞こえない。何も。何も聞こえない。


 看護師は微笑みながら雪を見るしおりの肩を抱きベッドに寝かせた。


〈……しおり! しおり!〉


 しおりの顔に生気はなく横になった。


 顔にかかっていた髪が流れた。ケロイド状の傷跡がかなり深い。移植手術の跡もあるが上手にいかなかったらしい。


〈……事故でこんな顔になるなんて……可哀想に……助けた彼氏といっしょになるだなんて言ってたけど結局、彼氏も事故で死んだんじゃあ意味ないわね……廃人よ廃人……〉


 笑顔の看護師の容赦のない思考とんだ声が淳の脳裏に木霊こだました。


「……僕はなんてことを……」


 家路を急ぐ女性も淳を無視した。


「見てよココ。――こんなところに赤ちゃんを捨てるなんて……いくら震災で食べられないからって捨てるなんてねえ……」「捨てるぐらいならあげればイイのに」「そうよ、そう。子供を欲しがる子のない親御さんはたくさんいるのにねえ」「冬に外はよくないわよ。凍死したんでしょう? その子」「そうそう見つかったときには冷たくなってたらしいわ」「みんな猫だと思ってたんですって……」「そうそうみんな生きるのに必死だったから……でも、でもねえ……」


「……ああ……」


 足に力が入らず、ゆっくりうように歩いた。


 この坂を上ると〔慈悲の家〕の礼拝堂が見えるはずだった。


「見えない」


「信心しててもお金がなくちゃね」「ステンドグラスの下ですって」「祈ってたから本望じゃあないの?」「神の御国みくにへ直行よ。信じられないわ」


 ピアノを奏でる淳がいないので、忠は修理をしていない。


 壊れたピアノの不協和音と調子のおかしい賛美歌が耳に響いた。


「……なんてことをしてしまったんだ……」


〔リラクシン〕が見えた。


「……そうだ。静蓮! 静蓮は――」


〔リラクシン〕の奥のテーブルに、静蓮が斜めに座っていた。右は義足だった。


 フォアローゼズのボトルの隣に立てられているのはセピア色の両親の写真だった。


 二人とも亡くなっている。


「……静蓮! 静蓮! 静蓮!」


 いくら声をかけても、静蓮は何も反応しなかった。


 作り笑顔の静蓮が、グラスのフォアローゼズを飲んだ。彼女に心はなかった。


「……」


 デシャップから声がした。杖を手にした。


 淳の意識が静蓮から離れていった。


 気がつくと取りとめもなく、家に向かっていた。歩くのがやっとだが重くはない。重いのは心だった。足に重みは感じられなかった。


「……僕はなんてなんて取り返しのつかないことをしてしまったんだ……」


 自分の「家」に着いた。


 更地だった。


 淳が看板の雪を払った。雪が自然と落ちた。「東南緑が丘再開発計画」と題されていた。


〈……〉


 声が聞こえた。それは生きている人の声でもあったが、そこに残った想いの声だった。


〈……助けて……助けて……〉〈……こんな……こんな……〉〈……痛い……痛い……〉〈……ああ……ああああ……〉〈……お母さんお母さん……お母さん……〉〈……どうしてどうして……どうしてどうして……〉〈……熱いよお……どうして…………熱いよお……〉〈……私が何を……どうしてどうして……熱いよお……〉〈……ああ……ああ……ああ……ああ……ああ……ああ……〉


 耳をふさいでも聞こえてくる老若男女の声、声、声。


 鮎川の家や事務所はなく、全て倒れていた。


 淳に聞こえる絶叫が脳裏で絵に変わった。


「この絵は知っている……」


 絨毯爆撃――無差別爆撃されたスペイン北部バスク州の都市ゲルニカの惨劇を絵にしたものだ。


 モノクロームの記憶だった。


 必至で救出作業する警備のチーフと金城高施が切れたワイヤに気を取られ、瓦礫の下になった。


 住民の声に山田栄の笑い声が重なった。灰原の声だった。



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