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84.淳(2)/君がいない世界

84.淳(2)/君がいない世界


 淳が欄干らんかんに手をかけた。


「助……けて……背中……す……なんて……」


 かすかに声が聞こえた。


 目を凝らした。


(いた! おぼれている)


 川の中で、年配の男性がバタバタしていた。


「泳げ……ない……ああ……神さま……お助け……を……」


 だいぶ水を飲んでいる。


(危ない!)


 淳はコートを脱ぐと躊躇ちゅうちょなく飛び込んだ。


(待ってて!)


 濁流だくりゅうが淳の不安な意識を消した。


 必死に泳ぎ男性を助けに向かった。


   *


 跳開橋ちょうかいきょうの管理室のフランクリンストーブの前で、淳と年配の男性が温まっていた。


 二人とも毛布のかたまりで、衣服はストーブの前にかけて乾かしていた。靴も。


 ヴァンホーテン・ココアをすすった男性がバンダナを絞り、衣服の間に吊って乾かした。


 淳は十字の傷がついたカップを置いて、乾かしている衣服を返しながら聞いた。


「いったいあんなところで何をしていたんですか?」


仕事ミッションだよ」


 年配の男性が手をこすりストーブに近づいた。かなり寒いようだ。目が潤んでいる。


「おお温かい」


伝道ミッションですって?」


 どう見ても伝道師でんどうしには見えない。えない普通の男性だ。


「そう。神さまからの使命ミッションだよ」


 男性は言葉遊びが好きなようだ。さらに手を近づける。


「すべては神さまのおぼしさ」


 他人事のように呟いた。


 震える。寒い。


 バンダナを確かめるが、まだ乾いていないようだ。返した。


「神さまなんていないさ」


 淳がまきべながら呟いた。


「いるよ」


 静かに即答する男性だった。


「少なくとも一柱ひとはしらは知ってるね」


 見上げあごでた。顎髭あごひげを思い出したようだ。


 信じられない淳はストーブの火を見つめた。


「もし……神さまがいたらなんて言うだろうな、こんな状況……」


 語尾が消える。薪が跳ねる。目の下のくまに火が刺す。


(熱い!)


「諦めるな(ネヴァー・ギヴ・アップ)!」


 胸を張り、バンダナを返す。


「熱っ!」


 近づきすぎて火傷してしまう。


(あーあー)


 淳が男性の火傷を見てあげると、棚の救急箱を取った。


「痛い!」


 足に痛みが走った。箱がカップにれ落ちて割れてしまう。


「ふう……」


 軟膏を男性に塗ってあげてから、自分の目の下にも塗った。


「熱いなんて久しぶりだ……」


 毛布を重ねる。


「……寒いのも」


 手をさする。火傷が嬉しそうだ。


「で、伝道ミッションの成果はあったんですか?」


 カップの破片を拾い、床を拭きながら聞いた。


 新しいカップにココアを注いだ。床に染みが残ってしまった。


「もちろんあったとも」


 男性がバンダナを拾い、ちりを払った。


 乾いているか確かめ巻いて斜に被った。


「人を助けた」


「人助け?」


 淳が失笑した。


「溺れているのに? ……他には誰もいませんでしたよ(……あのとき確かに誰もいなかった)」


「一人いた。そして天使は助けた」


 今までとは口調を変えた三級天使だった。自信に満ちている。


「誰が? あんなところにいったい誰がいたって言うんです? ……天使ですって?」


「君さ」


 頷く天使。


「僕?」


「そう君だよ。君がいた。君を助けたんだ。わたし、天使がね」


 斜めのバンダナをでる。嬉しそうだ。


「助けたのは僕です」


「わたしだよ」


「僕です!」


「わたしだよ」


おぼれてたじゃあないですか!」


「時として神さまは不思議なことをなさる。君を助けるのにわたしは溺れなければならん。これも使命ミッションさ」


「助けたのは僕です」


「わたしだよ、助けたのは。あのとき溺れたわたしを残して自殺しようなんて一片かけらでも思ったかい? ……今も、思っているかい?」


「それは……」


 薪が跳ねた。今度は避ける。


「溺れるのにわたしは飛び降りなきゃあならない。飛び降りられぬわたしの背を押していただいた神さまに感謝いたします」


 手を合わせる三級天使。


「あー先ほどの言葉は本心ではありません。どうぞご容赦願います」


 くしゃみ。誰かが噂したのだろう。


「ほんとに天使?」


 淳が見た。どう見ても天使ではない。素面のフォルスタッフ(※)だ。


 ※サー・ジョン・フォルスタッフはシェイクスピアの戯曲の登場人物。


「まだ三級天使だがね」


 服を確かめる。乾いてそうだ。


「神さまから君を助けるように言いつかって来た」


 くしゃみ。


「翼は?」


「二級天使にならないと」


「リングは?」


「地上じゃあこれになる」


 バンダナを指差した。


「天使が……助けてくれた? 僕を?」


 服を着る淳。


「もちろん。君は生きている。大成功だ」


 笑顔の天使。満面だ。乾いた下服を着るが実に不器用だ。上手に履けない。淳に手伝ってもらう。


「僕を……助けてくれた? ……世界が変わった?」


「世界なんてのはいっぱいある」


 上服をまといながら答えた。


「君にもわたしにも。自分が変われば世界も変わる」


 ボタンを一段かけ違える天使。


「じゃあ為替かわせが出てきて……」


 着替え終え、ココアを飲み干した。


「出ない」


 きっぱり。釦を外し、また一からやり直す。


「助けてくれたって……」


「助けた。生きているだろう?」


「でも為替は出てこない」


 項垂うなだれる淳。


「そう」


「いま世界が変わったって……」


「変わったよ。君が生きている世界。素敵だろう?」


 ようやく着終える。靴も。


「うん素敵。最高」


 火傷が勲章のようだ。天使が、新しいココアを二人分入れた。


「じゃあ何も変わっていない」


 カップを受け取とったが声は静かだ。


「君が生きている」


 ココアが美味しそうだ。


「天使なんでしょ?」


「もちろん」


 胸を張る。


「じゃあ為替を出してよ」


「偽造は二級天使から」


 肩をすくめる。


「お金は……」


「二級」


「時間を戻すとか」


「一級」


「何ができるの?」


「天気を当てるとか……恋心を伝えるとか……噂を広めるとか……」


 にこやかに指を折る天使。


「溺れるとか?」


 静かな目の淳。


「そうそう溺れる……」


 笑いが止まる。折った指を広げバンダナを撫でた。


「世界は変えられるんでしょう?」


「もちろん。自分でね」


あやめてくれ」


 淳が言った。


「えっ?」


「僕を殺めてくれ」


「せっかく助かったのに?」


「意味がない」


「意味はある」


 バンダナをきれいに纏めて再度畳んで頭に巻いた。


「わたしにも」


「ない」


「君が助かるとわたしは二級天使になれる。おおいに重要なことだ」


 鏡を見ながらバンダナの位置を整えた。それでも斜めのままだったが。


生命いのちは大切なものだ」


 顔を近づけ、淳の瞳をのぞいた。


「大事に使えば一生使える。それに今さら死神に頼むのも……」


「世界を変えられると言った」


「この世界を変えるのは君さ。わたしは〝部外者〟だからね」


「もういらない。こんな世界なんか……消してくれ。意味がないよ」


「それができるのは神さまぐらいしか……」


 肩をすくめココアの残りを飲んだ。


「もういい。僕をこの世界から消してくれ」


「いいよ」


 うなずく天使。


「えっ! ……できるの?」


「それぐらいなら」


「人を殺められないのに?」


「天使は死神じゃあありませんよ。まあアイツに言わせると方向性ベクトルが違うだけで『常に悪を求めるも』――」


「――できるの?」


「簡単」


「他には?」


「えっ? 生命いのちを助けたうえにまだお願いですか? 勘弁してください。自分で機織はたおりをしない人生はすぐにほどけてしまうよ」


「じゃあ消してよ」


「いいですよ」


 頭をかしげた。やれやれといった天使だった。


「ただし、やり直しは聞き届けられませんよ。一回だけです。君をこの世界から消す。いいですね」


「早くして」


「はい」頷き天を見上げ微笑ほほえんだ。「どうぞ」


「消えた?」


「もちろん」


「まだ天使が見えてる」


「元から天使なんて見えませんって。気のせい気のせい」


 手を振る天使。


「どう変わったの?」


「望むままに。君がいない世界」


 バンダナを撫でながら答えた。


「二度と変えられない世界」


 静かに天使が言った。


「僕は消えてない」


「君は消えてないね」


「消してくれなかったのかい?」


「この世界からは消えたけどね」


「僕は消えてない。約束が違う」


「いや、君が言ったのは『この世界から君を消してほしい』で『君自身を消す』なんて言っていないよ」


「違う」


「そんなことは神さまも……ああでも、どの道やりなおしは聞き届けてくれないからどうしようもないけど……」


 ココアのカップを置いた場所を見る。カップが一つしかない。棚に十字の傷のカップがあり、床にココアの染みはなかった。


「確かに君がいない世界だ」


 天使が静かに言った。


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