81.為替/土田
81.為替/土田
緑が丘中央銀行の店頭で、鮎川平悟郎が口をパクパク鯉のようにして立ち尽くしていた。
「えっ? 何が?」
頭の中が真っ白だった。
「――いいえ」
目の前の若い女性銀行員の言うことが分からなかった。
「(いや、言っている意味は分かる)……違う違う違う……違うって……」
ブリーフケースを開く。一つ一つ出すが要領を得ない。
「違う……」
全部窓口に出す。
「違う……」
驚く銀行員など目に入らない。
ポケットの物も出す。
食べかけのチョコレート。ガム。何に使うか分からない木製のおもちゃ……。
何度も何度も同じところを見る。
両のスラックスのポケットの裏地を出しながら、再度ケースを裏返した。
「今……渡した……よね?」
蚊の鳴くような声。
「いただていおりません」
銀行員がはっきりと述べた。
窓口には村崎裕美とある。
「いただいたのは学資保険と未納税金と携帯電話会社の料金だけです」
美人だが言い方はきつい。
「そんなことはない……渡したんだ……そんなことはない……そうだと言ってくれ……」
平悟郎は窓口で泣き崩れた。
「あっ!」
走って飛び出して車に戻る。
左前ドアを開いた。ダッシュボードを叩き、グローブボックスの中身を助手席に投げだした。
ドアポケット。トランク。中の袋。フロアカーペットの下まで見た。
だいたい乗ったのは一瞬で、エンジンもかけていない。
もう一度ポケットを見た。
天上を見上げる。
はっと気づき、サンバイザーを出す。助手席のバイザーも。
小雪がちらついてきた。
(どこだ……どこに行ったんだ……あの金は……あのお金は……)
*
緑が丘の東南両方の各家が出資して、インフラストラクチャを整えることになった。
手始めは水道だった。
次世代の世界基準の高速大容量の情報通信網も整備された。
もちろん、住宅本体の保守点検なども金額に入っていた。
緊急時の水や食料も共同で管理することになった。
管理費用をはっきりさせるために墨月は株式会社にすることを提案した。
共同出資の地域限定の管理会社だった。
代表には鮎川淳が選ばれ、取締役は持ち回りで選ばれることになった。
運営費用として六千万円集まった。二つの街、全所帯の管理費用の申込金だった。
緑が丘信託銀行から、隣の緑が丘中央銀行に持っていくだけだった。
金額を確かめた淳は、隣の中央銀行で口座を開設していた。
平悟郎はどれくらいの重さになるのか興味津々だったが、渡されたのはフランスの銀行が発行した為替一枚だけだった。
桁が違うと文句を言いそうになるが、額面はユーロだった。
出資金の半分を出した墨月が為替差損が出るので、ユーロで一時預けることにしたのだ。週明けにはユーロ高になる見込みを墨月が直接頭取に伝えていた。
『平叔父さん』
スマートフォンに、淳から電話があった。
「淳ちゃん確かに受けとったよ。ドルだったんだ。言ってくれれば良かったのに……こんな大きな袋いらないじゃあないか」
日本の現金六千万円を入れる予定だった平悟郎が紙袋を叩いた。
『ドル? 平叔父さん、ユーロだけどもう一度確かめてよ』
「ユーロ?」
平悟郎は表示を見た。
確かにユーロだ。
「ユーロだよ。そう言ったじゃあないか」
淳が深呼吸するのが平悟郎に聞こえた。
『今から行くから』
平悟郎の神経を逆撫でした。
『僕も行くよ』
「一人で大丈夫だって。紙一枚だ。なくすもんか」
為替をヒラヒラさせた。
『平叔父さん……紙一枚でも大金だよ』
「待ってろって!」
胸を張る平悟郎だった。落としかける。
(危ない危ない。お金お金)
『平叔父さん!』
「待ってろって今行くから」
『……じゃあ一階のカウンターで村崎さんという行員さんに渡してね』
「分かってるって」
(銀行員のほかに誰に渡すんだ?)
『じゃあ待ってるから』
通話を切る淳だった。
(為替をなくさないようにどこに入れようか)
平悟郎は迷った挙げ句、素直にブリーフケースに入れた。
鏡で身を正した。
(白髪が多くなった。髪を染めるか)
今度の会社で平悟郎は町全体の美化担当だった。給料も上がる予定だった。
(これでようやく財布を気にせず飲みにも行ける)
平悟郎の足も軽かった。
「チッ!」
歩くのに紙袋がジャマだった。車に戻って助手席に置いた。
頭を傾ける。
何か気になってダッシュへ入れようとしたが入らない。仕方ないのでトランクに入れた。
(あるある)
路上で再度為替を確かめた。
隣りの銀行に入ろうとした時、出てきた人間と目が合い、動きが止まった。
(懐かしい人間と偶然遭うもんだ)
土田だった。山田栄のバッジが誇らしげだった。
「元気か」
気さくに平悟郎は声をかけた。あれからもう何年も経つ。
「これはこれは誰かと思えば小屋の職人さんじゃあないか」
平悟郎は怒らなかった。クレームで追いだされた人間に平悟郎は同情した。
「小屋も大きくなりましてね。今じゃあ宮殿ですよ」
言い返した。
「ここらで何してるんだ?」
自分の縄張りのように話す平悟郎だった。
軽く土田は微笑んだ。
平悟郎に嘲笑は通じない。
「何もないさ。小屋の職人には何もな」
部下を連れて先を急いだ。
「何も? ないなら帰りな!」
土田は笑い、後ろで手を振り黒いレガシィで消えた。
「気取るんじゃあない!」
聞こえるはずのない言葉を消えた路上に声を上げた。
振り返り、ブリーフケースを脇に銀行に入った。
窓口の村崎に並んでいた淳のもとに急いだ。
「平叔父さん心配したじゃあないですか。大丈夫ですか?」
「ばっちりばっちり」
ケースを叩く。
「それより誰に遭ったと思う?」
「どうぞ」
村崎が受け取る。
「土田だよ土田……それ秋ちゃんの学資保険……覚えてない? 山田栄のあのいけ好かない営業部長だよ……税金と」
次々出しては説明するが、お金と一体になっていないので村崎が手間取った。
金額がテレコになっている。
「それより……」
「まあ話を聞けって、土田の情けない顔ときたらククク――あっそれ電話代。延滞あるかな……」
村崎が計算し金額を言った。
「はいどうぞ」
小銭を払い、落ち着いた平悟郎が淳を見て思い出した。何しに来たかを。
「それでこれがお待たせの……えっ……あれっ」
なかった。




