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74.楫本

74.楫本かじもと


 神戸こうべ港に近い跳開橋ちょうかいきょうが上がった。中型の貨物船がゆっくり通過する。


 操舵室の人物がが敬礼した。


 橋の管理室にいた年配の男性もそれに応じている。船が通ってから自動で橋が落ちるのを確認した。


 楫本かじもとね橋の管理人になって長い。


(もう何年になるだろうか……)


 管理といっても万が一の時のための非常人員だった。今では全てコンピュータ制御されている。


 制御されていないのは楫本自身とストーブだけだった。


 薪をべた。パチパチという跳ねる音が心をいやした。


 棚に置かれたカップに、寒さで震える手でバンホーテン・ココアの粉を入れ、ストーブで温めた牛乳を少量注いだ。スプーンで丹念にかき混ぜる。十分混ざってから残りの牛乳を入れた。


 湯気でアセテート縁の眼鏡がくもった。


 ふうふうとましながら飲んだ。充足の一時ひとときだった。


(いろんなことがあった……)


 楫本はまだ溶け残って、ダルメシアンになっているココアをスプーンでカップのふちに押しつけながら考えた。


(震災か……)


 どうしても先に浮かんでしまう。仕方のないことだった。


(人生が一八〇度変わってしまった。自宅は倒壊し真名美まなみと……聡声さとえが……)


 最近は涙が出る。感情がある証拠だ。「生きている証拠だ」と民生委員の人も言っていた。


 初めは涙が出なかった。パニックだった。信じられなかった。


(神戸に地震など……)


 妻は美しかった。背もそれほど高くはなく顔もそこそこの楫本に、妻の真名美はもったいなかった。美しい真名美の横顔が今でもはっきり脳裏に焼きついている。


 ソプラノ歌手を目指していたがゆめやぶれて神戸に旅している時に出会ったのだ。


 真名美は静かで何事も積極的にできなかった。楫本も「それでは歌手になれないな」と思っていた。


 真名美は心の平安を求めていた。楫本にはそれがあった。


 大手ではないが会社に勤め、長い時間がかったが係長になった。


 不器用な楫本はそれで十分だった。「能力のある者が上に立ち、自分たちのような人間を引っぱっていって欲しい」という考えだった。楫本のうつわなどたかが知れていた。


 真名美と結婚して驚いたことだが、すごく内弁慶だった。


 またそんなところが可愛く思えた楫本は家のことに何も言わなかった。


 楫本は真名美がいるだけで幸せだったのだ。


 やがて娘が生まれた。真名美に似た美しい女の子だ。


 生まれた時は真っ赤で小猿こざるのようだったが、成長するにつれて美しくなった。


 娘は父に似るというが似ていないことに一番喜んだのは楫本だった。唯一似たのは亜麻色あまいろの髪だけだった。もっとも楫本の髪は巻いているが。


 真名美は絶対娘だからソプラノ歌手にすると胎教たいきょうからずっと音楽教育をしていた。


 楫本はそんな妻が愛おしかった。


 不器用な楫本に趣味はなかった。幼いころからプラモデル一つ作れなかった。


(それが機械の設計をしているのだから不思議なものだ……)


 娘の聡声も母に似て恥ずかしがり屋だった。


 二人してコンサートに行ってもサイン一つもらえなかった。


(芦屋の白い宝石か……。名前は何と言ったかな)


 二人は夢中だったが、事故か何かで引退したと記憶している。


(音楽か……)


 楫本には音楽は分からなかった。クラシックもジャズもロックもボサノバも同じに聞こえた。唯一ラップだけは分かったが好きになれなかった。それ以外はバッハも流行はやりのポップの同じ音に聞こえた。


 だから音痴だった。


(鼻歌でさえ変だそうだ……)


 思い出して笑う。


 真名美もそれを知っていたらしく、楫本にいっしょにカラオケに行こうとは言わなかった。


(それにしても聡声の歌は上手だった。聞きれた。特に真名美といっしょに歌うときなど素晴らしかった。真名美も上手だったが、聡声の声は人の心を動かす……)


 何というか楫本には説明できないものがあった。


(真名美が強引に聡声さとえと名つけた甲斐かいがあったものだ)


 ただ、毎月のレッスン料に家計は圧迫されていた。清潔にしていたが服は着切雀きたきりすずめ、食事も質素だった。


 幼いころから裕福ではなく、食べられれば良いという環境だった楫本に何の不満もなかった。


 美しく成長していく聡声が希望だった。


 あるとき二人が、広東カントン料理店を経営しているかたから招待を受けた。


 食事を楽しむのかと思いきや、次の日から猛レッスンが始まった。


 見る間に聡声の姿勢が良くなり、より美しくなった。


 一体どんな先生か気になり尋ねた楫本に、アコードのCMソングを歌ってた人と言われた。


 聡声が歌ってみせた。「知っている知っている。そんな人が、有名な人がどうして?」「れいさんの紹介なの」と真名美が答えた。


〔リラクシン〕のオーナーだった。「そうか」と楫本は納得した。一度家族で食事に行きたいと考えていたが〔リラクシン〕は高くてそうそう行けなかった。


 真名美も孫励そんれいの紹介で事務のパートに出た。楫本も仕事に邁進まいしんした。


(全ては聡声のためだった。全ては……)


 管理室まで駆けあがる音がした。


「ただいま!」


 扉を開いて帰ってきたのは亜麻色あまいろの髪の少年だった。楫本と同じく巻き髪で、顔はソバカスでいっぱいだった。


さむ!」


 素早く閉める。


「お帰りキッド」


 楫本はにこやかにむかえた。


墨月すみつき先生にココアをもらったから、いっしょに飲もう」


 ヴァンホーテン・ココアの缶を見せた。


「うん。でもあきちゃんと約束しているから早く行かなくちゃ。帰ってから飲むよ」


 ランドセルを置いて遊びに行く用意だ。


かじモン、残しておいてね」


 キッドと呼ばれた少年はすぐに飛びだしていった。


 外はかなり寒い。


(今夜は冷えるぞ)


 薪の量を見た。二晩は十分だった。


 橋がゆっくりと跳ねあがり、貨物船が通っていく。


 互いに敬礼しあい、橋はゆっくり元の形に戻っていく。


(ココアか……。聡声は乳製品が食べられなかったからいっしょにいる時には飲まなかったな……)


 ウィーンに行くと聞いた時はびっくりしたが、それも才能が認められた証拠だと楫本は素直に喜んだ。


 真名美が勤める墨月法律事務所の給与が良かったのでそれも大丈夫だった。


 空港に見送りに行きたかったが仕事があると行かなかった。


 確かに仕事はあったが、本当は泣いてしまうんじゃあないかと不安だったのだ。


 聡声がいなくなって真名美とどう会話したものかと思ったが、大丈夫だった。


 まるで新婚のように真名美と仲良く暮らした。


(月に一度の聡声からの国際電話が楽しみだった。手紙は毎週届いていた。写真も。〔リラクシン〕のお嬢さんが撮ったのだろう)


 孫静蓮そんせいれんといっしょに行ったので心配はなかった。


 あるとすれば、それは聡声の体調だった。乳製品が食べれないのに大丈夫かと思ったが平気平気と言っていたがやはり食べれなかったようだ。


(お嬢さんが聡声のために食事を作ってくれていた……。しかし……食べ過ぎでは?)


 真名美は「年ごろだから太るのよ心配はいらないわ」と言っていたが楫本には疑問符だった。


 真名美も学生時代は太っていたので、小太りの楫本に何の偏見もなかった。


 当時の写真を楫本も見たことがあるが、聡声より太っていた。


 真名美が説明した。「あるていどの体格がないと美しい声は出ないのよ」と笑っていたが、楫本には限度が分からなかった。


(あの天使のような美しさが……)


 美しい亜麻色あまいろの髪と愛らしい瞳はそのままだったが、楫本には何となく納得できなかった。


 日本に帰ってきた聡声と三人で、真名美の手料理を楽しんだ。


 小松菜と薄揚げの煮びたし、あじの干物、キュウリの漬物、それに白米と味噌汁。日本の食卓だった。


〔リラクシン〕のオーナーに招待されたが、家族だけで楽しみたかった。


 聡声は二倍ぐらいになっていた。


 聡声と楫本夫婦が向かい合わせに座った。久しぶりの一家団欒だった。


 聡声は真名美にもらった黄琳玲ホアン・リンリィンデザインの蝶のリングを世話になった静蓮にあげたと楫本に言った。


 聡声の誕生日に楫本が無理をして、娘にブローチ、妻にリングを贈っていた。楫本の左の薬指のリングは、真名美と聡声からのプレゼントだった。


 ウィーンに行くときに、真名美が「困ったときには売りなさい」と渡していた。


 聡声がとても大事にしていたのを知っていた楫本は、どれだけ静蓮に世話になったのかを理解した。


 デザートを前に「重大な発表があります」と聡声が言った。


「秋からコンサートツアーです」


 驚く楫本だった。横の笑顔をみると、真名美は知っていたらしい。


 家族で笑いあった。聡声が十号(直径三十cm)のホールケーキを食べるのを、楫本は不思議そうに見ながら微笑ほほえんでいた。


 思えば楫本の一番幸せな時間だった。


 そしてあの寒い朝。


 二階にいた楫本だけが助かった。


 一階の二人は絶望的だった。


 家は一度修理していた。


(最初の部品では強度が足りないので足したと営業の人が言っていた。……それで二階は助かったらしい。いっそ――)


 南緑が丘はその営業が修理した家屋だけが残っていた。


(みんなで署名したから知っている……)


 サインしなかった家は全壊していた。


(修理費用はあの営業が自腹で出したと後で聞いた……それなら最初にきちんと建てれば良いものを……)


 楫本は正気でいられる自分が不思議だった。自分が自分でない感覚だった。


(いっそいっしょにいなくなれば……)


 それだけを思う日々だった。


 焦土にあるのは絶望とそれでも生きなければならないと思う希望だった。


 ほどなくして会社は倒産した。


 機械の設計など今は不用だった。


 飲めない酒を飲んだ。毎日が辛かった。早く二人の元に行きたかった。だからと言って命を絶つ勇気などあるはずもない楫本だった。


 どこをどうさまよい歩いたか分からなかった。


 一軒の家から光が漏れていた。中には愉しそうな家族がいた。


 どうしても許せなかった。


(自分だけがこんな……こんな環境でも生きている……)


 財布には何もなかった。


 許せなかった。


 鍵が開いていた。


 震災から使っている文化包丁を手に中に入った。


「こんばんは!」


 先に元気に挨拶された。


(強盗に挨拶?)


 楫本の方がたじろいだ。


 若い夫はにこやかな顔だった。「早いですね」と言われた。人を疑わない顔だった。


 その妻が大きなお腹を抱え「ごめんなさいまだなの」と奥から出てきた。


(どうしてこんな事を……)


 途端に我に返った。


(自分だけでなく他人まで同じ思いをさせるのか……)


 包丁を下ろし、後ろ手にした。


「家を……家を間違えたようです……」


 楫本は震える声で言い、後にした。


 包丁をふところにしまうが、すぐに肩を叩かれた。


(捕まる!)


 そんな思いから身が固くなった。動けない。


 振り返ると若い夫が楫本の手に何か握らせた。


(紙……?)


 現金だった。


 楫本の目から涙が溢れてきた。何も言えなかった。


 若い夫が「後でいらしてくれませんか。今はまだ準備中なので。これで何か買ってください」と言った。


 楫本は逃げた。


(後でいらしてください? 警察を呼んだんだ)


 走る。


(でもどうしてお金をくれる?)


 平静ではいられなかった。


 走ったがすぐに息が切れた。


 ぜいぜい言っている自分に驚いた。


 かなり大きな声で楫本を呼ぶ声が聞こえた。


(まだ聞こえる。どうして?)


 辺りを見ると橋のたもとに段ボール箱があった。


 その中からだった。


(毛布?)


 乳児だった。


(赤ちゃん?)


 寒そうだ。それに哺乳瓶ほにゅうびんが空だった。


(お腹が……お腹がいているんだ。だが何も持っていないぞ……えっ?)


 握りしめた紙幣に気づいた。


 毛布の中に手紙があった。


 読まずにポケットに入れると赤ちゃんを抱き、歩き始めた。


(まだ首がすわっていない……)


 生後六か月未満だろう。


(何かこの子に……)


 楫本にはまだやらなくてはならない事が残されているような気がした。


 それがキッドだった。


(あれからうまくいった……)


 すぐに墨月弁護士に再会し、今の仕事をもらったのだ。


 跳開橋の管理室は宿泊施設になっており、家にも使えるのでちょうど良かった。楫本が感謝を伝えると、決まって墨月は「僕のほうこそ奥さんには感謝しています」と答えた。


 また橋が上がった。


 いつものように敬礼しつつ、船を見た。が、見えなかった。


(誤動作?)


 楫本が調べた。


 特に異常は見当たらなかった。


(自分が設計した機械だ。見間違みまちがうはずはない)


 橋がゆっくり降りて行く。いつものようにゆっくりと。


 駆けあがる音。


(キッドだ)


 足音で分かる。


かじモン大変だ! 人が倒れてる!」


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