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68.死神女が一王を逃がす

68.死神女が一王を逃がす


 死神は黒衣の女だった。若く美しい。派手な化粧はしていない。自然の美しさだった。


(自然か……)


 蝶の幼虫は青虫だったのを思い出す茶泉一王さいずみきみかずだった。


(この女の青虫時代はどうだったのか……)


 薔薇は美しく咲く前から棘を持っている。


 ソファーに座る女に、茶泉が熱い珈琲コーヒーを差しだした。


 豆からくのを、女は黙って机の上のノートに絵を描きながら見ていた。


 茶泉が口をつけてから女も飲んだ。


(熱さを感じないのか?)


 静かだった。


 茶泉はこんな女がベッドでどう豹変するか考えた。


(熱く燃えるのだろうか……最後まで冷静なのだろうか……)


 珈琲で火傷やけどしそうになる。


 この女が安全ではないことは明らかだった。人の感情を左右させる毒だ。恋する者には薬だろうが。


 女が銘柄を言いあてた。


 茶泉が個人的に特別に海外から仕入れている銘柄だった。


 壁時計が二時を示している。


 深夜だ。


 病院の茶泉の書斎だった。香り高いアロマが広がっていた。


「良く知っているな」


 心地良い。カフェインが適度の興奮と快感を導いた。


「珈琲は好きだから」


 女がBCC英語で返した。きれいな声だ。やわらかく甘い。


「それに……」続けた。「明細を見たわ」


 再度飲んだ。


(監視している、か……)


 美味しくなくなった。


「では、言いたい事は分かるだろう。それに話は、直接する」


 直接という単語にアクセントを置いて茶泉も英語で言った。同じく〝きれいな〟英語だった。


「理想と現実。泥に月は映らない」


 女はブラック珈琲のカップを置いた。


「直接対話だ」


「どうぞ」


 女が手を差しのべた。どうぞ何なりと仰ってください。盗聴はありません。そういう意味だろう。


「伝令に言うことは伝えた」


「私がその本人よ。あなたが会いたがった本人」


 若い女が微笑ほほえんだ。目の奥がやみに変わった。


「では」


 茶泉も可愛らしい柄の手製のカップを置いた。


「何を言いたいか……」


「……三度会いたいと言われたので、来た」


 口調は変わらずやわらかいが目が違う。決断の目だ。伝令の目ではない。


 本物だった。


「悪魔め」


 悪魔は三度戸を叩き、主人に三度入れと言われるまで入れない。


「それは正しくないわ。基本的に善よ。ゲーテもそう言っている」


「最終は、だろう?」


 ファウストに何者かと訊かれたメフィストフェレスが「常に悪を求めるも常に善となる力の一部です」と答える台詞せりふぐらい茶泉は知っていた。


「途中は違う」


「本人は納得してサインした」


 自分に罪はない口調だ。


「そうなるとは思わなかった」


「人生の最後を途中で知る人間などいないわ」


 女は残った珈琲を見た。冷めて縁に円が残っている。


まれよ」


 つけ加えた。


「契約破棄だ」


 女は笑った。


「『血の川もここまでくれば同じこと。行くも戻るもできぬなら、渡り切るしかないではないか』」


人間ひとを何だと思っているんだ!」


 茶泉はウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』の台詞を無視した。


「契約破棄は本人しかできない。あなたにその権限はない」


 冷ややかだった。


「答えろ!」


「会長は契約更改された。私たちはそれに批准ひじゅんした」


「答えろ!」


 女が静かにダーツ横の棚のトランプカードを取った。


 Beeのナローサイズカードだ。女がジョーカー二枚と明細を出した。


 トランプカードの一組十三枚で、四組五十二枚は不思議な枚数だ。一枚を一週間=七日とすると五十二週。五十二週×七日で三百六十四日。端数ジョーカー一枚で三百六十五日。さらにもう一枚でうるう三百六十六日。


 また、一組十三枚の一から十三まで数字を全部足して九十一。一つの季節の日数は九十一日(五十二週/四季×七日)。掛ける四組で三百六十四日。端数ジョーカー二枚は同じだ。


 遊戯ゲームは奥が深い。碁は十九目×十九目で三百六十一目。旧暦の一年を表している。


 女は五十二枚のカードから、さらに二枚自然に引いた。


 残り五十枚を机の上に静かに置いた。


 女が手を差し伸べた。


「どうぞ」


「何だ」


 女が棚の古書『易経』を見てから、上を指差した。「天にけ」という意味らしい。


 しぶしぶ茶泉が手に取り深呼吸した。


 カードで易を立てる。本来は筮竹ぜいちくで行うが代用できるし、違いはない。


 易経は立派な文学だ。単なる占いではない。人生の処世術が書いてある。そのどれもが黄金の言葉だ。


 孔子も愛読した。韋編三絶いへんさんぜつ――革のひも三度みたび切れるほどだったという。「君子くんし豹変ひょうへんす」や「積善せきぜんの家に必ず余慶よけい有り」「尺蠖しゃっかくの屈めるは伸びんがため」などの言葉の出典だ。


 週刊誌の星占いと易経では、占星術と天文学の差ほどある。錬金術と化学の差だ。もっとも最後の錬金術士はアイザック・ニュートンだったが。


 易を含め占いを深めると世界の全体がだいたい〝る〟ことができるとわれる。極めると、いついつどこで何が起こるか分かるという。


 人の寿命も正確に分かるが、ルールで人には教えられない。


 徳を身につけた者が〝る〟ことができるという。徳とは、身を飾るものでなく、人の死を免れ、難を解き、患を救うものだ。


 女は、茶泉が易を立てている間にノートに続きの絵を描いていた。


 曼荼羅まんだらだ。金剛界曼荼羅こんごうかいまんだらに似た九会曼荼羅くえまんだらだった。


 精神分析医カール・グスタフ・ユングの描いた曼荼羅に似ていた。左上は「自我」左中は「意識」左下は「個人無意識」だった。


 ユングの曼荼羅では縦にその下に「集合無意識」「不意識化(決して意識化されない)集合無意識」と続くが、その曼荼羅は「集合無意識」は中下に、「不意識化集合無意識」は右下へと続いていた。


   ユング曼荼羅「自我」「意識」「個人無意識」「集合無意識」「不意識化集合無意識」


   女の曼荼羅 「不意識化集合自我」「不意識化集合意識」「不意識化集合無意識」

         「集合自我」    「集合意識」    「集合無意識」

         「自我」      「意識」      「個人無意識」


 女はさらに曼荼羅に×字と+字を描き、因果律と共時性、時間と空間とを描きくわえた。


 ×字で、「自我」は「不意識化集合無意識」と因果律で結ばれ因縁が分かるし、「個人無意識」は「不意識化集合自我」と共時性で結ばれ共時性が偶然ではないことが分かる。その逆も。


 +字は、時間と空間がより鮮明に分かる。右へ行くほど大人だ。集合体としての完成度は高まる。もちろん、因果律と共時性、時間と空間を入れ替えても理解できる。


 女は未来が見えたようだ。「自我」はやがて「集合自我」や「宇宙自我」へ発展するだろう。


 そして、ヒトという生物が神を見られない理由も理解できた。神を「不意識化集合自我」だとすると、決して意識化されない「集合自我」だから、見えないのは当然だ。


 女は満足して、今度は別の絵を描く。


 茶泉が終え、その絵を見て考えた。


(易は「個人無意識」で「不意識化集合自我」に答えを聞くようなものかも知れない。あるいは「個人無意識」が「不意識化集合無意識」に作用して「自我」に影響させているのかも)


 見られた女は途中で止め、卦を見た。


   九九九 九六六


 茶泉の目がくもった。


「……天山遯てんざんとん


 遯は「のがれる」を意味する。


 茶泉は目をつむって天をあおいだ。


(三十六計逃げるにかず)


 患者の入れ替えや臓器売買。そして金……何もかもが視界から消えていった。走馬燈。


 かつて南宋の朱熹しゅきが同じ卦を得たということを茶泉は思い出した。


「知っていたようね」


 女がそう言うと、ブリーフケースからパスポートを出した。


「するまでもなかったな。そうだ。知っていた」


 易に親しんだ者なら風を見ても分かる。


「認めたくないが……」


 カードを集めた茶泉が天を見た。


 蜘蛛が一匹いた。


あやめないのか?」


 茶泉がパスポートを受けとった。


「今は」


「いずれ、か?」


 蜘蛛はもういなかった。


「どの道、人間ひとは必ず死ぬ。生きていれば」


 生という言葉を強調した。


 茶泉がパスポートとクレジットカードをブリーフケースに入れ、珈琲カップを持って立ちあがった。


 身体が重かった。眠っていないのもあった。


 ゆっくり歩きながらふと気になり聞いた。


「そう……名前を聞いていなかった」


 黒衣の女は座ったまま振り向かなかった。


「死ぬ前に、ね」


 死神の名を聞くのはまだ早いようだ。


 扉が静かに閉まった。


 女はデスクから書類を出した。


 突然、緊急救命室(ER)からの内線が響いた。


 部屋に誰もいなかった。


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