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67.无冥とスマイルス

67.无冥とスマイルス


 仕事中に名前を言ったのは初めてだった。


 名乗ること自体久しぶりだった。


 名前など普段使わなかった。


 陸緑朗くがろくろうの下で働いている時は无冥むみょうだった。


 仕事がない時は〔リラクシン〕で皿洗い(プロンジュール)をしていた。「生活感も必要だ」と緑朗ロックが言ったからだ。


 タイムカードの「プロンジュール」という日系フランス人の名は適当だ。名前など他人が使うものだ。自分から名乗らなかった。


 一度顔を変えた。鏡を見ても自分だという気がしない。見知らぬ他人だ。写真のない前の顔を思い出せない。思い出したくもないが。今の顔は仮面だった。自分をいつわる。


 本当の自分は分からなかった。分かるのは命令は絶対だということだけだった。


 命令はスマイルスから受けた。むかし気質かたぎのスマイルスは「女子供を殺さない」――「ノーウーメン・ノーキッズ」だ。今どき流行はやらない。


 だから本部からロックが来たのだろう。


 そのとき本部があるのを初めて知った。想像するより組織は強大だった。


 今でも命令はスマイルスから受けているが、直接の上司はロックだった。


 二人のスタイルは全く違っていた。


 スマイルスはいうなれば個人経営者だった。案件の全てに関わっていた。


 ロックとの仕事で知ったことだ。比べなければ分からなかったろう。


 全部に関われば、必ず仕上げる絶対的な信頼感はあったが、できる案件の数が自然と限られる。目標にもなるから敵も多くなる。今でもバー・カウンターの下にAK−47(カラシニコフ)が二丁あるに違いない。


 ロックは前に出るようなことはしなかい。自分を「いち黒衣くろごだ」と言っていた。


 自然に自分を消せる人間はそういない。


 ロックにだけは殺されたくなかった。絶対に。


 ロックの仕事にはいつも余裕があった。遊びとも言える隙間だ。その隙間は人間の心の闇の破片だった。


 敵対者が隙に入ればそれは即、死を意味した。


 どちらがやりやすいかと聞かれればスマイルスだろう。


 機械的だ。徹底的に殲滅する。


 ロックの仕事はより人間に近い。それも闇をのぞいた人間の。


 ロックは恐ろしかった。闇の底にいるようだ。闇の住人。


 そのロックの命令だ。


〝山田春女を逃がせ〟


 スマイルスなら目撃者は殺すだろう。誰であれ、躊躇なく。


 ロックが逃がした理由は知らない。


 无冥が知る必要はなかった。


 スマイルスは聞きたがるだろう。


 山田鳩太郎の情報から出た敵対する工作員を殺したのはスマイルスのスリーパーだ。スリーパー=眠らせる人=殺し屋。


 今回の无冥は掃除人だった。ロックの指示だ。死体を運び、血液を分解させる薬品で証拠を消した。


 派手な殺しだった。血が多すぎる。確実だったが無駄が多い。


 プロでも一流ではない。センスがない。


 山田春女がどうしてそこにいたかは知らない。


 しかしロックは予見していた。


 无冥を配置した理由、逃がした理由、何故なぜと言う疑問が残る。が訊くような危険はしない。


 二度目も春女は酔っていたので大丈夫だった。


 危険を承知で素面で来た時にあれだけ注意したのに、鳩太郎の前で言うとは。


 敵味方両方に盗聴されているのに。


 无冥は春女を針で仮死状態にした。


 救急車が茶泉学院大学附属病院に運んだ。


 死亡診断書作成は外科主任茶泉一王医師だ。


 隣で蘇生させて裏から出した。誰にも見られていない。監視する立場の「目」や実行部隊の「手」の工作員はすでに処理されている。


 残っているのは何も知らず盗聴している「耳」だけだった。


 処理された工作員は今は海外だろう。


 茶泉が販売・輸出している臓器の過半数がロックの指示だ。


 死体の再利用リサイクルだ。全て金に変わっていた。それに臓器にパスポートは必要ない。書類も自前だ。


 スマイルスはそれが許せないようだ。敵を根絶やしにしても敬意を払う人間だった。敵の墓を掘り証拠を消しても、敵の遺体をどうこうしないタイプだった。


 スマイルスにしてみればロックは首に髑髏どくろをぶら下げているようなものなのだろう。


 无冥はどちらでもなかった。ただのナイフだ。良く切れる。持ち手が変わっても切れ味が変わることはなかった。


 女に名を呼ばれた時、昔の記憶がかすかによみがえった。前の顔の記憶の断片だ。記憶のしおりのような女性にそう呼ばれた。


 だから女を抱いた。記憶が二重になるように曖昧になるように。


 沖から見えないように、アスコットのライトを全て消して止めた。


 曲がマーラーになった。「巨人」だ。覚えている。


 曖昧な記憶から涙が自然と流れた。止まらない。


 女が言った。交響曲第一番ニ長調「巨人」は「葬送行進曲」だと。違う女が言ったのかも知れない。


 沖の船の人影が一つになった。


 涙が止まらなかった。音楽は続いていた。


   *


 无冥が英語で静かに「終わった」と言った。


『終わってねえ! 理由は何だ』


 スマイルスが電話口で言った。同じく英語だ。


「ルールだ」


 无冥の口調が変わった。


何故なぜ逃がした?』


「ルール通りだ」


『何がルールだ。覗き(トム)を処分しろ。それがルールだ』


「ルール通りだ。上に従う。それもルールだ」


『基本だろうが! 見られたんだぞ。どうして報告しない? ロックの指示は話せないとでも?』


「それがルールだ。今の話は報告しない」


 必要以上に話すな。それがルールだ。


 切る。



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