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66.楽譜(2)/宇一としおり(2)

66.楽譜(2)/宇一としおり(2)


 時間指定で朝に届いたのはバッハの楽譜だった。


「『シャコンヌ』……」


 淳も作品は知っていた。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」はヴァイオリンの名曲だ。


 旋律ならそらんじられる。


 やわらかい旋律が脳裏に流れた。うっとりする曲だ。


 楽譜にはブラームス編曲とある。「左手だけで演奏」とも。


 ピアノに編曲されていた。


 原曲のバッハは四弦のヴァイオリンだからこそ、あえて左手だけで演奏するのが淳に分かった。


 淳は楽譜が正確に読めない。楽譜は全部諳記していたから。


 頭の中の鍵盤に、音符と頭のヴァイオリンの旋律とを重ねた。


 左手が自然に動いていた。名曲だった。


あに、どうしたの?」


 しおりがにこやかに聞いた。


 昨日きのう一昨日おとといまでは泣きそうな顔をしていた。


 二日酔いだ。かなりきつかったようだ。


 起きてから事情を聞き、素直にしおりは謝った。


 そして、お見舞いにき宇一に抱きついた。宇一は耳たぶまで真っ赤にして照れていた。


 淳はしおりに理由を聞かなかった。本人も反省していたし、他の友人にもだいぶ言われたようだ。楽しみにしていた旅行が中止になったのだから当然だろう。


 最後は「生きててよかったね」で笑っていた。


 旅館のキャンセル料は当日キャンセルで全額支払いだったので、週明けにしおりは足らずを淳に借りて全額を一人で振り込んだ。


 しおりが「いつか話します」と言ったが、聞くことはないだろう。「悪いことはしていないから心配しないで」と言うしおりが子供のようだった。


 平悟郎は軽い捻挫だったらしいが二週間休んでもらっていた。休んでもらったほうが全体の進捗しんちょくが良かった。


 謝りに来た宇一は「お車を弁償します」と言ったが、保険の代理店でもある墨月から保険会社に話は通していたので「しおりと話してください」と淳は言った。今度は二人で決めていくだろう。金を出さない淳は口を出さなかった。


   *


 楽譜はていねいにビニール袋に入れられ、厚紙でまっすぐだったので、雨にもかかわらずきれいなままだった。


「楽譜だあ。あに、読めるの?」


「大丈夫だよ」


「えーホントなの?」


「出かけるのか?」


「うん。宇一さんといっしょに、藍河さんのところに車を見に行くの」


手土産てみやげ持っていくんだぞ。お世話になったんだから」


「はーい」


 SVXの音が聞こえてきた。


(ずっと仲良く幸せでいてくれれば良いが……)


 淳のスマートフォンが鳴った。静蓮からだった。来週、神戸に両親と帰ってくるそうだ。再来週に必ず会う約束をして電話を切った。


 カレンダーに丸をした。


   *


 その夜、淳は夢を見た。


 広いコンサート会場だった。


 オーケストラをバックにチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」が演奏されていた。


 ピアノは淳自身だった。


 少年ではない、今の淳が軽快に両手で弾いていた。


 自分でも納得する名演だった。


 聴衆の感動が伝わってくる。


 だが、クライマックスで右手が遅れはじめた。


 演奏は変わりなく完璧だった。


 右手を気にせず弾いていく。


 が、左手も合わなくなる。


 手に痛みを感じ、見た。


 フックだった。


 血だらけになりながら両手が左右に引かれからまり動けなくなる。


 フックを引いているのは聴衆だった。


 音楽は続いていた。


 ピアノのキーは淳が押さえていないのに弾かれていく。


 さらに痛みが増す。


 音楽は際限なく続く。


 両手は動かないのではなかった。


 フックで動かされていたのだ。


 在りもしない空中のピアノを弾いていく。


 止まらない。


 同じフレーズが何度も何度も再生されていった。


 音楽が続き痛みが最高潮に達した時、天井を見上げ悲鳴を上げた。


 刹那、静寂の中、光の天上から天使の羽根のように楽譜が落ちてきた。


 静蓮の母から託された楽譜だった。


 ピアノのシャコンヌが淳の心を満たしていた。


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