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64.事故処理/東財邸

64.事故処理/東財邸


 藍河が作業を終えたのは、宇一としおりの二人が病院に着いたころだった。


(ふう……)


 溜息一つ。


 次の瞬間、急ブレーキの音がした。


(おいおい……)


 気がゆるむのはいつだって、最後の直前と決まっている。


「ふう……怪我は?」


「いいえ……」


 トラックの前輪が溝に落ちていた。


「どうして? ……そういうことか」


 側溝のグレーチングの一部がはずれていた。


(すると、あの時だな)


 平悟郎がトラックにかれかけたときだ。山壁に追突した拍子に、グレーチングがひずんだか何かしたのだろう。


(よけいなことをしやがる……)


「千客万来ですね」


〔ガレージ二十一〕の良雄も笑っていたが、声は冷静だった。すぐに無表情になる。


(ミスった……)


 事故は二次的に広がりやすい。そのための発炎筒だが、もう手持ちがない。


(そういえば箱が軽かった……)


 工場には四年の有効期限が切れた自動車用の廃棄品の山があるが、それは使いにくい。


 自動車用の発炎筒は五分以上となっているが、事故でパニックになっているとすぐに消えてしまう。


 その点、業務用は十五分燃焼する。


(まあ廃棄品でも使いようはあるけど……)


 BBQバーベキューの火起こしや、花火の着火に使える。


 良雄の父が救急車を、動けないトラックの前でUターンさせていた。


 わめく軽傷の平悟郎が担架に乗り、頭を打った若いスタッフが歩いて救急車に乗った。


 サイレン。ドップラー効果。


 良雄の父が、電池が切れたようにキャリアの助手席に戻るとそのまま寝入ってしまった。疲れたのだろう。


(予後は問題ないってことか……)


 危険が去ったという合図なのだろう。


 結局、車を移動できないのでガードレールを外してレールごと積載した。


 鮎川のスタッフが養生シートで隠しながら「立入禁止」のテープを貼っていた。


 警察が来たが、人身事故ではないのですぐに帰った。他に仕事は山ほどある。


 コンチェルトは廃車だった。


(部品取りにもならないか……)


 全損で損害保険登録鑑定人アジャスターも納得するだろう。修理するほうが車両保険の金額より高くなる。


(明日連絡するか……)


 車は〔ガレージ二十一〕に置かせてもらうことにした。


(次は何がイイかな)


 藍河が中古車の在庫リストを頭の中で広げた。


(案外、東財さんが新車を買ってくれるかも……)


 淡い期待もある。


 積載車キャリアを降り、送ってくれた良雄さんにていねいに挨拶してアパートに帰った。


 雨は止んでいた。


 疲れていた。


 湯船につかる。


 緑の入浴剤。


 目の周りをマッサージした。


(スーツは使えないだろう。また買うか……)


 松葉の香りのするお風呂から上がって何か妙な気になった。


(何だ? 何かしていない)


 テーブルに、濡れたブリーフケースがあった。


(……SVXだ! 病院はすみに任せていたが行かなければ!)


 スマートフォンに着信。


(見なくても分かる。東財さんだ。かなり待たせているな)


 深呼吸を一つ。


「はい」


『藍河さんですか。東財ですが』


「こんばんは。まだ……今、向かっているんですが……」


 気持ちはそうだ。


『ありがとうございます。お手間を取らせてすみませんでした。今夜は遅いですし、よろしければ明日でも車はかまいませんが』


「明日は商談がありまして」商談などない。ミスは早く処理したい。「できれば今夜のほうが……遅くなりますが」


 拙速だ。


『そうですか。では自宅にお願いできますか? 病院はいづらくて』


「はい分かりました。それではいったん着替えに帰らせてもらってもいいでしょうか?」


『ええそうしてください。僕も着替えますので』


(ラッキー!)


 住所と電話番号をメモして通話を切った。


 髪の毛をドライしながら段取りを考えた。


(帰りは濡れたドマーニだから、新聞紙とビニール。濡れてもいい服だけど接客用……スーツか。駐車場までアコード? 急ぐ必要はないからタクシーだな)


 歩ける距離ではない。


 いつものスーツに必要なものを入れたバッグを手に道に出た。


 雨はすっかり上がっていた。


 月夜だった。


 タクシーを拾い、駐車場に向かった。


〔バー・アヴァロン〕のネオンが灯っていた。


(今はよれない)


 SVXに乗るのは、藍河は初めてだった。B6――水平対向六気筒はスバルの他はポルシェだけだ。


(良い音がする)


 フェラーリのBBベルリネッタ・ボクサーは正確には一八〇度V型エンジンで水平対向ボクサーエンジンではない。最近のポルシェもスバルの技術だ……。言い出せばキリがない。日産スカイラインR32GT−Rはスバルの技術だ。ブルーバードのアテーサも。


 正直ホンダに乗っているとスバルの音に慣れない。


(ボクサーエンジンも排気系を変えれば直列と同じ音がするらしいが本当だろうか……ホンダの4WDか……)


 メモにある住所に来たが、背の高い壁が続くばかりだった。


 防犯カメラが区画ごとに複数あった。


(門はどこだ? あった)


 すでに門が開いていた。


 中に入ると、自動で閉まった。


(金持ちか……)


 丘に向かって、カーブが続いた。


(あえて、カーブを造っている? 4WDを乗る理由かな)


 噴水があった。


(あるところにはあるんだな……)


 実際に見るのは初めてだった。自宅の噴水を。


 邸宅の離れにある巨大な車庫前に停められているドマーニの後ろにけた。


 建物の正面部ファサード意匠デザインはゴシックだった。


 見上げる。かなり高い。


 奥にベージュのベントレーがあった。その横にポルシェ。


(おお涙目!)


 996はあまり人気がないが、最初の水冷エンジンだけに藍河の評価は高い。


 ドマーニのボルドーレッドパールが光っていた。


(洗ってくれた?)


「こんばんは」


 声をかけたのは東財宇一だった。ダークネイビィのチャーチのローファーに、オフホワイトのリーバイス501はボタンのみでベルトなし。上はダークブルーのコットンシャツを着こなしていた。


 シャツのメーカーは分からなかったが、藍河のひと月の給与では足りないはずだ。


「こんばんは。お待たせしました」


 深く礼をした。


「ありがとうございます。今日は大変ご迷惑をおかけして……よろしければ中にどうぞ」


 宇一も同じだけ頭を下げた。


「ありがとうございます。でも、今日は失礼いたします」


「そうですか……」


 ブリーフケースを渡し、キーを交換した。


 バッグから新聞を出した時だった。


「時間があったので……」


 シートを乾かしてくれたらしい。


 れる。濡れた感触はない。


「(どうやってあの時間に乾かしたんだ?)ありがとうございます。わざわざ……」


「わざわざはこちらのほうです。お蔭で助かりました。本当にありがとうございます」


 もう一度深く礼をした。


「では、失礼します」


 藍河の車が見えなくなるまで、宇一が見送っていた。


 慣れたドマーニらしく、帰りのほうが早く門に着いた。


 安全確認をして公道に出ると、ドアミラーに自動で門扉が閉まるのが見えた。


(早く眠りたい……)


 今は〔バー・アヴァロン〕に行く気はなかった。


もえぎさん……)


   *


 宇一が自分で車庫に入れた。


(シートを元の位置に戻してくれたのか……しかし)


 宇一が、藍河の運転から「かなり走り慣れている……」と口にした。


(今度ゆっくり話がしたいな……オイルをきちんと交換している車の営業さんか……)


 奥で母の声がした。


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