63.墨月/宇一としおり
63.墨月/宇一としおり
茶泉学院大学附属病院に墨月信行がいた。
理事長室で電話の受話器を横に連絡を待っていた。
ピョートル・チャイコフスキーの調べで、エドガー・ドガの踊り子が舞っていた。
墨月の横にいるのは女だった。
若く美しい黒衣の女性。
「天命か……」
墨月が言った。
女が静かに頷いた。
(天網恢恢疎にして失せず)
電話はまだ鳴らなかった。
*
鮎川しおりが病棟の個室で眠っていた。
墨月が前もって用意したものだ。淳では鮎川のスタッフを管理できない。
「何でこんなになるまで飲んだんだ」
平悟郎は足のギプスを撫でながら言った。
十七時まで仕事をした平悟郎が事情を知って、適当に走らせていたところ、事故現場に遭遇した。まったくの偶然だが、平悟郎の行動にはこうしたことが多い。
しおりと宇一は、いちおうX線撮影をした。異常はない。平悟郎も。
大げさに痛みを訴える平悟郎を黙らせるのに、石田医師は巨乳の看護師にギプスを大きめにするよう命じた。
淳はしおりの傍らにいた。
これでは明日は行けそうになかった。
(明日電話をしよう)
宇一が淳に事情を説明した。
学校を中退した元同級生の子と、朝から飲んだらしい。
迎えに行った宇一が、その帰りに事故に遭った。
宇一を責める気は淳にはなかった。しおりが朝から飲まなければこんな事にはならなかったのだから。それに宇一の性格は幼いころから知っている。不用意に何かする人間ではなかった。唯一のミスは助手席に乗せたことだったが、二人とも無事で何よりだった。
平悟郎の足より、スタッフの頭が淳は気になった。
念のため七日、特別休暇を取らせ同僚に送らせた。
(ふう……)
さきほどまで大変だった。
(個室でよかった……)
淳が姿が見えない墨月に感謝した。
それにしても鮎川のスタッフの声が大きい大きい。
「……大丈夫ですか?」
「……大丈夫だってさ」
「……静かにしろって」
「……病室だぜ」
「……押すなって」
(みんなのアイドルだからね。しおり)
一目だけ顔を見させると、すぐに全員を帰らせた。
美しいしおりが静かに眠っていた。
うとうとした淳が夢を見た。
宇一と結婚するしおりだった。
(ウェディングドレスを母に見せたかったな……)
ブーケを見知らぬ美女が受け取った。




