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57.淳の過去

57.淳の過去


 鮎川淳の顔にしわができたのは、大学入試を控えたころだった。


(これも運命か……)


 父の忠が倒れたのだ。


 代表が倒れたら、会社の業務は立ちゆかなくなる。川中島かわなかじまの戦いで、武田信玄たけだしんげんが倒れたらどうなるか。素人でも理解できる。


 第一の原因は、金城高施きんじょうたかしが抜けたことが大きかった。諸葛亮しょかつりょう抜きで北伐ほくばつをするようなものだ。史実、赤壁せきへきの戦いで曹操そうそうは負けている。曹操は「(夭逝ようせいした)郭嘉かくかが生きていれば負けなかった」と述べている。


 社長の忠は高施に頼っていた。


 もちろん、そのために来てもらったのだし、その恩に答えるべく高施は働いた。


 しかし、結局は安月給で使いつぶしただけだった。


 文句の一つも言われれば忠の気も安らいだが、高施は自分の甲斐かい性を知っていた。それだけに高施の心配りは行きとどいていた。


 顧客からの失望の声も多い。


 任せていたことのすべてを判断しなければならなくなった忠は倒れた。


 部下をかばっていた高施が去り、避雷針がわりの平悟郎へいごろうもいなくなり、不祥事が表になった。相談できる上司がおらず、多くの部下が「バレても、まあへいさんのせいにしておけばイイか」と放置していた事案が明るみになってしまった。


(潮時だな……)


 企業コンプライアンスの問題から、昭和末期から平成にかけての悪しき慣習を止める時期だった。


(やっぱり墨月先生の言うとおりになってしまった)


 鮎川淳が業務を引き継いだのは成り行きだった。


(墨月先生の言うとおり、高施さんを社長にして引退しておけばこんなことには……)


 ある種ののろいなのだろう。子に事業を継承させるということは。


(お家騒動か……)


 淳が貧乏くじを引いてしまった。


 ともあれ、人のために何かをするという意味では生き方を変える必要はなかった。


 淳は十八そこそこだったが、業務の流れは分かっていたので急にどうこうはなかった。


 淳が現場に出かけ「問題ありませんから」というと、自然と職人は安心した。対抗していた山田栄の山田鳩太郎も二十歳から社長をしている。若輩だろうが何だろうが、先陣を切る将に皆はついていく。


 心配は忠だった。軽いといっても心筋梗塞しんきんこうそくだ。合併症が懸念けねんされる。


 淳は仕方なく副社長に就任した。


 その間、平悟郎は個室で不平不満をらしていた。口がきけたら、看護師ナースにもう一度顎あごを割られても文句がいえないレベルだった。


 淳に不安があるとすれば、その平悟郎のことだった。


 忠は平悟郎を切れなかったが、淳は切らなければ先はなかった。半年で平悟郎が退院する前に全てを終わらせたかった。


 淳は墨月に相談した。「平悟郎の持つ会社の株」をどうにかしなければならなかった。取締役でもある平悟郎が株を持つ限り苦悩は続く。


 墨月は平悟郎が「新築の一戸建てを欲しがっていること」を茶泉学院大学附属病院の看護師ナースから確かめると、新築の一戸建てと株とを交換する作戦を立てた。


 東緑が丘が成功すれば上場も可能だった。株価は何倍にもなる。そうすればますます平悟郎は株を手放さなくなる。その前に一戸建て分の対価ですむ話だった。


 兄の忠が倒れたことも知らずのうのうとベッドで寝る平悟郎に、淳が頭を下げた。


 あごの件は淳に非はない。というよりまったく無関係だ。そんな甥を許し、聞かれるままどんな間取りにするかペラペラと話し始めた。


 すぐに青写真(設計図)をつくって、そのまま造ることを紙約束した。契約書だ。


「これで俺も一国一城の主だ」


 平悟郎が退院するころには完成していた。


 平悟郎に基本的な会計の知識はなかった。一般には不動産は資産とみなされるが、それは相手からみて利益になるだけであって、その不動産から利益が発生しない限り、あまり有益とは考えられない。


 契約書から、不動産の受け取りと同時に株の返却がなされた。そもそも、入院中に取締役の実務はできない。


 すべての株を得て鮎川淳が代表取締役社長に就任した。代表権なしの顧問として鮎川忠、監査役として墨月信行が就任した。


 復帰した平悟郎は壁紙クロス貼りの部署を任せた。役職は常務。ただし取締役ではない。ヒラの常務だった。


 平悟郎の給与は普通に支払われた。平悟郎は役職より金が好きだった。


 淳は法律家になるため勉強だけは続けていた。


 ある時、大学入試センター試験で隣席だった美しい女性と再会した。


 希望の大学に合格できず女子の浪人もどうかと親に言われ、会社員になっていた。


 笑顔がとても綺麗な女性だった。誰に聞いても彼女はマドンナだと言われていた女性だった。


 淳の理想だった。


 彼女と初めてデートした時、運命の女性だと思って求婚した。


 確かに理想に思えた。


 事務も手伝ってくれた。


 結婚してしばらくして子供もできた。


 淳に似た可愛らしい女の子だった。


 ちょうど忙しい時期に入っていた。


 帰りは遅くなる。


 叔父の平悟郎には一戸建てを建てたが、家族はまだ仮設住宅だった。


 妻は「家が欲しい」と言いつづけた。「まだだ」と言っても聞かなかった。


 ローンの支払いが始まっている顧客も同じ仮説住宅なのだ。先に建てて住むわけにはいかなかった。


 無論、株のことは話さなかった。墨月からの命令でもある。業績はまだ安定しているとは言いがたい。情報が漏れ、今この時期に買収合戦などゴメンだった。


 妻の母にまで言われた。「家をつくっているのに家の一つも家族にあげられない」と。


 余裕はなかった。


 予定外の平悟郎の家で必至だった。


 妻の母は体面そとづらを気にしているだけの人間だった。妻は単なるお飾りだった。中身がなかった。


 知ったときには遅かった。


 墨月に相談した。弁護士の同席の許可を得てから、妻の実家で話をした。


「もう少し待ってくれれば家は可能です」


「ではそれまで株をよこしなさい」


 妻の母がそう言った時が限界だった。


「仕事に口出しはめてもらおう」


 淳は言った。


「慰謝料はたっぷりいただきますからね」


 法律に詳しい妻が言った。妻の母の目が細くなっている。


(義母さんの入れ知恵か……)


 後は墨月に任せ、外に出た。


 娘が庭で遊んでいた。


 今の自分に育てる力は残っていなかったが、淳はいちおう本人に聞いた。


「お父さんとお母さんどっちと住みたい?」


 喋り始めた娘は頭を傾け、しばらく考えてから「お母さん」と言った。


「どうして?」


「おとうさん、あえない」


 確かにそうだった。帰ればいつも娘は寝ていた。休日も朝くらいか。


 協議離婚から、墨月は慰謝料の計算をした。


 淳の役員給与は節税から他の従業員以下だったので、かなり減額された。


 実際、毎日がやっとだった。


 だが、娘の養育費はきちんと支払った。


 元妻が慰謝料をめぐって裁判を起こしたが墨月の圧勝だった。そもそも、娘に無議決権株式むぎけつけんかぶしきの生前譲渡がなされている。母子が生活に困窮こんきゅうすることはない。


 娘の戸籍は、淳の戸籍から元妻の新しい戸籍に入った。元妻は実家の戸籍には戻れない。離婚した配偶者は、自分で戸籍を作る。そこに養育する子供の戸籍を入れる。


 元妻の「バツイチ子持ち」という言葉は正しくない。ふつう別れた妻の戸籍にバツはない。自分と子供二人だけだ。


 一方、夫の戸籍にはバツが二つある。抜かれた妻と子供のバツが二つだ。ただし、元妻が夫の戸籍に入っていた場合で、元夫が妻の戸籍に入っていた場合は逆になる。


 淳はもう一度、法律を勉強することにした。


 そういえば「結婚します」と報告した時、墨月だけは静かに「おめでとう」と言っただけだった。


 二人になったとき聞いてみた。


「こうなると分かっていたんですか?」


「言っても結婚しただろう?」


 墨月はワイングラスを傾けながら言った。


「恋は魔物さ」


 経験あるように静かにとても静かに言った。



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