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51.藍河の苦悩(2)

51.藍河の苦悩(2)


 藍河がエンジンをかけてから、黒のダブルの上着を右後席のフックで吊っている黒いワイヤのハンガーに丁寧ていねいにかけた。


 イージーオーダーだった。


 既納客きのうきゃくの店で作ったので、それほどお金はかかっていない。仕事に使う紺のダブルも全てオーダーしている。市販の吊るしの二割増しくらいだった。


 体型は成人してから変わっていないのでいつも生地を選ぶだけだった。


 ダブルなのは夏はエアコンで冷えても大丈夫なように。冬は寒さ対策だった。


 プライドとして、上着を脱いで接客などできなかった。ワイシャツ――シャツは下着だ。必ず上着を着用した。


 ベストを着れば良いのだが、三ピースはダブルより全体たけが長くなるので座るとすそしわがよる。サイドベンツは上着を着てシートベルトをするためだった。


 藍河はこだわっていた。


 時短が叫ばれる時代になっても、車の営業は今も苛酷だった。だからこそ余計に気を使った。


 スーツは消耗品だからこそ安物買いの銭失いはしたくなかった。


 吊るしの服ではすぐにしわになり使い物にならなくなる。


 だからこそのイージーオーダーだった。


 生地はそれほど高くなくても身体に合っていれば皺もよらず、長持ちする。


 それに何百何千万もの商品を売るのに皺の服はプライドが許せなかった。


 だからこそ高級車レジェンドを販売していた。レジェンドがカタログから消えた後も、ホンダの代名詞アコードを売っている。


(好きな物だからこそ売れる)


 藍河はそう信じていた。


(自分が使って納得いくからこそ売る)


 営業としては一流ではないだろう。だが、そうした人間を大切にしてくれる人もいるのも事実だった。こだわりを持った中小企業の社長に顧客が多いのもそうした理由だった。


 前は印刷会社でオペレータをしていた。


 DTPデスク・トップ・プリンターを使って、カタログを作っていた。


 優秀なオペレーターだった。


 優秀すぎた。


 印刷は納期が決まっている。


 印刷にミスがあっては使い物にならない。


 また印刷しなければならない。


 つまり、間違いがあれば残業してでも仕上げなければならない。


 藍河は一度で決めた。


 藍河の仕事は校正がいらないとまで言われた。


 営業は藍河を指名した。


 ある朝、藍河は気づいた。


 隣席の先輩たちより、自分のチームのほうが三倍仕事が多かった。それでいて給料は向こうのほうが上だった。


 正当な評価ではないと上に言ったが、返ってきたのは「印刷業は三十を過ぎないと給料が上がらない」という言葉だった。まだ何年もあった。


 そうした悪しき慣習は言い訳で、単なるブラック企業だった。


 藍河は好きな車の営業になった。それも今はあやうい。


 危機管理がなっていないのだ。


 顧客は好きだし墨月にもよく紹介してもらっていたが、上との軋轢あつれきは必至だった。


(最後まで意地を通すのが賢明か、それとも……)


 藍河は自分が経営者のつもりで営業していた。自社株を買うのは当然だった。自社持株会で大量に購入していたが、経営者を更迭させるほどの数はなかった。また、経営者が変わるまでは待てそうになかった。


 この間の件から藍河は持ち株を売ることにした。入社から計算するとかなり値上がりしていた。ここらが妥当な値だった。そう上がるとは思えなかった。


 その金で墨月の薦める医療関係の株に変えるつもりだった。


(「なくて困るより、あって困るのがお金だから」と墨月が言ったっけ。「お金は無能な主人にもなるが、有能な召使いにもなる」とも)


 温風が出て来た。水温計が上昇している。エンジンが温まった。車名ホンダ、型式E−CB4。グレード2・0Si。ホンダの基本、アコードだ。


 サンルーフを心持ち開けた。


 カバーだけ全開した。


 満月が輝いていた。


 バイザーの回転板の角度を逆に変えた。


 心地よい夜風が車内に流れた。頭がすっきりする。


 シートベルトをするとミッションをつなぎ、静かにハンドルを切ると後輪も連動して動いた。


 4WS。軽四並に転回する。


 ゆっくり路上に出た。


 墨月も恋をしていたんだと知って安心した。


 藍河と墨月は親しかったが深入りはしなかった。


 事故で下半身が動かなくなった理由も藍河は知らない。


 ある実験をしていて被害にったのは他所よそから聞いていたが。「でもその分、勉強はできた」と墨月は言っていた。他にすることがなかったのだろう。


 施設にいたころはあまり仲良くなかった。


 何を考えているか分からない静かな人間だった。


 墨月に言わせると「今藍河が営業をしているのが不思議だ」そうだ。「人間があまり好きでないのに」と。「特定の人間が好きじゃあないだけで、全員がそうじゃあない」と言うと墨月は笑っていた。「お互いにな」と。


 式の後の食事時に「本当に何もなかったんだ」と墨月が弁明した。


 三人組に追いかけられた淳がスマイルスの店に逃げ込んだ話を墨月は聞かせた。「その時、彼女は淳しか見ていなかった」と言った。「今もそうだ」とも。


(恋か……)


 二十のころの藍河は毎日女の子とデートしていた。


 毎日だから複数だった。最高五人。


 でも何かつまらなくなった。


 それほどイイ娘がいなかったから?


(みんな振り返るほどの女性だった……)


 車が好きだから?


(車好きでも結婚している人は多い)


 奥さんにあれこれ言われるのが好きじゃあない?


(そうかもしれない)


 墨月に言われたように人が好きじゃあないから?


(真剣に愛していたと思っていた。当時は)


 今から考えると言い訳だった。する事がないからデートしていただけだった。


(寂しかったのかもしれない)


 そして仕事に夢中になった。仕事が命だった。


(それも今は……。――今日は頭がえすぎる)


 少し寒くなり、シフトの合間にサンルーフ・バイザーの角度を変えた。


 CB4が峠に消えた。


 遠くからホンダ特有のDOHCサウンドが聞こえた。


 負け犬の遠吠えではなかった。


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