43.春女と无冥(6)
43.春女と无冥(6)
涙が止まらない。
通話が切れたスマートフォンをハンサムボーイに返した。
しばらくしてアスコットが停まった。
安モーテルだった。
美しい女性がレイバンをかけて部屋に向かった。
途中、振り返って車の番号を確かめた。「7221」だった。
ハンサムボーイがスナップオンの工具で前後のナンバープレートを地元のものに替えていた。
(「7221」――ヒントはあったのに。十二月二十七日……誕生日。わたしの。今はもういない、前のわたしの……)
シャワーを浴びて髪を乾かしながら、渡されたパスポートを見た。
姓名欄に「劉雅玲」〝Liu Yaling〟とある。
台湾語でどう発音するのか不明だが、ラテン文字でなんとなく分かった。
ブリーフケースの中には新しいスマートフォンと、台仏と仏台の紙の辞書と、カナディアンクラブ(CC)ウイスキーがあった。
指紋認証でスマートフォンを起動させると、仏語で自分の名前が出てきた。
(サフィール・リウ?)
英語でいう「サファイア」だ。藍色の宝石。
ロックの仕事にソツはなかった。
フランス語の「サフィール」は男性名詞だ。海外では女性は公然と差別される。指摘すると「気づきませんでした」となる。
(これでしばらく遊べそう)
スマートフォンにはアプリが入っていたが、覚えるのは紙のほうが優先される。物理的に覚えたほうが学びやすい。
CCの封を切って、そのまま口にした。
(ここが胃か……)
胃の場所が分かった。
喉が焼けていた。
(酔えそうだ……酔いたい……)
ハンサムボーイが盗聴を調べてから、先にシャワーを浴びていた。
(わたしは逃げなかった)
どこにも行く宛はなかった。
安物のTVから天気予報が流れていた。
今夜のパリは雨だそうだ。
雅玲が泣いていた。
雨の音がした。
(違う……シャワーの音だ)
雅玲の泣き声かもしれなかった。
(緑朗に気に入られようとフランス語を勉強した日々。夜の新地を酔って運転した日々。そういえば、代議士になったらしい西川の新車を全損させたっけ。かなり怒っていたが、あの時も緑朗が……。鳩太郎に会って酔っぱらい運転を厳しく言われた。あの鳩太郎が……)
ハンサムボーイがシャワーから出てきた。
背中に傷があった。盲管銃創がいくつもある。
ハンサムボーイがソファーに横になり、目を閉じた。かなり疲れているようだ。
雅玲がベッドから起きると、ふらつきながら歩き、跪きソファーのハンサムボーイにキスをした。
(どうしてそんなことをしたかというと酔っていたから……そしてなにより肌さみしかったから……)
「あなたの名前を教えて」
「……ハンサムボーイ」
雅玲が笑った。顔を歪める。
(頬が痛い……最近、笑っていなかったみたい……)
「ホントウの名前」
「无冥」
(たぶんそれは殺しの名前……)
「そうじゃあなくて、ほんとうの名前。わたしにはもうないわ」
CCを飲んだ。ハンサムボーイに口移す。
「……了だ」
静かに言った。
「醸成了」
咳をした。苦そうだ。
「そうよかった。名前があったのね。わたしにはもうないわ。ほんとうの名前は……。……了……」
了のキスの味はCCで分からなかった。




