40.賛美歌/スマイルス/電話
40.賛美歌/スマイルス/電話
静蓮が初めて人前で歌ったのは賛美歌だった。
岡山の教会に慰問に行った時だった。
聡声もいっしょだった。
道中は揺れる車で大変だったが、いざ聴衆を目の前にすると聡声は落ち着いた。
伴奏はレイコ・リー。体調のすぐれないレイコは歌わなかった。
シスターと歌う美しい澄んだ賛美歌は「本当に神さまがいても不思議じゃあないわ」と静蓮に思わせた。
歌い終えた時、震えが止まらなかった。
感動したのだ。
(こんなに気持ちがいいなんて……)
静蓮には初めての経験だった。
聡声の「やったね」の笑顔が、静蓮の脳裏に今でも焼きついている。
ぷくぷくする前の聡声の最後の笑顔だった。
帰りも揺れる車だったが静蓮は興奮していた。
父のいう意味が分かったのだ。
音楽家になる意味を。女神に魅了される意味を。
聡声は疲れたのかぐっすり寝ていた。お土産にもらったキャンディはもうお腹の中だった。
帰った翌日に静蓮に届けられたのが、幸せのお裾分けだった。
支配人の陸緑朗が家まで持ってきてくれた。
緑朗が自宅に来ることは滅多になかった。
何やら父の励と話があるようだった。
静蓮は包みを開けてみた。
カードがあった。「鮎川淳」と綺麗な字で書いてあった。女性のような字だ。それとキャンディ。静蓮は恥ずかしさでいっぱいになって真っ赤になった。
(持ってきてくれたんだ。わざわざ)
カードに電話番号があった。部屋にあった電話を取ろうとしたが、外線は使われていた。
(どうしようかな……)
考えたが静蓮が行動に出た。静蓮の背をアヴェ・マリアの歌声が押した。
(何から言おう……)
言いたいことがいっぱいあった。
スマートフォンを持っていない静蓮はカードを手に外に出た。
公衆電話は、坂を下った〔バー・スマイルス〕の通路の角にある。
受話器を取り、お金を入れようとした。
(あっ!)
急いでいたので持ってきていなかった。
(こんな時に!)
ポケットを見た。十円玉もない。
(どうしよう)
「小蓮」
取りに帰ろうかとした時、声をかけられた。小蓮」は静蓮の愛称だ。「蓮ちゃん」みたいな呼び方だ。
見るとスマイルスが食材を抱えて歩いていた。スーパーの帰りらしい。
重いのか片足を引きずっていた。
「どうした?」
「スマイルスさんお願いが……」
「あいよ」
食材を静蓮に持たせると、小銭の財布ごと与えた。
受話器を持った少女が頼みごとなど電話代だろうと、髭のスマイルスが笑った。
「こんなに……」
馬蹄形の財布を開けると、けっこうあった。
「まあま、オレも幸せのお裾分けってやつだ」
言うと、そのまま店に消えた。
「え?」
静蓮には何が何だか分からなかった。
(幸せってさっき緑朗が……。まあいいか)
静蓮が電話した。
『はい、鮎川建設ですが』
男性の声がした。
「わたし静蓮と言いますが……」
『ああセイレンさんね。聞いてますよ。届きました?』
「ええありがとうございます。あのう――」
『――先に謝らせてください。こちらの方こそごめんなさい。今回はそれでお願いしますよ。いま担当の者が席を外してまして後できつーく言っておきますので今回はよろしく善処させていただくというコトで……』
「あのう淳さん……」
『――はい十三には伝えておきますんで、はい』
「今おられますか?」
『ですからいま席を外していると言ってるじゃあないですか。まだご不満でも?』
「すみません……」
『こちらもすみませんでした。次回はきちんとしますんでよろしくお願いします。では』
切れた。静蓮には伝わったのか微妙だった。
(たぶん伝わってない……)
けれど、すぐにかけ直す気にはなれなかった。アヴェ・マリアの歌声もここまでだった。
とぼとぼ帰る。坂を上る静蓮のポケットの小銭が鳴った。
(返さなきゃ……)
戻りカフェ〔バー・スマイルス〕に行くが表は閉まっていた。
磨りガラスから奥に人影が見えた。
ノックするが出ない。
ポストに入れようかと思ったが小銭をこのままで入れられなかった。分厚く入りきらない。
「……本当に――するんだな……」
中から声がした。英語だった。かなり癖がある。スマイルスだった。
「……ただし――オレは――するんじゃあねえからな……」
聞き取りにくい。
再度ノックしようとした静蓮だが、その手を止めた。大人の会話だ。
ゆっくり坂を上り帰った。足取りは来た時とは違ってかなり重かった。
ポケットの小銭が重く、服がずれて歩きにくかった。
(会いたい……)
唇に指先を当てる静蓮だった。昨日の感触がまだ残っていた。




