37.春女と无冥(4)/雪女(2)
37.春女と无冥(4)/雪女(2)
八雲立つ
出雲八重垣
妻ごみに
八重垣つくる
この八重垣を
素戔嗚尊の歌だ。
小泉節子が松江藩の小泉家の「セツ」として生まれたのは一八六八年(慶応四年)だった。禄高は五百石もあったが、時代の波に消えてしまう。節子は十八で一度結婚した。だが長く続かなかった。没落した小泉家を助けるため節子は織物工場で働いた。
ギリシア生まれのイギリス人ラフカディオ・ハーンが時代を避け出雲松江に来たのは一八九〇年(明治二十三年)だった。
日本語を上手に使えなかったハーンに節子は日本を案内した。
単なる日本の紹介ではなかった。節子の見た日本だった。節子の感じた日本だった。時代の波に飲まれた節子が幼いころ親しんだ日本の原風景だった。当時でさえ、もうない日本だった。
時代に翻弄された武家の娘と、文明社会という時代を避けた孤独な旅人が出会った。節子自身、懐かしい道のりだったのかもしれない。
節子の案内にハーンは迷わず日本に夢中になった。幼いころ片目を失い、終始何かに追われ生きてきたハーンにとって節子の日本は安住の地だった。節子は旅人の道祖神になった。ちょうど素戔嗚尊の父、伊弉諾尊を、黄泉の霊から守った岐神のように。
翌年二人は結婚する。ハーンも二度目だった。後にハーンは帰化し名を小泉八雲とした。
松江の冬は深く長い。山陰と呼ばれるだけある。春は地中深くまだ眠っていた。
そんなころ、ふつうに雪女がいた。ただし、本当の雪女は白い衣など身に纏ってはいない。そう、雪のように透き通る肌……。何も身につけてはいない。
吹雪で前が見えない。
風が囁く。
危険だと。
自分はどこに行くのか。
その問いに、雪が風に舞い、形作られる。
女だ。
こちらを向いた瞬間、息を吐いた。
吹雪かれる。
突風。
「はっ!」
寒さで目が醒めた春女だった。
一応下着は着けていた。ネグリジェにガウン。素足。
「何……?」
揺れている。
車だ。
(頭が痛い……)
「どこ……?」
見覚えのあるシートの柄。アスコットの後部席だ。
ベルトはしていない。倒れている。押し入れられたそのままだ。
「雪女」
運転席の男性が言った。ハンサムボーイだ。
「え? 何……御伽話でしょう?」
「現実だ。着替えて、シートベルト」
やっと落ち着いた。
(今は車の中。わたしとハンサムボーイの二人。着替えが上下ある。靴も。フェラガモ二十三番。棚の一番前にあったはず)
「どうして?」
着替えながら訊いた。ネグリジェを纏める。
「雪女」
「雪女がどうしたの? ねえ止めてよ。帰るわ」
スピード・メーターを見た。「一四〇」だった。
首でも絞めようかと思って、巻いたネグリジェを解いた。
(この速度じゃあわたしも助からない。でも妙に安定している。サスペンションでも変えているのかしら? 新地のオーナーはビルシュタインをおごっていた。アスコットに。あのころから車が好きだった。思い出した! 緑朗だ。彼に気に入られようと車を勉強したのだ。今ごろ……)
「ルール通りだ」
ハンサムボーイが言った。
「何? ルールって」
「必要以上に話すな。大事なことは絶対話すな」
「わたしが何を――しゃべった……」
怪談の「雪女」――男にあの夜のことを話された雪女は、子供を残し去る。
男は「絶対に誰にも話してはいけない」と言われていたのに、妻に話してしまう。本人に。
「(本人?)……鳩太郎が?」
絶句。
「(あの人が? 確かに後ろ暗いところはあったけれど、人を殺すなんて……)あの人が……殺したの?」
沈黙。
(必要以上に話すな……か)
カセットテープが反転した。バッハの「フーガ」(BWV 861)が静かに流れる。
(どこに行くのだろう……)
春女は曲の意味を知らなかった。
遁走曲。




