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35.春女と无冥(3)/雪女

35.春女と无冥(3)


 夢にしては現実リアルだった。


(どこ?)


 山田春女はオープンカーに乗りながら考えていた。


 あの裏路地を探した。二か所あるはずだった。


(一番目は……ホテル近く。あった。ここ!)


 ブルー・メタリックのメルセデスE200カブリオレ・スポーツ(BSG)を急停止する。


 後ろの車が追突しそうになった。


 怒鳴る後ろの男性に微笑んだ。


 春女に見惚みとれて静かになる。


(美人はお得!)


 路肩によせて降りる。


(こういう時、左ハンドルって便利)


 今日はいつでも逃げられるようにヒールのないフェラガモを履いていた。


 誰かといっしょに来ようかとも思った春女だが、説明できそうになかった。


 何かあれば学生時代陸上で今もジムで鍛えた足で逃げる気だった。気構えはできている。


 昼でも暗い通路を歩く。


 雑然としていた。


 踏んだゴミ缶の音が回廊に響く。


 壁は芸術だった。


 春女には理解不能の抽象画だったけれど。


 分かりたくもなかったけれど。


 つまずいた麻袋を見つけるが前のと同じか分からなかった。


 恐る恐る触ってみる。


 つんつん。


 ただの袋だった。


 安心した瞬間、急に風が吹いて袋が舞った。


「きゃー!」


 急いで表に向かって走る。


 オープンにしたままのE200に飛び乗る。


 まだ心臓がドキドキしていた。


 びっくりしたせいか、急に走ったせいか分からなかった。


(次はっと……)


   *


 なかなか見つけからなかった。昨日だというのに。


(……昨日? 本当に昨日?)


 そう考えると春女はあまり自信がなかった。


 似たような路地は何か所かあったが、あの路地ではなかった。


(どこ? わたしはどこ? ここはだれ?)


 疑問符が頭を木霊こだまする。


(昨日はかなり酔っていたから……)


 結局、起きたのは昼で、フェラガモを数え終え、軽くシャワーをしたらさっきの時間だった。


(あった!)


 メルセデスE200を急停止させた。後ろの車も急停止した。が、後続車が追突してしまう。


(あーあ。タイヤの匂いがする。ABSぐらい搭載すればいいのに)


 ※アンチロック・ブレーキ・システム


 にこやかに微笑ほほえんで振り返った。


 もうすでに二人の男性が口論していた。


 こちらを見ていない。


 その場から逃げた。追突は百%後続車の責任だ。前走車が悪質であれば別だが。


(悪質か)


 苦笑した。でも止まらない。走る。


 交差点で曲がって、曲がって、行けば裏に出るはずだった。


 二度左に曲がったが着かない。


 入り組んでいる。夢のように。


(着いた。たぶん。裏だ)


 先ほどの表通りのような人や車はいない。


 まばらに過ぎる。


 表の裏は裏だが、裏の裏は?


 カードは表。


 でも人生は。


 人生の裏の裏は?


 オープンを閉じて息を整える。


 昼の雑踏の裏通り。


 静か。


 でもその裏……。


 春女が今見ている路地は暗い。


 真っ暗よりやや薄暗いほうが恐い。真っ暗なら目を開けても閉じても恐怖に変わりない。


 薄暗いのは閉じるのは簡単だけれど開けるのは勇気がいる。まぶたを通して感じる光の強弱で動いている何かを見る恐怖だ。


 E200を降りた。


 セキュリティを作動させる。


 駐禁はないようだ。緑色のアコードが止まっている。


 良く見ると後ろに三つ窓がある。


 ホンダ・アコードでなくアスコットだった。姉妹車の。


 後期型FBT−i。


 路上駐車しているのだろう。ほこりが雨で流されていた。


 ほかにも何台かあったが妙に気になった。


 近づく。


(前に見た? デジャ=ビュ? もしかしてあの夜? どっちの?)


 自信はなかった。そうだとも思うし、そうでないかも。


 黒の内装のFBT−iを覗く。


 カヤバのジャッキが左後部席下の床に置かれていた。


(ジャッキで殴ったとか? どうせなら重いジャッキよりトンカチでしょ)


 助手席に黒いアタッシェケース。


(パソコンかな? 不用心だわ)


 左後ろのドアだけがロックされていない。ロックが上がっていた。


 春女はこの車種をよく知っていた。


 仕事の帰りに送ってもらったのが紺のFBX−iだったから。


 クラブのオーナーの車だった。


(きれいな顔をした悪魔みたいな男の……。名前はなんて言ったっけ)


 だいぶ前だから思い出せない。


(あれ? これも飲み過ぎ? まさか老化?)


 車のドアガラスに映った自分の顔を覗いた。


(わたし何してるんだろう)


 気になる車を後目に通路に向かった。


 瞳孔が開いた。


 高いビルの壁で風がささやく。


 場違いの春女だったが進んだ。


 入り組んでいる。


(昨日の場所だ)


 間違いない。壁は極彩色だった。


 記憶が蘇る瞬間、強烈な匂いが鼻をつく。アンモニアだ。頭が痛い。


(何? 何なの?)


 安物の香水のようだ。表に逃げる。


 袋はなかった。


(おわり。やっぱり夢みたいね)


 表に出たはずだった。あの追突した場所に。ところが裏通りだった。アスコットはまだあった。


 興味本位で近づく。


 左後ろのドアを開けた。


 その瞬間、押される。


「えっ?」


 中に倒れてしまった。


 ドアを開けようとするが開かない。


 押した男は車の前を回って運転席に。


 右の後ろも開かない。


(どうして? ロックが外れているのに! ――チャイルドロックだ!)


 気づいた時には男は乗っていた。


 酔っぱらった女の子が急にドアを開けないようにロックされていたのを思い出す。本来は子供用だけれど。


 鏡に映る顔。


「ハンサムボーイ!」


 微笑ほほえむ男性がアタッシュからスマートフォンを出した。数字をタップして電話する。暗記しているようだ。登録されていない。


「出してよ!」


 ハンサムボーイが、人差し指で黙っていろのサインを送った。


 言われて黙る春女。


 春女にも責任がある。


「あなた誰? ここで何してるの?」


 再度、黙っていろ。


 今度は本当に黙る。


「落とし物が見つけかりました」


 英語で話すハンサムボーイ。


「他にありません」


 ミラーを見た。後方を。


 春女が振り返った。車がなかった。


(E200! どうやってセキュリティを?)


「はい」


 電話を切るハンサムボーイ。


 春女が言い出す前に黙っていろのサイン。何も言えない迫力だった。


 すぐに今度は電話がかかってきた。


 通話する。


「終わった」


 今度も英語で話すハンサムボーイ。


「どういうことだ……ルール通り……」


 口調が変わる。


 春女は後ろから首を絞めようか考えたが、鏡でハンサムボーイと目が合った。


 予測しているようだ。諦めるしかない。


(ここで殺されはしないだろう。チャンスを見つけなければ……)


「ルール通りだ。上に従う。それもルールだ……それがルールだ。今の話は報告しない」


 切る。


「家に送る」


 ハンサムボーイが日本語で言った。アクセントは関西だった。でもどこの国籍かはわからない。


「え?」


 ジャッキを持ち上げようとしていた春女だった。助手席下に十字レンチが見える。


「……なんて?」


 エンジンをスタートさせる。シートベルトの警告音が鳴った。


「家に送る。静かにしていれば何事も起こらない。ベルトを」


「だって人が……」


 レンチに手を伸ばすのを止める。


(でもどうしよう?)


「あなたは何も見なかった。シートベルトを」


 春女はあきらめ後部右席でベルトを締めた。


 発進するアスコット。Uターン。


 二回切りかえした。前の車は4WSだったので一度だったのを思い出した。


「どこへ?」


 黙って運転するハンサムボーイ。


(静かだ)


 メルセデスの音とは全然違った。よく整備された車両なのだろう。比べる春女が変だったが。


 だんだん家に近づく。


 路上にE200が止まっていた。番号は「7221」――春女の車だ。


 静かに止め、ハンサムボーイが右後ドアを開けた。


「どういうこと? どういうことなの?」


 お静かにのサイン。


「何も見なかった。他人に話すな?」


 春女が訊いた。


 静かに頷くハンサムボーイ。


 E200に近づく。キーを出す。


(ない!どこで? 落とした? でも……)


 振り返るとハンサムボーイが投げた。


 キーだ。アスコットに押し入れる時に抜いたようだ。


 静かに笑うハンサムボーイは春女を残して消えた。


(助かった……)


 乗る。


 深呼吸をした。


 レカロのシートに沈む。腰が抜けた。


 ステアリングを掴んだが滑る。


 手を見た。汗だ。じっとりした汗が腰に残っていた。


 長い時間そうしていた。太陽がゆっくり傾いた。


 目下の坂で男の子がとぼとぼ歩いているのが見える。


(あっ!)


 後から来た母にいきなり殴られて、男の子の眼鏡が歪んでしまった。


 二人して小銭を拾っている。


 男の子が白い小袋を見せた途端、母が泣き出してしまった。


 二人で抱き合い泣いていた。


 場違いな気がした春女はエンジンをかけて発進させた。


 走り出してすぐ緑髪の少女とすれ違った。


(娘さんかな?)


 あまり何も考えられなかった。いつもより時間が長く感じられる。緊張したせいかも知れなかった。


   *


 帰った春女はお風呂に入った。


 高級な緑の入浴剤を一缶丸ごと入れてしまう。


(贅沢)


 赤松のかおりに包まれる。幸せだった。


 髪を乾かしていると車の音が聞こえた。


(鳩太郎だ)


 エンジン音でわかる。水平対向のスバル・レガシィだ。三リットルなので二リットルよりよけい静かだった。


 ガウンに着替え、フォルジュ・ド・ライヨールのソムリエ・ナイフでピノ・ノワールを開けた。新地しんちからの愛用品だ。バカラのデカンタに注ぐ。


 ドアを開けて入ってくる鳩太郎。疲れているようだった。


「お帰りなさい。早かったのね」


「ああ。帰っていたのか。早いな」


 ネクタイを緩める。


「ええお風呂お先にいただいちゃいました」


 注いだグラスを渡す。


「ああかまわん」


 互いにグラスを上げ乾杯して飲んだ。


 鳴らすと良い音がするが、大事にしたいので鳴らさなかった。


「うまい」


 ラベルを見て納得する。


「まだあったのか」


「取って置き用」


「何かあったのか」


 目を見ずに静かに鳩太郎が言った。


「いえ何も……」


 天井を見る。何もない。クロソイド曲線の模様があるだけだった。


「(何もない……)何もない記念日」


「もうすぐ楽になる」


「いつもそうね……もうすぐ楽になるもうすぐ……」


(今日はめよう)


 鳩太郎が目で責めた。


 香りを愉しむ。本物のピノ・ノワールだった。


「そうね。ワインが台無しだわ。――美味しい」


 ボトルを受け取りラベルを見る。


 無銘だ。日本では知られていない。


「とても美味しいわ」


 ゆったりソファーに座った。ライヨールを丁寧にく。


「ああ。確かに」


「何か月ぶりかしら」


「何が」


「二人でいるのは」


 デカンタから鳩太郎に注ぎ、自分にも注いだ。


「とても久しぶりのような気がして……」


「そうだな……三か月ぶり? ……もっとか」


 春女の入浴剤の香りがただよった。


「もっとよ。前はいつも二人で飲んでいたのに」


 その時、見つけたワインだった。


 コンテナに残っていたものを商社から直接買い毎日飲んでいた。


「今日……」


 鳩太郎が言いかけた。


「実は……」


 春女も言いかけた。


 二人同時だった。


「あなたから」


「お前から言え」


「いいえあなたから」


 春女が言った。


 鳩太郎は久しぶりに妻を見た。


 綺麗だった。


「ああ。緑が丘の用地買収がもうすぐ終わる。あそこを全部買えればやっと一息つける」


 鳩太郎がバカラを傾けた。


 春女が笑った。


「あなたがお仕事のお話するなんて……」


「何だ? した事なかったか?」


「いいえ全然。もっともわたしも聞きたくありませんでしたから、ちょうどよかったけれど」


「そうか。今度の件が片づけば楽になる。本当に楽になる」


 鳩太郎が遠くを見ていた。残りを飲んだ。


「お前のは何だ」


 デカンタの残りを入れる春女。


「何でもないわ」


「良いじゃあないか何でも話せ。どうせ滅多にない」


 そう久しぶりだった。


(この先あるかどうか……)


 春女は酔ってグラスを回した。ピノ・ノワールの香りが辺りにたつ。鳩太郎を見ていない。


「昨日夢を見たの……」


 風呂上がりで何も食べていないので酔いも早い。


 鳩太郎が飲むのを止めた。


「どんな?」


 春女を愛おしく見つめた。


「変な夢。おかしな夢よ。どうして?」


「いや……なに……気になってな……」


「やっぱり止めるわ……」


「そうか」


「でもどうしようかな」


 黙って妻を見つめる鳩太郎。ピノ・ノワールがバカラに螺旋らせんを描く。


「……男の子がお母さんに叱られてたわ」


「叱る夢?」


 二人に子供はいない。


「いえ……それは現実。妹もいたわ……二人で泣いてた……わたしはずっと見ているのが耐えられなくて」


 鳩太郎は黙っていた。ピノ・ノワールの弧が更に線を重ねる。


「それで帰ってきたの。でもそれが実は夢で、現実は別にあるのかも……」


「いっしょになっているのか」


「ええ笑うでしょ。この年で現実と夢の区別も分からないなんて……」


「そんな時もある」


「え?」


親父おやじが亡くなった時、そんな気がしたよ」


 鳩太郎が続けた。


「当時は正直嬉しかったよ。よくしつけられてたからな」


 殴る真似。


「早く一人前になれってな。よく恨んだもんだ」


 バカラの線が切れそうになる。


「そう……初めて聞いたわ」


 バカラを手にソファーに深く沈んだ。眠りそうだ。無意識にデカンタを注ごうとするが残っていないので、起きて次を開ける。


「誰にも話したことはないからな。親父が亡くなってすぐ会社が乗っ取りにあった」


 鳩太郎が話した。


「親父が一番可愛がってた男だ。確かに切れ者だったよ。良く世話になった」


 溜息をつく。違う意味の世話だ。


 春女が注いだ。


「それが亡くなるとすぐ手の平を返しやがった。甘ちゃんだったせいもあるんだろうがな。いなくなるとその存在に気づくもんだ。……誰しも。……親父は偉大だったよ。二十歳になる時に全員ぜんいんくびにした。夢のようだったよ。それまでの……現実の、親父が亡くなってから会社をぐまでの三年間は長かった。それが長い現実だった。それが今や逆だ。今や会社にいるのがずっと現実で、あの三年間が夢のようだ。戻りたくはないが懐かしい時代だ。原点さ」


「そうだったの」


ははの時は……」


 鳩太郎が我に返って、春女のバカラに注いだ。


「それより君の話は?」


「……お金を拾っていたわ」


「誰が?」


「二人がよ。男の子とお母さんが。……変ね。娘は二人を見ていたけど近よらなかったわ。なぜかしら。それに白い包みも拾っていた。何かしら」


「その子が夢かもな」鳩太郎が言った。「二人は現実でその娘さんが……」


「それこそいっしょになってるわ。わたしが見たのは母と息子と妹。夢はハンサムボーイよ」


 鳩太郎がすっとグラスを置いた。真顔だ。


「なに?」


 春女が言った。


「雪女だ」


 鳩太郎が残念そうに言った。


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